『ハンプティ・ダンプティ』

 

差し出されたMOをズボンのポケットに仕舞い込み、アリスはふう、と大きな溜息を一つ吐いた。
「改札口前からここまでだろ?たったそれだけの距離でそんなに息切らせてさ。運動不足なんじゃない?」
しれっとしてそう口角を歪める一回り以上年下の男にほっとけ、とアリスは憮然とした表情で右手を山沖へと差し出した。
「お手々繋いで警察直行便かい」
「また走る羽目にはなりたくないんでね」
「振りほどいてあんたを撒く自信はある」
「止めてくれると有り難いんやけど」
それにこれ以上ごたつくと違法駐車続行中の青い鳥がしょっ引かれてしまう。
「まあ、ここまで来た御褒美に大人しく捕まってやるさ」
細い目を更に細めて山沖はアリスの掌に己の右手を重ねた。
「そりゃどうも。っつー事でさっさと行くで!」
俺の青い鳥〜!と山沖の手を引いて駆け出したアリスのそのすぐ後ろから、小さな笑い声が響いた。



「あ〜、ギリセーフやったわ…」
何とか無事だった青い鳥に乗り込んで新大阪駅を出る。なあ、と助手席の声にアリスは視線は進路に向けたまま応えを返した。
助手席には当然のように山沖が座っている。座っている、というよりだらしなくずり下がって座席に引っ掛かっているような座り方だ。酔わないのだろうかとアリスは思う。
「ここで俺があんたに刃物を突き付けたらどうする」
「困る」
きっぱり即答した応えに、山沖は今一つお気に召さなかったようだ。そうじゃねえだろ、と不満気な声が上がった。
「せやったらきっちり路肩に止めてから両手を挙げて「火村タスケテー!」って叫ぶ」
笑いの欠片も見せずにそう答えると、山沖は声を上げて笑った。どうやら合格のようだ。
「そりゃ是非やってみてえな」
「止めてくれ」
目の前で黄色になった信号に舌打ちしてアクセルを踏み込み、ぎりぎり黄色の内に通過して再び緩める。
行きとは違ってそれなりの安全運転で天王寺署へと向かう道中、山沖はあれこれと語った。
入院していた病院の医師の愚痴、退院してからの就職先の愚痴…とにかく酔っ払いのように愚痴を綴った。
アリスはそれに特に何を言うでもなく、時折合いの手を入れる程度だったが、山沖もただ語りたかっただけのようで機嫌を損ねたりはしなかった。
「けど先生とあんたは嫌いじゃない。先生は俺の言葉を理解できたし、あんたは親切だ」
どう返して良いか判らず黙っていると、山沖はああもう着きやがった、と詰まらなそうに伸びをした。
青い鳥は天王寺署の敷地へと入っていき、手近な駐車場で羽を休める事とする。
車を降り、再び手を繋いで…端から見ると奇怪な光景だ…玄関口へと向かう。
「火村」
何処かから見ていたのだろう、先に到着していた火村がやって来た。その後ろには船曳警部や何人かの刑事が付添っている。
「よお、先生とその他、お出迎えご苦労様」
山沖が空いた手でひらりと手を振りけたけたと笑う。
愚痴ってすっきりしたのか山沖は先程から上機嫌だ。
「手錠掛けるかい?今の俺は機嫌がイイ。今なら大人しくしててやるけど?」
船曳が手錠を出そうとするのを火村が手で制す。
「このままで」
「イイのかい先生、逃げるかもしれないぜ?ほおら、今ここで」
そう笑う山沖に、君は逃げないさ、と火村は返す。
「アリスが掴んで居る限り、君は逃げない」
「……」
途端、山沖は無表情になった。
「??」
言われた本人は訳が分からないといったように片眉を微かに歪める。
アリスの手は優しいのだ。
柔らかく、けれど女性的ではない包み込む様な暖かな掌。
その掌に包まれる事がどれだけの癒しになるか、火村は身を持って知っている。
闇に堕ちかける自分を引き摺り上げるのは、いつだって彼なのだ。
山沖は詰まらなそうに首を傾げると、小さく舌打ちをした。
「負けたよ先生、完全に」
するりとアリスの手を抜け出し、山沖はさっさと建物の中へと向かう。
一度だけ立ち止まり、彼はアリスに向き合った。
「じゃあな、ハンプティ・ダンプティ」
そうして男は刑事に挟まれ建物の奥へと消えていった。
「どういう事やろう?」
微かに首を傾げて火村を見上げると、彼は愛飲している煙草のケースを取り出した。
「ハンプティ・ダンプティ自体よくわからないんだが」
「ハンプティ・ダンプティってのはジャバウォッキーと同じで「鏡の国のアリス」に出てくる卵や。アリスにジャバウォッキーの説明をしてくれる巨大卵」
「卵?」
そう、こーんなでっかいやつ、とアリスは身振り手振りで火村に伝える。
「ハンプティ・ダンプティで有名なのはマザーグースの歌やな。『ハンプティ・ダンプティ塀の上、ハンプティ・ダンプティ落っこちた。王様の家来をみんな集めても、ハンプティを元には戻せない』」
「……」
アリスの説明に何か思い至ったのか、彼は唇を指先でなぞりながら考え込む。
「…そういう事か」
すぐにそう洩らした火村に、アリスは何々、と答えを求める。
「どう足掻いても手に入れられない存在、そう言いたかったんだろう」





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「ジャバウォッキー」を読んでふっと浮かんだ小ネタです。ずっと書かずに脳内でグルグル回ってたんですが、いい加減文字にしないと忘れそうだったので書いてみました。
どうも私はそれぞれの犯人をアリスと絡めるのが好きなようです。純粋に火アリなり江アリを書こうと思わない自分がブラボー。マイナー魂、かなり健在。(爆)
(2002/08/18/高槻桂)

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