浅瀬を歩む君の滑らかな脚
第18話「浅瀬を歩む君の皇かな脚」 「海堂、一緒に帰らないかい?」 海堂の着替える手がぴたりと止まる。 「……良いっすけど…」 ちらりと手塚を伺うと、彼はすでに着替え終え、部誌を書いていた。 昨日の件を知らないのだろうか。手塚に反応は見られない。 「有り難う」 小さく笑ったその口元。 いつも通りの分厚い眼鏡。 その奥にはあの優しい眼差しがあるのだろうか。 「海堂?」 「な、何でもないッス…」 ついじっと乾の顔を見つめてしまった海堂は慌てて顔を伏せ、中断していた着替える手を慌しく動かした。 「昨日の事だけど」 校門を出て暫くすると乾はそう切り出した。 「…別に言いふらしたりしませんよ」 やはりと思いそう告げると乾は「有り難う」とまた小さく笑った。 「変な噂が立って大切な親友とギクシャクしたくないしね」 「親友?恋人じゃないんスか?」 つい口を滑ってそんな問いかけをしてしまい、海堂は慌てて口を噤んだ。 だが、乾は苦笑して違うよと否定した。 「確かに過剰なスキンシップだとは思うけど、手塚にはその方が伝わりやすいから」 「恋人じゃ、無かったんスか……」 「うん、親友だよ」 そう言い切る彼の苦笑にどこかほっとしている自分に海堂は驚く。 「それと、レギュラー入り、おめでとう」 橋に差し掛かったとき、不意にそう言われ、海堂は軽く頭を下げた。 「あ、有り難う御座います」 三年が抜けて初めてのランキング戦では手塚を初めとするいつものメンバーと、そこに海堂と桃城が新たに加わったのだ。 ――レギュラー入り、おめでとう 他の先輩にも言われたはずなのに、何故かこの人に言われるとくすぐったい気がする。 海堂は照れくささから視線を川へ落とし、はっと目を見開いた。 「あっ…!」 「海堂?どうかしたのかい」 海堂は鞄をその場に投げ出すと橋の反対側へ移り、慌てて上着を脱ぎ捨ると川へと飛び込んだ。 「海堂?!」 乾は海堂の荷物を拾い上げると下流の土手へと走った。 「海堂!」 土手沿いに下りると、ちょうど海堂が小さなダンボール箱を抱えて浅瀬に上がって来た所だった。 ぴしゃりと彼の濡れた靴が浅瀬を踏む。 その冬の水音は玲々と乾の耳に響き、彼を見つめる。 髪から、服から、全身から冷水を滴らせた少年は、そんなことなど気に止めていないかのように手にした濡れ箱を覗き込んでいた。 その様は、さしてどうというものでも無い筈だった。 「………海堂」 けれど、何故か乾は打たれたかのように立ち竦み、彼の名を小さく呼ぶのが精一杯だった。 「あの…すみません……つい……」 そんな乾の心情を知らぬ海堂は、己の突然の行為に呆れているのだろうかと視線を箱の中へと落とす。 ミャア、と箱の中から細く甲高い鳴き声が乾の耳にも届いた。 「猫?」 その鳴き声に漸くいつもの自分を取り戻した乾は、彼の抱える段ボール箱を覗き込んだ。 「はい…」 そこには真っ白のふわふわとした子猫が大きな瞳で乾たちを見上げていた。 「捨て猫か…今時川流しなんてベタな事する奴もいるんだな」 子猫の傍らには僅かなキャットフードが散っていた。 「これまた、見事な自己満足だね」 乾は自分の鞄からタオルを取り出し、海堂に渡す。 捨てた者が流したにしろ捨ててあったのを誰かが悪戯で流したにしろ、川に流されれば水が染み込み、または転覆して猫は溺れ死ぬしかない。 流される身としては餌があった所で有り難くもないだろう。 「……最低だ…!」 タオルで髪を拭きながら憎々しげに海堂が呟く。 「優しいんだね、海堂は」 ふと微笑してそう言うと、海堂はかぁっと赤くなった。 水に熱を奪われ、蒼白だった顔は今や真っ赤になっている。 「な、なな…っ」 赤くなって口をパクパクさせている海堂の反応が可笑しくて、乾はくつくつと小さく笑った。 「何言ってんスか!」 怒鳴る海堂からひょいと子猫を摘み上げて片手で抱くと、川原に置いた鞄を担ぐ。もちろん海堂の鞄も一緒に。 「早く温まらないと風邪を引く」 「あの、鞄…」 自分の分は自分で持つからと言う海堂に、「良いから」とやんわりと笑う。 「それより猫、どうするの?俺のマンションはペットオーケーだけど、ウチには犬がいるからなあ」 「あ、ウチに連れて行きます…すぐそこなんで」 橋を渡り、そこです、と海堂が指を指した。 海堂は玄関手前まで送ってくれた乾から荷物を受け取り、最後に子猫をそっと受け取った。 「早く風呂で温まって来い」 「あのっ」 それじゃ、と踵を返すと海堂に呼びとめられた。 「うん?」 「ありがとうございます」 振り返った先でほんの微かに笑った海堂のその笑顔に乾の目が丸く見開かれる。 この子はこんな風に笑うんだな、と遠くで思う。 「風邪、ひくなよ」 乾は小さく笑って彼に背を向けた。 背後でぱたりと扉の締まる音がし、耳を澄ませば家の中でぱたぱたと走る音が微かに聞こえてくる。 乾は海堂が慌てて風呂に向かう様子を思い浮かべ、小さく吹き出した。 「海堂薫、か」 乾の中で、何かが変わった気がした。 (第19話に続く) (2001/11/29/初出) (2007/07/30/改定) |