オトメチックエゴイスト〜第弐拾の夜〜


全くこの人は。
本当に何もわかっちゃいないんだから。
今私がどれだけ幸せなのか、あなたは知らないでしょう。
私の体温があなたの体温になる。
私の重みがあなたの腕を痺れさせる。
こんな幸せなこと、あっていいのかしら。
こんな幸せの中で眠りに就けるなんて。
もういいの。
このまま目が覚めなくても私、構わないわ。
これ以上の幸せが、見つかるとは思わないもの。
だからもういいの。
朝なんて来なくてもいいのよ。





浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第20話:「手塚国光、その視線の先」



「何で冬にまで、しかも年明け早々から合宿があるんだよ〜!」
朝早く、待ち合わせていた停留所にやってきた菊丸の第一声がこれだった。
「仕方ないよ。先輩たちも行ってきたんだし」
大石が苦笑すると、菊丸はだってだって!と唇を尖らせる。
「寒いし冷たいし寒いし寒いし寒いし!」
寒さに弱い菊丸は怒鳴り終えるとマフラーの中に顔を埋め、だって、と更に言い募ろうとするが、バスの排気音にころりと喜色を浮かべてぴょんと一飛びした。
「俺いっちばーん!」
菊丸がさっさと暖かいバスの中へと駆け込むと、後ろの方に見慣れたメンバーが座っているのが目に入った。
「ちーっす!」
「おはよう、桃」
「おっはよ〜!」
一番手前に座っていた桃城がひらひらと手を振り、それを皮切りにそれぞれのメンバーと挨拶を交わすと、二人は桃城とは反対通路の座席に座った。
「はい、これ今日からのメニュー」
声と共に、にゅっと目の前に何枚かのルーズリーフが現れる。
すぐ後ろに座っていた乾だ。大石はそれを受け取ると早速目を通す。
「うん、良いんじゃないかな」
一通り見たそれを返すと、そう、良かったと落ち着いた声が聞こえる。
「部屋割りは到着してから配る」
今度は斜め後ろ、乾の隣から声が届く。手塚だ。
席の空いている時は大抵一人で座る手塚にしては珍しい光景だ。
大石が何と無しにそれを指摘すると、手塚は決まり悪げに黙り込み、隣では乾がくすくすと笑った。
最近の手塚は柔らかくなったと大石は思う。ピリピリとした雰囲気が消え、接しやすくなった。
乾に感化したと言うべきだろうか。口調や態度が変わったわけではないのだが、何処か、暖か味が出てきた。
良い事だと思う。変わる事を拒んでいる様な感があっただけに、彼の変化は喜ばしかった。

良い事だと、思ったのだ。
少なくとも、この時は。





「たった二泊三日の合宿の割に豪勢だよね」
同室になった乾が荷物を解きながらそう言った。確かに中学の合宿のくせにちゃんとした旅館だし、部屋も三人一部屋だ。
「手塚、備品の数、確認終わったよ」
乾と手塚の部屋は一人分空く変わりに、スポーツドリンクやそのボトルやらの備品が持ち込まれているのだ。
「そうか」
そろそろ集合時間だ。二人はラケットを片手に立ち上がった。




「………」
ふと意識が浮上し、手塚は薄っすらと目を開けた。
室内はまだ暗い。枕元に置いた腕時計を見ようと体を捩った。
微かに突っ張るような筋肉の軋みに逆らい、腕時計を手繰り寄せ、夜光塗料の塗られた盤面に視線を落とす。
黄緑色に仄かに光を放つ盤面上の針は二時。消灯から三時間と経っていない。
腕時計を元の位置に戻し、隣へ視線を移すともう一組の蒲団の中で乾が寝息を立てている。
手塚は室内の冷気に蒲団の中で暖まった体温を奪われるのも構わず、静かに蒲団を抜け出して乾の傍らに座った。
見るのは初めてではなかったが、こういう時でないと見られない乾の寝顔をじっと見下ろす。
当然眼鏡は掛けておらず、いつもは柔らかな色を湛えたその眼も今は閉じられている。
「………」
その額に掛かった髪にそっと触れてみる。自分の髪より遥かに硬質のそれは手塚の指を受け入れ、そろそろと梳くと指の間を擦り抜けていく。
自分の髪とは違った感触がどこか可笑しくて、ゆっくりと髪を梳く手を往復させてみた。
「……てづか?」
不意に乾が目を覚まし、手塚は慌てて手を引っ込めた。
乾は寝起きでぼうっとしながらも起き上がると「どうしたの」と手塚を見た。
「すまない、起こす積もりはなかったんだが…」
髪を撫でていた事が知られた手塚は視線を落とし、しどろもどろにそう答える。
暗がりのためその表情は窺い知れないが、恐らく赤面しているのだろう。
「良いよ、気にしてない」
それより、と乾はにっこり笑う。
「一緒に寝るかい?」
そう言って乾は自分の蒲団の端を持ち上げ、手塚を誘う。
「ば、バカを言うなっ」
手塚が咄嗟にそう反論したが、乾が蒲団を下げる気配はない。
「ほら、早く入らないと蒲団が冷える」
小さく笑いながらそう誘う乾に、手塚は押し黙り、結局渋々と乾の蒲団の中へ入っていった。
「いつから座ってたんだい。身体、冷え切っているじゃないか」
そう言いながら乾は手塚を抱き締める。染み込んで来るような乾の温もりに、手塚は言い表せないほどの幸福感に満たされ、眼を細めた。
「こら手塚、聞いてる?」
多少諌める色を含んだ乾の声にはっとして視線を上げる。
「肩や腕は特に冷やさないよう気を付けないと駄目だろう」
「済まない…」
間近で見つめてくる視線に、見馴れている筈なのにどうも直視できず、手塚は視線を目の前の乾の胸元に落とす。
すると小さく嘆息した乾が腕を伸ばし、手塚の頭下に宛がった。
「枕、今更取りに出ると寒いからこれで我慢してよ」
この男は自分を幸福感で殺す積もりだろうか。
手塚は小さく笑う。
「御休み、手塚」
「ああ…御休み」
眠れるだろうかと思いながらも眼を閉じ、乾の首筋に耳を寄せる。
規則正しく響く心音が耳に心地良く、手塚はじっとその音に耳を澄ませた。
その音に聞き入っている内に、手塚の意識は降下していった。




(第21話に続く)
(2002/01/18/初出)
(2007/07/30/改定)

戻る