オトメチックエゴイスト〜第壱拾六の夜〜


ああもう本当にあなたってば!
どうしてこんな恥ずかしい事ができるのかしら!
全く、今が夜で本当に良かったわ。
きっと私の顔、見れたものじゃないもの。
だからいいの。
行く先が暗闇でも、もういいの。
あなたが一緒なら、それでいい。





浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第16話「乾貞治と海堂薫」


トンネルを抜ければ別世界。
そんなキャッチフレーズの映画CMを見た覚えがある。

見知った部室の扉を開いたら、色々な意味で信じられない光景が目の前に広がっていた。

「やあ」
「……乾、先輩?」
あの手塚部長が寝てるとか、それが男に抱きかかえられてという事だとか、その男が姿恰好からどうやら乾先輩らしい事だとか、最早何から驚いて良いのか分からなくなっている海堂はその目をただ見開くしかできなかった。
「海堂、だよね?今ちょっと眼鏡掛けてないからいまいち判別できないんだけど」
初めて見た乾の素顔を、何故か気恥ずかしさからか直視できず海堂は視線を床へ落とした。
「海堂、っす…」
眼鏡一つの有無でここまで印象の変わる人も珍しい。
この状況を全く気に止めていない乾の態度に、海堂はもしかして本当はそこに手塚は居なくて、己の幻なのかと疑ってしまう。
だが視線の先、乾に抱きかかえられた手塚が寝こけているのは現実で。
「良かった。で、忘れ物?」
淡々と述べる乾に、何でこの人はこんなに冷静なんだと海堂は内心嘆息した。
「あの…家の鍵を……」
思い当たるのか、乾は「ああ、」と机上の一点を指差した。
「それじゃないかな。海堂のロッカーの下に落ちてたヤツ」
指先を視線で追うと、確かにそこには見なれた鍵があった。
「それでしょ?」
「…っす…失礼しました」
頷いてそれを手にすると、海堂は小さく会釈をして足早にその場を走り去っていってしまった。


「……さて」
海堂が去ってから一時間近く過ぎても手塚は未だ寝続けていた。
余ほど疲れているのだろう。起こすのは忍びないが、これ以上校内に残るのはさすがに咎められてしまう。
「手塚」
声をかけて軽く頬を叩いてみると、薄らとその切れ長の目が開かれた。
「おはよう、手塚」
「?………あっ!」
はっとして手塚は乾の上から立ちあがった。
「すまない、寝てしまって…」
きっと親以外に寝顔をさらしたことなど無かったのだろう。
口元を片手で覆い、赤くなった手塚に乾は小さく笑った。
「やっぱ手塚もまだ子供だね」
その言葉に憮然としてみても、乾に抱かれて一時間以上爆睡してしまったのは事実なのだから何も言えるはずも無い。
「それじゃ、帰ろうか。早くしないと校門、閉められるよ」
「……ああ」
コートを着込むと、はい、と自分の荷物を差し出され、手塚は俯き加減でそれを受け取る。
「やっぱ冬だね。もう真っ暗だ」
部室を出て、鍵を閉める。
外気に晒されるドアノブは氷のように冷たい。ちゃんと鍵が掛かったのか確認するためにノブを回すが、それだけで手のひらの温度は急速に奪われてしまう。
「手塚」
乾の声に顔を上げると、ぬっと目の前に彼の手のひらが差し出された。
「何だ」
「手。冷たいデショ」
だからほら、と差し出された手に、手塚は苦笑して己の右手を彼の手に重ねた。
繋がれた手はそのまま乾のコートのポケット内へと導かれる。
「じゃあ、行こうか」
乾の手の温もりが自分の冷えた手を温めていく。
「ああ」
彼から自分へと体温が移っていくその感覚がとても嬉しくて、手塚は小さく微笑んだ。

嗚呼、今が、一番幸せなのかも知れない。

手塚は空を仰ぐ。
空は雲に覆われ星は無く、ただ暗い夜空が広がっていた。



(第17話に続く)
(2001/11/21/初出)
(2007/07/29/改定)

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