オトメチックエゴイスト〜第弐拾五の夜〜


あなたを暗闇の世界に独りにしたりしない。
私があなたの光になるから。
私があなたの道を照らすから。
絶対に、独りになんてしないから。





浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第25話:「乾春江」



一度だけ、聞いたことがある。
辛くはないのかと。
自分たちが当たり前に持っているものを失うのは、辛くはないのかと。
けれど彼はいつものように笑って、そうでもない、と答えた。
仕方のないことだから、と続けたその言葉に諦めの色や悲しみの色は見受けられなかった。
本当に何事でもないように、当たり前のようにそう告げた彼の姿。
その時、この想いは確かな形を得ていたのかもしれない。
彼の傍に居たいと願う、この想いは。



その週末、乾は部活を休んだ。
授業が終わるなり、乾は部室に顔を出すこともなく帰ってしまった。
手塚を初めとする三年生はそれを承知しているのか、誰一人として乾の不在を問うものは居なかった。
それは海堂が入部したときには既に暗黙の了解とされていて、理由を知っているらしい部長クラスの面々は、時折週末や休日の部活で乾がその姿を現さなくとも不問とされていた。
一部ではそれを訝しむ声も上がっていたが、当時の部長は乾の家の事情だから、とだけ答えたらしい。
「あれ、乾先輩じゃん」
桃城の声に海堂ははっとして視線を上げた。
フェンスの向こうからこちらに手を振っているのは、確かに乾だ。
乾の元へと駆け寄る桃城たちの後を追うように海堂は歩みを速める。
「乾、おっかえりー!」
コートに入ってくる乾の元に逸早く辿り着いた菊丸がその長身に飛び付いた。
「ただいま。はい、お土産」
差し出された菓子折りに菊丸が歓喜の声を上げる。
「今度は何処に行ってきたの?」
不二の問いに乾は「長野」と笑う。
「空気が綺麗だったよ」
そんなやりとりに、何だ旅行か、と海堂は息を吐いた。
だが、不意に自分と同じように人の輪から外れている人物に気づいた。
手塚だ。
彼は練習を放り投げた事を咎めることなく、ただじっと乾を見ていた。
何処か辛そうに目を細めて。
やがて視線を伏せ、何かを振り切るように踵を返した。




数日後、海堂は乾と共に帰路に就いていた。
乾が海堂の帰り道にあるスポーツ店に用があったためだ。
「あれ」
不意に乾が声を上げた。
目的の店の手前で盲導犬を連れた女性が何人かの高校生に囲まれていた。
聞こえてくる男たちの声は、盲導犬を珍しがっていた。
そして自分もそのハーネスを引いてみたい、と女性に強請っている。
その光景に海堂は少なからず不快感を覚えた。
彼らにとっては珍しい玩具でも、きっとあの女性には無くてはならない存在だ。
あの犬が居なければ彼女は右も左もわからないのだろう。
それがどれだけ心細く、恐ろしいことか彼らは全く気づかずにそれを強請る。
「困るなあ、ああいうの」
乾はやれやれ、と溜め息を吐くと足早に彼らの元へと向かう。
すると今まで大人しく座っていた犬が乾に気づいて尻尾を僅かに揺らしたようだった。
「ハリィ、ジャンプ!」
乾の声に反応して盲導犬が突然跳び上がる。
「うわ?!」
突然のことに男たちが慌てた声を上げた。
犬が歯を剥き唸りを上げて威嚇すると彼らはばつが悪そうにその場を去っていった。
「よくやった。グッドボーイ、ハリィ」
犬に近付き、その顎を撫でてやる乾の声に女性がほっとした表情を浮かべた。
「ハル君?ありがとう」
「いいよ。それにしても、どうしたの、こんな所まで一人で来て」
「美和子さんの所へ行っていたの。旅行のお土産を渡しに」
ふわりとウェーブした髪を背中に流し、少女のように笑うその女性。
何処か割り込めない二人の雰囲気に海堂がぽかんとしていると、乾がそれに気づいた。
「あ、ごめん海堂。この人は乾春江さん。俺の母親。母さん、部活の後輩の海堂」
「えっ、あ、ど、どうも…はじめまして」
慌てて頭を下げる海堂に、春江は「まあ」と相好を崩す。
「ご丁寧にどうも。いつも息子がお世話になってます」
春江は海堂の方に身体を向けて頭を下げた。
そのしっかりとした動作に、盲目なのでは、と海堂は思う。
するとそれを察したのか、乾がくすりと笑った。
「見えなくてもね、少しは分かるんだよ。気配とか空気とかの動きで」
「スミマセン…」
思わず謝罪する海堂に、乾は謝る必要はないよと一層笑みを深めた。
「うちの家系は昔から視力が弱くてね。幼い頃からいつ盲目になっても困らないように訓練されてるんだ」
「じゃあ、先輩の眼も…」
「うん、眼が悪いのは先天的なものなんだ。二十歳くらいまでなら何とか見えるそうだよ」
二十歳。
あと五年もすれば、この人は視力を失ってしまう。
なのに何故こんなに平気な顔をして告げるのか。
「…辛く、ないんスか…」
すると彼は母親と顔を見合わせ、(春江のその動作は盲目だと思えないほど自然だった)くすりと笑った。
「そうでもないよ」
「我が家では、それが当たり前だったから」
「そういうものなんだって思ってたしね」
「でも…」
「それに、悪いことばかりじゃないのよ。ハリィという大切なパートナーと出会えたんですもの」
春江の細い手が柔らかくハリィと呼ばれた盲導犬の頭を撫でる。
「盲導犬協会にお願いしても、自分の所に盲導犬がやってくるまでに何年も待たないといけないの。だから試しに自分たちで育ててみようって事になって。それがこの子なの。正規の盲導犬ほどじゃないけど、私の眼の変わりをしてもらうには十分すぎるほど良い子なのよ」
ただ、未登録の盲導犬だから店に連れて入ったりはできないけれど、と彼女は笑う。
「俺もそろそろ自分のパートナーを探さないとね」
「そうねえ。高校卒業するまでには見つけたいわね」
「そうだね」
ああそういえば、と乾が海堂を見た。
「昔、手塚も海堂と同じ事を言っていたよ」
みんな心配性だね、と乾は笑う。
「そう、スか…」
手塚も同じ事を…。
あの人は、知っていたのだ。
だからあんな眼で乾を見ていたのだ。
あんな、今にも叫び出しそうな眼で。







(2004/03/20/初出)
(2007/07/31/改定)

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