『もしも僕に十字架が』
このまま行けば、僕は 「乗って!」 少女の声にはっとする。 「何してるの、早く!」 諌めの色を含んだその声に、ジョーは視線を伏せる。 <僕の案内はこれまでだ> 再び聞えた脳内の声に、ジョーは伏せた視線を上げる。 <この先どうするかを決めるのは、君自身だよ> じっと、彼等はジョーを見詰めている。 <僕たちはBGの鎖で繋がれている。だけど、その鎖を自分達の力で強い絆に変える事も出来るかもしれない> このまま行けば、僕は 僕は 脚が、前へと踏み出した。 一歩。 二歩。 『009』 「!!」 001とは違う、脳内無線の低い声にジョーはびくりと足を止めた。 『戻るんだ、009』 振り返ると、逃げて来たばかりの通路に一人の男が立っていた。 「ぁ…」 髑髏の覆面に漆黒のマントを纏ったその男は、実体ではない腕を途惑うジョーへと伸ばす。 『009』 『009!』 男の声と、001の声が重なる。 「ぼ…僕は……」 ぎゅ、と胸元を掴もうとして空を切る。 そうだ、もう、十字架は。 『戻るんだ』 神父様に頂いたあの十字架は、もう、無いのだ。 「……」 きゅ、と床と靴の擦れる音が自棄に大きく響く。 「009!」 少女の声が踵を返したジョーの背にぶつかる。 だが、それが彼の決意を変える事は出来なかった。 「…僕が戻る代わりに、彼等を見逃してもらえますか。ずっとが無理なら、せめて今だけでも…」 「何を馬鹿な事を!お前も来るんだ!」 004の怒声にジョーは視線を伏せる。 「ごめん、みんな。僕は…」 十字架は、無くしてしまった。 「もう……」 『良い子だ、009』 無くしたく、ない。 「みんなは逃げて。僕は、行けない」 <……みんな、乗って> 「001!」 <009、必ず君は僕たちの元へ来る。必ず> 「……」 001の声にジョーは相変わらず視線を伏せたままだ。 他の00メンバーは後ろ髪引かれる思いでハッチを閉じる。 「……ごめん」 飛び去っていくそれを見詰め、呟いた。 『009』 ホログラム映像の男の声に、ジョーは顔を上げる。 『私の部屋へ来い。わかったな』 「……はい」 ジョーの応えに満足したように頷くと、男は姿を消した。 コズミ博士の屋敷に厄介になり、数日が過ぎた。 いつ追手が来るかと、皆神経を張り詰める日々に真っ先に耐えられなくなったのは002だった。 こちらから打って出るべきだと声を荒げる彼に、周りの反応は緩やかなものだった。 それが気に入らない002が更に声を荒げようと口を開いたその時、脳内に001の声が響いた。 『誰か来るよ』 はっと皆の視線が003の腕の中の001へと集まる。 『この気配は……009だ』 「本当だわ…009よ」 「!!」 001と003の声に周りの緊張が更に高まる。 彼は一人BGに残った。 あれから、一人で逃げて来たのだろうか。 それとも。 「……真っ直ぐこっちへ向かってくるわ…この家の前まで来てる」 ピンポーン… 来客を告げるインターホンが屋敷内に響いた。 「……」 だが、誰一人として動かないままじっと様子を窺う。 「…あっ」 003が短く声を上げると同時に窓が開け放たれる。 「あ、やっぱり此所に居た」 気配はあるのに返事が無いから、と彼はほんの微かに笑った。 「その…警戒するのはわかるんだけ…あ!」 突然大きな声を上げた009に一同はびくりとする。 「ご、ごめん!つい土足で入っちゃった!」 「……」 慌てて靴を脱ぐ009に一同は呆気に取られる。 「…で、何の用だ?」 本来真っ先に聞くべき事を思い出したのは、004だった。 「あの、これを…」 片腕でブーツを抱え、彼は腰に提げた銃を004へと差し出した。 「借りたままだったから」 「で、ご丁寧に返しに来た、と?」 皮肉混じりの声にそれでも009はそうだよ、と肯いた。 「それで?お前さんはまだBGの鎖を断ちきれずに居るのか?」 お前は敵か味方か。 暗にそう問われ、009は視線を伏せる。 それは、短い接触の中で彼が最も多く見せる動作だった。 「……」 「009、貴方はBGがどんな組織だか知っているの?それでも彼らに従うというの?」 「……何も教えてもらえないけど、それが良い事だとは思ってない」 「なら何故!」 003の問いに彼はきゅっと唇を噛んだ。 「僕は…あの人の傍に居たいんだ…」 「あの人?あの髑髏の男か?」 「僕が生きていられるのは、あの人のお陰だから…」 「じゃが、彼は君の教会の襲撃を命令した本人じゃぞ」 「え…」 伏せられていた視線がギルモア博士へと向かう。 「わしは君の改造責任者じゃった。だから君が運ばれてくるまでの経緯全て聞いておる。教会の神父を殺害し、火を放ったのはBGじゃ」 「う、嘘だ…あの人はそんなこと、一言も…」 「奴等もやりそうなこった」 004が溜息を洩らし、002が鼻で笑った。 002は凭れていた壁から身を起こすと、戸惑いに揺れる009の目の前まで歩み寄る。 こうして近くで見下ろす009の顔は、予想以上に幼い。 「お前、騙されてるってわかんねえの?いや、お前、わかってて」 「やめろ!」 002の言葉を遮り、009は頭を抱える。 「十字架はっ…十字架はもう無いんだっ!僕の居場所はあの人の元にしかないんだ!」 引き裂かれそうな、悲鳴じみた声で彼は叫び、窓の外へと身を投じた。 「009!」 慌てて窓縁へと駆け寄ると、彼は着地するなりそのまま街へと向かって駆けて行く。 「俺が…」 009を追って飛び出そうとする002を004は疎の腕で遮る。 「いや、俺が行く」 「おい…!」 004は返事もまたずに部屋を出ていった。 彼はただ我武者羅に走っていた。 彼がこの日本で目指す場所はたった一個所。 「…神父様…」 改造された体は加減の無い疾走にも息切れ一つ起こさない。 それが余計に少年を苦しめる。 神父様は死んだ。 神父様は殺された。 煙の匂いに目を醒まし、慌てて飛び起きた。 どの部屋を捜しても探し人は居なくて。 裸足のまま教会への外廊下へ飛び出した。 名を呼んで礼拝堂へ入ると、燃え盛る中、仰向けに倒れる探し人の姿。 その胸には短剣が深々と突き立っており、彼を中心に出来た血溜まりと微動だにしないその体が、最早彼がこの地上の何処にもいない事を示していた。 ――教会の神父を殺害し、火を放ったのは… ギルモア博士の言葉が脳裏に蘇る。 彼はそれを振り払うように頭を振り、立ち止まる。 焼け落ちた教会。 あの事件から、もう半年は流れているというのに、その周りには未だキープアウトテープが張られていた。 高さ二メートルほどに渡って張られたそれを彼は軽々と飛び越え、中へと向かう。 木製の扉は燃え付き、瓦礫を越えて中へ入ると内壁も炎の手に炙られ黒く煤けていた。 色鮮やかだったステンドグラスもほとんどが溶け落ちている。 「神父様!」 呼んでも、応えが無いのは判っている。 けれど、 「神父様!」 どうしても、彼に会いたかった。 「しん…」 礼拝台の手前、焼け跡とは違う黒い染みに、彼は恐る恐る膝を付き、指を滑らす。 「……っ……」 蘇る、炎の記憶。 抱き上げたその体は、力無く項垂れていて。 もう、二度と穏かな視線も、笑みも自分を包み込んではくれないのだと。 幸せは終わったのだと、思い知らされた炎の夜。 床を撫でる指はそのままに、もう片方の手で胸元を探る。 だが、煤で汚れた指先は空を切るばかりで、慣れ親しんだはずの感触は訪れない。 「やれやれ、漸く追いついたぜ」 「?!」 不意に掛かった声に少年は慌てて振り返る。 「よォ」 機械でない方の手を上げ、挨拶する彼に009は戸惑いの視線を向けた。 少年の目尻には薄っすらと涙が浮かんでおり、004は微かに顔を顰める。 「えっと…00、4?どうして…」 だが、逆光からそれに気付かなかった009の問いかけに、004はひょいと肩を竦めた。 「お前さんが俺の銃を持ったままなんでね」 「あ!」 指摘されて始めて、己が未だ彼の銃を持ったままだという事に気付いた。 そして裸足だという事も。 「あれ…僕、ブーツ…」 そういえば抱えていた筈のブーツが無い。 「何処かで落しちゃったんだ?!」 銃は手にフィットしていたので握り締めていたが、確か教会に着いた時に無意識に腰のホルダーに戻したような気がする。 因みにその時点で既にブーツを持っていた記憶が無い。 「これの事かい?」 小さな笑みと共に差し出されたのは、少年が落していったブーツ。 「ああ!ご、ごめん!!」 赤面しながら少年はくつくつと笑う男からブーツを受け取る。 「あ、あとこれ…」 差し出された銃を、今度こそ004はそれを受け取った。 「しかし、妙な話だ」 「え?」 軽く足の裏の土を落し、ブーツを履く少年はきょとんとして男を見上げる。 「敵に武器を返しに来るなんざ、お前さんくらいなもんだろう」 敵、の言葉に009は視線を煤けた床へと落した。 「僕は……」 「俺たちの元へ来い」 「……」 「俺たちの元では、お前さんの帰る場所にはならないかい」 いや、と男は微かに言いよどんで意を決したように言葉を紡ぐ。 「俺個人としては…その…できれば、俺の傍らに在って欲しい…」 004の言葉に009はばっと顔を上げた。 その大きな眼はこれでもかというほど驚きに見開かれている。 「ああクソ、何を言ってるんだ俺は…」 珍しく仄かに頬を染めながら頭を掻く男を、少年は食い入るように見詰める。 「…キミの…傍に……?」 「…ああ…。どうも俺はお前さんが気に入ったらしい。あの時、お前を無理にでも連れていくべきだったと思わない瞬間はないくらいには、な」 「004…」 半ば呆然と見上げてくる少年の頬に左手を添える。 鋼鉄の手を彼の頬に這わせるのは躊躇われた。 「009…俺は…」 「!」 途端、びくりと少年の体が震えた。 「009?」 「あの人が帰って来た!」 帰らないと!と慌てる少年の腕を004は捕らえる。 「004!離してくれ!」 「駄目だ、行かせない」 「004!」 僅かな触れ合いだけでも分かる。 この少年は自分達にその能力を振るえない。 力で捻じ伏せ、逃れる事は出来ない。 そんな、優しい少年なのだ。 「っ…ごめんなさいっ…僕は…!」 その言葉を最後に、少年の姿は掻き消えた。 「加速装置か!」 彼を掴んでいた鋼鉄の掌は、彼の腕がすり抜けたその摩擦熱に赤くなっている。 冷えるまでは水気に触れないな、と思いながら彼の去っていった教会を見回す。 炎に焼かれた神聖なる間は、今にも崩れ落ちそうだ。 「009…」 その姿があの少年と重なり、男は小さく舌打ちをした。 (続く) |