浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第28話「乾貞治の楽しみ」



「あら、お帰りなさい。貞治君来てるわよ」
帰宅するなりの母親の第一声に手塚は訝しげな顔をした。
今日は特に乾と会う約束はしていなかったはずだ。
部屋に上がってもらっているから、という母親の言葉に頷き返し、自室へ向かう。
「乾」
自室の扉を開けると、本棚の前でこちらに背を向けて立っている乾の姿が飛び込んできた。
「やあ、お帰り」
くるりと振り返った乾は読んでいた本をぱたりと閉じて笑った。
「今日は特に会う予定は無かったはずだが」
後ろ手に扉を閉めながら問いかけると、そうだね、と短い応えが返ってきた。
「ちょっと味見して欲しくてね」
本を棚に戻しながらの言葉に手塚は眉を顰める。
「味見?」
「そう、これ」
と彼が足元の鞄から取り出したのは、部活でも使っているドリンクボトル。
「ちょっと飲んでみて」
キャップを外して差し出されたそれ。
「……中身は何だ」
「いいから」
ちっとも良くない。
「断る」
本能的に怪しげな気配を察した手塚がきっぱりと断ると、乾は「そういえば」とボトルを差し出したまま笑みを深めた。
「どうだった?越前との試合は」
「?!」
目を見開いて目の前の男を見る。
乾は相変わらずの笑みを浮かべてボトルを差し出している。
「大石も、一緒だったんだろ?」
何故、と思う。
今日の越前との試合は、当の越前と自分、そして付き添った大石とそれを許可した竜崎スミレ以外は知らないはず。
「何故って顔をしてるね。だけど、残念ながら教えてあげないよ」
柔らかな声音に隠されたそれに手塚はぎくりとする。
乾が、怒っている。
何に対して。
越前と試合をした事に対して?(だがあれは必要な事だった)
同伴者に大石を選んだことに対して?(大石は副部長だ。人選に問題は無い)
それとも、この腕のことも知っているのか?(まさか。大石と竜崎先生以外は知らないはずだし二人が言うとも思えない)
何が乾の癪に触れたのだろう。
視線を落とす手塚に、更にボトルが突きつけられる。
「そんな事より、飲んでくれるよね?」
「……」
そろりとそれを受け取ると、乾は満足そうに「さあ、どうぞ」と笑った。
その声音は先ほどとは違い、純粋に楽しそうだった。
ストローに口を付けながら思う。

いつから乾の機嫌を損ねることが怖くなったのだろう。

少なくとも手塚は他人に対してそういった思いを抱いたことが無かったし、乾に対してだって、出会った頃はそうでもなかったはずだ。
なのに、気付けば乾の声音一つにこんなにも身を竦めている。
自分らしくないとも思う。
だが、どうしても身体が反応してしまうのだ。

「…っ…」

口内に広がった味に思考が奪われる。
口に含んでしまったぶんだけ飲み下し、ボトルを乾に突っ返した。
「どう?」
「…何だこれは」
口内に残る、何とも言えない青臭さに手塚は顔を顰めた。
「乾特製野菜汁試作品その一」
今度の練習のペナルティに使おうと思って。とにこやかに笑う男に無性に腹が立ってくる。
何で自分がコイツの機嫌を窺わなくてはいけないのか。そんな気すらしてくる。
「で、どう?」
「不味い」
「美味しかったらペナルティにならないよ」
でも改良の余地有りだね、とボトルを鞄にしまう。
「普通に我慢できる程度じゃ詰まらないし」
ペナルティ作りを楽しむな、と言いたい所だったがまた飲まされては敵わないので黙っておくことにした。
この瞬間、青学メンバーが地獄を見ることになる事が決定した事を手塚は知らない。
むすっととしていると、鞄を肩から提げて立ち上がった乾がそれを見て可笑しそうに笑った。
「手塚、表情、硬いよ」
「悪かったな」
くくっと喉を鳴らして笑いながら乾はひょいと手塚に口付けた。
「口直し。それじゃあ、また明日」
そのまま手塚の傍らを通り過ぎ、部屋を出て行こうとする乾の背に咄嗟に声をかける。
「乾っ」
しかし乾は少しだけ振り返ると、ひらりと手を振って部屋を出て行った。
「味見、ありがとう」
その笑顔に、不穏な色はもう無かった。







(2007/08/03)

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