『もしも僕に十字架が』

 

肌身はなさず身に付けて居た筈の十字架。
眼が覚めた時、もう、それは無かった。
護送車から逃げた時はまだあったはずだ。
やはり、海の中で落したのだろうか。
神父様が下さった、大切な十字架。
僕が、あの教会に居て良いのだという、証。
無くしてしまった。
教会も、神父様も、十字架も、居場所も。
何もかも。
だから、もうどうでも良かった。
眼が覚めた時は恐れた死も、自由への渇望も。
今は、あの人の役に立ちたい。
もう、それだけしか考えない様にしよう。


「……」
まだ水気の残る髪にタオルを被せ、少年はユニットバスを出た。
しゅん、と音を立てて滑り開く扉を潜り、見慣れた部屋へと戻る。
少年に宛がわれた部屋は二部屋。
寝食の為の部屋と、その奥のユニットバスと物置のある小さな小部屋。
少年はパイプ椅子に腰掛け、ぐるりと部屋を見回す。
室内は先程までの情交の色を濃く残しており、少年は窓があれば良いのに、とぼんやりと思った。
扉を開け放つにしても自動扉だし、何より実験以外で彼が部屋を出る事は叶わない。
換気口はあるのだから、まあその内消えるだろう、と少年は結論づけた。
「…87、88、89……」
少年はベッドの下に並べられた糸屑を数える。
三食終える毎にタオルから一本引き千切った糸を置いておく。
そうして少年は己がどれほどの時をここで過ごしているか、大よその判断を付けていた。
「…もうすぐで、三ヶ月くらい…」
そして、彼が己を抱くようになって、一ヶ月。
切っ掛けは、いつもの薬剤実験。
効果自体は全身が痺れ、動けなくなるものだった。
部屋へ戻されてからも暫く動けなかったが、彼がやって来てその体に触れた途端、変化は起きた。
肌が、過敏にその指先に反応したのだ。
どうやら薬の副作用らしいのだが、男は可笑しそうに笑っていた。
偶にはこういうのも良かろう、と彼は笑いを滲ませた声で少年に覆い被さった。
意識が朦朧とし、ひたすら彼を求めた少年に真っ当な判断など下せるはずも無く。
全てが終わってから漸く正気に返った少年は泣き出さん勢いで謝り倒したが、それにも男は笑いを堪えているようだった。
そのまま済し崩す様に、少年は彼に求められればおずおずとその体を差し出した。
「不謹慎、だよね……僕が、こんな……」
少年は糸を十本ずつの束に纏めながら苦笑した。
自分は単なる実験体。
彼に拾われたから、彼が自分をどうするのも彼の自由。
彼は小珍しく、そして聞き分けの良い玩具程度にしか思っていないだろう。
けれど。
「……僕は…」
ぎゅ、と手にした糸の束を握り締める。
「僕は……」
僕は、どうすれば良いのだろう。




「スカール様、サンプルコード9の薬物抗体が基準値に達しました。体調も良好。博士たちがすぐにでもサイボーグ改造の手術を行ないたいとの事ですがいかが致しますか」
「……良かろう。すぐにでも開始せよ」
「はっ」
彼の部下は深々と一礼をし、部屋を出ていった。
「……」
しんとした広間に男は立ち去る事もせずじっと座っていた。
とうとうこの日が来てしまったか、と思う。
そして瞬時に漸く来たのだ、と思い直す。
そうだ、あの少年は元々そのつもりで攫って来たではないか。
「今更、何を……」
覆面の下で、男は微かに苦笑した。


変だな、と思ったのは食事がカプセルと栄養剤に変わった時。
他には水以外口にするな、と念を押して言われた。
要は、胃とか、体の中を空っぽにするのか、って何となく察した。
となると、次の実験は吐いたりする様なものなんだろうか、とか思ってちょっとやだな、と思った。
そんな食事が七回続いて、いい加減体重が落ちてきそうだな、と思い始めた頃、呼び出された。
二日振りくらいに部屋を出て、いい加減馴れた道順を行く。
「……」
目的の扉の前に辿り着くと、右手をパネルに当てた。
ピ、と短い電子音の後『サンプルコード9、指紋認証。入室ヲ認メマス』と電子的な女の声が響いてしゅん、と扉が開いた。
「脱いでこの上に横たわりなさい」
「…はい」
拒否権は無い。
少年は羽織っていた服の紐を解き、備付の籠に落す。
言われるが侭診察台の上へと横たわると、手足にベルトが巻き付けられる。
何の実験なのか聞かされていない少年は一層不安になり、戸惑いの視線を彷徨わせる。
けれど、単なるサンプルである自分に答えてくれる者などいるはずも無く、麻酔を打たれ、マスクを当てられる。
恐怖や不安はやがて訪れた強い眠気に遮られ、ただ漠然とどうなるんだろう、と思った。
それを最後に、意識は途絶えた。


妙な夢を、見た。

辺り一面真っ暗闇。
体も、思うように動かない。
けれど、敵の気配は直ぐ近くにある。
どうしてそれを敵だと思ったのかはわからない。
けれど、どうにかしてそれを倒さなくてはならないと思った。
自由になるのは両脚だけで。
眼を閉じていても気配はわかったから、蹴りだけで何とかならないだろうか、と思いながら相手の攻撃を避ける。
あれ、なんでこんなに身軽なんだろう。
…ああ、そうか。これ、夢だから。

『戦え』

その途端、ばっと体が動いた。
力いっぱい気配に向かって蹴り上げる。

がしゃんと音がして気配が減る。

なんだ、人形か。
人だったらどうしよう、って思ってたけど、これなら良いかな。

『全て破戒しろ』

ほら、してもいいって。

気配に向かって脚を蹴り上げたり下ろしたりする度に気配が減っていく。

呆気ないなあ、と何となく思っていると、まだ二つ、気配が残ってた。
その二つは、一撃で倒れてくれなくて。
頑張ったけど、だめだった。
すぐに体が動かなくなって。

そこで、夢は終わった。

ああ、変な夢。




「004、出ろ」
有無を言わせぬ博士の声に、004は無言で立ち上がる。
「今日の実験は終わったはずですが?」
取り敢えずの敬語でそう告げると、博士は予定が変わった、と返した。
「005と共にちょっとした実験に付き合ってもらう」
「005と?」
通路を歩きながら説明される内容に、004は微かに表情を歪めた。
「そうだ。…入れ」
通された先には既に005がいた。
よォ、と軽く挨拶をすると、相手もこくりと頷き返して来た。
「さて、君らにはサンプルと戦ってもらう」
博士の言葉に004はやはりな、と思う。
この部屋に来た時点でそれはもう分かっていた。
今度は何だ。機械兵か?機械動物か?
いい加減馴れて来たそれに004はひっそりと溜息をつく。
つい先ほど入って来た扉から何体かの機械兵が入って来る。
こいつ等と戦うのだろうか、今更?と思っていると、博士は出ていき、短い電子音と共に施錠される。
そして反対側の扉が開き、一人の研究員が車椅子を引いてやって来た。
「…何だ?」
それは、異様な光景だった。
研究員が引く車椅子に座っているのは、一人の少年だった。
茶色の髪が顔半分を覆っている。
背格好から歳は十代半ば頃じゃないだろうか。
異様なのは、その少年が拘束衣を纏っていた事だ。
あれでは腕はおろか、上半身はまともに動かせないだろう。
そして、その目も包帯によって閉ざされていた。
少年は意識が無いのか、ぐたりと車椅子に背を預けている。
『まずはサンプルと機械兵だ。004、005。お前たちは手を出すな』
少年について説明する気はないらしい。博士の通信が途切れると同時に車椅子を引いていた研究員が少年の腕に注射を打つ。
「…っ…」
針を抜いて数秒と経たない内にぴくりと少年の頭が揺れた。
かくん、と仰向いていた顔が項垂れ、やがてゆっくりと彼の意志を持って上げられる。
表情は包帯の所為で読めなかったが、恐らくまだ意識がはっきりとしていないのだろう、ふらり、と今にも倒れそうにふらつきながら立ち上る。
それを見届けた研究員は車椅子を引いて部屋を出ていった。
『やれ』
声と同時に機械兵が動き出す。
(おいおい、あんなんじゃ10秒と持たんだろう)
壁際で005と並び、それを眺めながら004は思う。
腕も塞がれ、視界も閉ざされ、使えるのは耳と脚だけ。
その上あんなふらふらじゃあ、一方的にやられるのがオチだ。
機械兵たちが一斉に少年に襲い掛かる。
終わりだ、と思った瞬間、それは覆された。
とん、と少年が跳んだ。
そして機械兵の輪の外へ小気味良い音と共に着地する。
「へえ…」
ちゃんと反応はするんだな、と内心で呟く。
少年は見えない目できょろきょろと辺りを見回し、ちょこまかと逃げている。
『戦え!』
逃げてばかりの少年に苛立ったのだろう、博士がマイクに向かって怒鳴った。

がしゃん。

「な…」
一瞬、何が起こったのか判らなかった。
少年に躍り掛かった機械兵の一体が、派手な音と共に壁へと叩き付けられた。
少年自身はこくん、と首を傾げている。
『良いぞ、全て破戒しろ!』
その声に少年は床を蹴った。
がしゃん、ごしゃ、がしゃん。
上半身を拘束され、視界も奪われているはずの少年は正確に、そして素早く機械兵を蹴り倒していく。
その細い足はたったの一撃で機械兵を冷たい床へと沈める。
『004、005』
己のコードを呼ばれ、少年に魅入っていた004ははっと我に返る。
『サンプルはあと五分ほどで動かなくなる。それまで相手をしてやれ。決して傷はつけてはならん。あくまで様子見のテストだからな』
「……了解」
耳障りな破戒音を立てて最後の一体が倒れた。
じっと少年の顔はこちらを見ている。
「仕方ない。少し遊んでやるか、005」
「……」
子供を苛めるのはシュミじゃないんだが、と004内心で付け加えた。



『そこまで』
少年が突然動きを止め、それを見た博士がそう告げる。
まるで操り糸の切れた人形のように崩れ落ちる少年を入って来た何人かの研究員が抱え上げ、ストレッチャーに乗せて運んでいく。
「お前たちも部屋へ戻れ」
研究員の言葉に二人は踵を返し、その部屋を出ていく。
「009の方はこの後更に調整を…」
「!」
009、という単語に一瞬足が止まる。
だが、素知らぬ振りをして彼は005の隣りに並んだ。
「…聞いたか。どうやらさっきの坊やが最後のサイボーグらしいな」
「……」
「……後少しだ。後少しで俺たちは……」
そこで言葉を区切り、004はひらりと005へ手を振った。
何時の間にか自室まで辿り着いてしまったようだ。
「それじゃあな」
「……」
小さく頷く005に背を向け、004は己が部屋へと戻っていった。
否、彼等にとって、それは牢でしかない場所だった。
だが、後少しだ。
必ず、この牢を破ってみせる。
自分達と同じく、何も知らずに改造されてしまったであろう哀れな少年と共に、自分達はこの檻を破り抜けるのだ。
そう、信じて疑わなかった。






(続く)

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