オトメチックエゴイスト〜第壱拾壱の夜〜


あなたの話を聞かせて。
あなたの事を聞かせて。
もっともっとあなたで私を一杯にして。
決してあなたを独りにしないから。





浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第11話「乾貞治の告白」



「忘れ物、無い?書類は?」
「持った」
正式に青学を辞めた翌日の夕方、裕太は家を出た。
「週末くらいは、帰ってきなさいよ?」
姉の言葉に裕太は生返事を返す。
「いってらっしゃい、裕太」
いつもの様ににっこりと笑う兄に、昨日の事もあって気恥ずかしい思いをしながら小さく「行って来マス」。
外まで見送ろうとする二人を恥かしいからやめてくれと押し留め、裕太は道路へ出る。
「……ふぅ…」
自宅から見えなくなる辺りまで来て、漸く裕太は肩の力を抜いた。

「あ」

自分の行く先に良く知った姿があった。
「乾さん……」
学校の帰りなのだろう。制服姿でいつもの鞄を背負っている。
「……」
裕太は何を言って良いのか分からず、止まっていた足を再び前へと動かす。
そのまま通り過ぎようとした時、乾の手が裕太の髪をくしゃりと撫でた。
「!」
その温もりに足を止めそうになる。
だが、髪に残るその温もりは一瞬にして風に奪われてしまった。
背後では、遠ざかる乾の足音。
振り返り、呼び止める事ができたらどれだけ。
「……」
それでも前へと進んだ。
裕太も、乾も。
振り返る事無くその場を立ち去る。
残るのは、秋の終わりと冬の訪れを感じさせる、冷たい大気のみ。

あの温もりに、さようなら。






辺りは既に薄暗い。校内に残っている生徒も数えるほどだ。
そんな中、男子テニス部の部室には未だ明りが灯っていた。
「こっちは終わったよ。そっちは?」
「もう終わる」
手塚の応えに乾は机上に散乱したプリントをかき集める。
「じゃあこっちは片付けておくよ」
一枚一枚を確認しながら順に並べて行く。
秋の暮れ、三年が正式に引退した。
そして当然の様に部長の座に据えられた手塚は、ただ自分のためにテニスをやっていた今までの様には行かなくなった。
全員の実力を把握し、見合ったメニューを組まなければならない。更には今までのメニューも考慮に入れるなど、やる事だらけだった。
「…いつも付き合せてしまってすまない」
同じく作業を終えた手塚がファイルを閉じながらそうぽつりと漏らす。
乾はいつも遅くまで残っている手塚に付き合っていた。
乾の情報処理能力は高い。お陰で作業は各段と早まり、助かっている。
だが、それは乾の時間を奪っているという事であり、それが罪悪感となって手塚を苛んだ。
「手塚、頼ることは悪いことじゃあない」
手塚の気質を知っている乾はそう言って苦笑する。
「だが……」
「俺が好きで手伝っているんだから、手塚は気にしなくて良いんだよ」
そう言って笑うと、まだすまなそうな色ではあったが、それでもほっとした様に手塚も苦笑した。
「それにしても、この二人…」
乾が名簿を差し出し、その名列の二箇所を指差す。
「ああ、海堂と桃城か。最近は更に力を付けて来ているな」
「今の所この二人かな。レギュラーとなり得そうなのは」
「そうだな……」
そこで不意に会話が途切れた。
「……」
明日の練習はどうするとか、このファイルがどうとか、お互い、まだ話したいことがあったはずだった。
けれど、訪れるのは沈黙ばかりで。
「…前に、ね」
先に口を開いたのは乾だった。
「不二に言われたんだ」
紡がれたのは、今話し合うべき部活の事ではなく、彼自身の事だった。
だが、手塚にはそれは無駄に思えず、むしろ彼が自らのことを語ってくれる事が喜ばしかった。
乾が自分の事を話すのは珍しい。
彼に一番近しいといわれる手塚ですら、よく考えてみれば彼の事を何も知らない。
彼の趣味も、食の好みも、家族の事も。
趣味ならデータ収集だと誰もが口を揃えて答えるだろう。だが、それは彼自身がそうだと述べたのではなく、彼の行動からそうなのだと思われているだけで、実際、それが本当に彼の趣味であるかどうかは分からない。
菊丸ら好奇心旺盛な面々が何度か問い尋ねた事があったが、その都度乾は巧みに逸らかしていた。
だからと言って、聞かれたくないのかと問えば、そういうわけじゃあないけどね、と彼は笑う。
「面倒臭いだけだよ」
そう笑いながら彼は多くを語らなかった。
その乾が今、自らの事を語ろうとしている。
この自分に。
そう思うと、どこか誇らしく感じた。
「危険だと、言われたんだ」
「危険?」
「俺はね、手塚や裕太君に優しくし過ぎなんだと」
不二も気付いていたのかと、手塚は知らず視線を伏せる。
「俺の優しさは相手を依存させてしまうとさ。だから裕太君から離れるように言われてたんだけど、俺はそれを受け入れなかった」
疾うに知っていた、と乾は淡々と告げる。
「裕太君の意見を尊重した、と言えば聞こえは良いけど、本当は全て自分のためだったんだよ」
「自分の?」
そう、と彼は自嘲げに小さく笑った。
「なあ手塚、手塚は裕太君が俺に依存していると思ったかい?」
「……ああ」
「なら、俺は?」
問われた意図が掴めず、眉を寄せる。
「俺が裕太君に依存していると感じたことは?」
「は?」
我ながら、間の抜けた声を上げてしまったと手塚は思う。
「裕太君が必要だった。だから俺から離れて行かないよう、俺に依存するよう仕向けた」
手塚が乾の言葉を理解するに数秒の時間を要した。
「…わざと…?」
何故か、息苦しい。
乾がそれを肯定すると同時に、それは増してゆく。
「そう。裕太君の望みを優先したのは、その方が俺にとっても都合が良かったからだ」
「彼が、必要だったから?」
「…いや、正確には違う、な。俺は、俺を必要としてくれる相手なら誰だって良かった」
誰より依存していたのは自分だと乾は告げる。
「俺は周りから思われるほど出来ちゃいない」
いつも手塚たちが見ていた余裕綽々な彼は微塵も無い。
「裕太君には悪いことをした」
最初は、他へ転校するべきだと勧めるつもりだった。
それが彼にとって最良の方法であり、その才能を伸ばすことができると乾自身、確信を得ていた。

――乾さん!

だが、自分に懐き、自分を必要としてくれ、その信頼を寄せられるうちに手放すのが怖くなった。

孤独を抱えた存在は暖かいものに弱い。

そう言ったのは不二だったろうか。
確かにそうだと思った。
乾のその無償の情が、手塚や裕太にとって心地良い微温湯であると同様に、裕太の好意は乾にとって手放し難いものだった。
何より独りになるのを恐れていたのは、裕太ではなく。
「俺の方なんだよ」
才能の芽を摘んでまで手元に置こうと思うほど鬼じゃあないけれど。
「身勝手に変わりは無いし」
ずるいよねと寂しげに笑った。
「……」
手塚はカタリと席を立つと、乾の傍らに立った。
「乾…」
「うん?」
乾の眼鏡を奪い、机に置くとピントのずれた目で見上げてくる。
「手塚?」
訝しげな表情の乾に覆い被さり、そっとその唇の端に口付ける。
「……手塚?」
顔を上げると、そこには驚きに目を見開いた乾の顔があった。
その行為自体に驚いているわけではない。彼らにとってそれは慰めたり、または励ましたりするそれと同じであり、性欲や恋情が絡むモノではない。
ただ、今までと違ったのは、それが手塚からだということだ。
常日頃からそれは乾から仕掛けるものだった。
手塚はそれを受け入れる専門で、自ら行動を起こしたのはこれが始めてのことだった。
「…俺が、いる」
そう呟いてそっと乾の頭を抱え込んだ。

お前の傍に、いるから。




(第12話に続く)
(2001/11/01/初出)
(2007/07/29/改定)

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