浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第27話「乾貞治の苛立ち」



地区大会、対玉林戦を勝ち抜いた青学メンバーは思い思いの場所に集まって昼食を食べていた。
「あ、手塚、不二、何処行ってたんだい?」
姿の見えなかった二人が帰ってきて、大石はほっとしたように肩を下ろした。
「うん、ちょっと柿ノ木を見てきたんだ」
「ああ、九鬼君の。どうだった?」
「五勝0敗で柿ノ木の勝ちだったよ」
「まあ、概ね予想通りって所だね…手塚?」
二人の会話に加わらず、視線だけを彷徨わせている手塚に大石が気付いた。
「どうかしたのかい」
「……乾はどうした」
あれ?と振り返ってみれば、さっきまですぐ傍らにいたはずの乾の姿が無い。
「さっきまで一緒だったんだけど…」
「乾のことだから、また偵察に出てるんじゃない?」
「……そうか」
頷きながらも、手塚の視線は乾を探して彷徨い続けていた。




九鬼が会場に設置された公衆トイレへから出ると、目の前に人が立っていて思わずつんのめるように立ち止まった。
「じゃ…」
邪魔だ、と睨んだ先には、自分より頭一個分背の高い、不可視の眼鏡を掛けた男がじっと自分を見下ろしていた。
「なっ、何だよっ」
その威圧感に思わず一歩退きながら、それでも睨みつけると男は唇に笑みを掃き、「九鬼貴一君だね」と柔らかな低音で囁いた。
「だったら、何だっ」
不意に右腕を掴まれてびくりとする。
「なっ…」
咄嗟に振り払おうとするが、やんわりと掴んできたくせにびくともしない。
「手塚の腕を、掴んだね」
尋ねる形をとっていたが、しかしその声音は確証を得て響いていた。
「だっ、だから何だってんだ!」
きゅ、と腕を掴む手に力が篭る。
「しかも、利き腕だ」
ここに至って、漸く九鬼は気付いた。
優しささえ滲ませるその唇と、暖かささえ感じるその声音。
しかしその薄いヴェールの向こうには、全く正反対の酷薄さを孕んでいる事に。
「ひっ…」
腕を掴む手はまるで万力でゆったりと締めるように緩やかに、しかし確実に悪意を以ってその力を増していく。
「は、放…いっ…!」
必死でその手から逃れようと腕を引くが、やはりびくともしない。
ならばと右腕を振り、目の前の恐怖を殴り倒そうとするがあっさりとそれも受け止められてしまう。
「あれは今のところ最高傑作なんだ。勝手に触らないでくれるかな」
のっぺりとしたその声も、しかし暴れる九鬼の耳には入らない。
「放せ!放せえええ!!」
みしり、とまるで腕が軋む音が聞こえてきそうなほどの痛みに九鬼は半狂乱になって暴れた。

「その辺にしておいてあげなよ」

ふわっと割って入った声に腕を締め付けていた力が消え、九鬼は思わず尻餅をついてしまった。
「ぅわ、あああっ」
そのまま後ずさるように這い、慌てて立ち上がりながら逃げ出していった。
「……不二か」
「ちょっとやりすぎなんじゃないかな、乾」
不二の言葉にもそうかな、と乾は軽く返す。
「でもまあ、彼もちょっと調子に乗ってたみたいだから、丁度いい薬かな」
そう笑いながら不二は乾の傍らに立った。
ねえ、と見上げる表情はいつものアルカイックスマイル。


「祐太は手塚を捕らえるための餌だったの?」


しかし、その声音は鋭いものを備えている。
だが乾はいつも通りの無表情で、短く「違うよ」とだけ答えた。
「祐太のこと、大事だった?」
「ああ。好きだったよ」

不意に落ちる沈黙。

二人は無言のままじっと見つめあう。
「……そう」
最初に動いたのは不二だった。
「なら、いいんだ」
くるっと踵を返し、来た道を戻っていく。
そして不意に足を止め、「ああ、そうだ」と少しだけ身体を傾けて乾を振り返った。
「手塚が探してたよ」
「そうか」
言うだけ言うと、不二はまた向こうを向いて歩き出す。乾も不二の後を追って歩き出した。
「……」
背を向けた不二が小さく呟いた言葉は、乾の耳に届くことは無かった。





「だから乾って嫌いなんだ」










(2007/08/02)

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