浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第29話「観月はじめの楽しみ」



彼がパートナーに捨てられた、という話は有名だった。
彼らはこのスクールの金字塔そのものだったから。
そして憶測は憶測を呼んだ。
それは大抵が彼に原因があると捕らえられるものだった。
何しろ、誰より親密だと思われていた彼は、引っ越したこと自体を知らなかったのだから。
それから暫く、彼はコートには立たなかった。
そんな彼を再びコートに立たせたのは、彼らの専属コーチだった男だ。
片割れを無くしたとしても彼が金字塔の一翼であることに違いは無い。
失うにはスクールとしても惜しかったのだろう。
半ば強引に宛がわれた新しいパートナーとコートに立った彼の姿は哀れだった。
少し前まで本当に楽しそうにボールを追いかけていた彼とは全く想像もつかないほど淡々と、機械的にボールを追っていた。
新しいパートナーと息が合わなくてもお構いなし。
勝ちも負けも興味が無い。
そんな感じだった。
それからすぐに観月は父親の都合で山形に帰る事になり、スクールを辞めた。当然、学校も変わった。
実家に帰り、新しい学校、新しいスクールに通うようになってからも彼の事が頭を離れなかった。

もう一度、彼のあの笑顔が見たかった。
心の底からテニスを楽しんでいる、あの笑顔を。









都大会四回戦、青学は秋山三中と戦っていた。
圧勝ではあったが、何処と無く梃子摺っている仲間の姿に、乾は違和感を覚えていた。
彼らに、ではなく、秋山三中のメンバーに。
彼らもそれだけ必死だと言ってしまえばそれだけなのだが、しかし何かが引っかかる。
そして越前がコートインする時になってその謎は解けた。
越前に向かって話しかけている相手。
観月はじめだった。


「いいデータ、とれました?」
越前の試合をじっと見つめている背中に声をかけると、彼はゆったりと乾を振り返った。
「…ええ、乾君」
少し癖の入った、けれど艶やかな黒髪を指先で弄りながら、観月は小さく笑った。
「丁度良かった。あなたとお話したいことがあったんです」
「何かな」
つい、と乾に近寄ると、テニスをしているにしては白い腕を伸ばして乾の胸元に手を当てた。
「準々決勝でウチが青学に勝ったら、あなたを下さい」
艶やかな笑みに、しかし乾は相変わらずの無表情でそれを見下ろしている。
「ルドルフに来い、という事かい?」
しかし観月はいいえ、と楽しそうに笑う。
「僕に、です」
「…端的に言えば?」
「僕の恋人になってください」
「突然だね」
全く動揺の見られない乾の胸元を観月の手が滑る。
「いいえ。僕はこの時を待っていた」
知らなかったでしょう、僕が同じスクールにいたことなんて。
あなたの視線は、いつも彼に注がれていたから。
クラスも違う、ダブルスプレーヤーでもない僕の事なんて。
知らなかったでしょう。
「ずっと、待っていたんです」
「別に、身体だけならあげてもいいけど?」
「それでは意味が無いんですよ。僕はあなたの全てが欲しい」
観月の右手が胸元から肩、腕へと滑っていく。
「…物好きだね」
そしてその手は乾の手を取り上げ、持ち上げられた手の甲に観月が恭しく口付けを落とした。
「あなただからですよ」
それでも尚、乾は無抵抗だった。










(2007/08/04)

戻る