浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第三十話「遠い昔の話(乾貞治)」



約束が不確かなものだと思い知ったのは、もう随分昔の話だ。
約束など所詮その時の勢いだけだ。後で取り消すことなんて造作も無い。
そんなもの、信じるだけ無駄なのだ。
泣きを見るのは、自分なのだから。



「考え事ですか?」
つい、と膝を指先で擽られて我に返る。
「…少し」
正直に答えると、彼はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「あなたのそういうところは嫌いではありませんが、今はボクに集中してもらえませんか」
「極力そうします」
するとその応えすらも可笑しかったらしく、男は更に喉を鳴らして笑う。
笑いながら、先ほど指を滑らせていた乾の膝頭に唇を寄せ、歯を立てた。
「…っ…」
微かな痛みが膝を走る。僅かに眉根を寄せると、彼は丸眼鏡の向こうからこちらを窺っていた。
恐らく歯型が付いたのだろう、それをなぞる様に舌が這うと今度は痛みとは違った、むず痒い様な感覚が下肢を緩やかに支配する。
生暖かい舌先は次第に脚を伝って下っていき、やがて足の甲に辿りついた。
きゅ、と強く吸われる感覚にぴくりと身体を揺らす。
この男は、こういう気障ったらしい事が好きだ。
誰もいない部室で手の甲に口付けられた事など、数えるだけ馬鹿馬鹿しい。
行為が終わった後も丁寧に乾の体を清めたし、服も着せてくれる。
特に靴下を履かせている時などは本当に楽しそうで、その顎を蹴り上げてやろうかと思った事は一回や二回ではない。
そして今、この時も乾の脚に靴下を履かせている最中だった。
彼が服を着せる順番はいつも同じだ。
まずシャツを羽織らせて、次に靴下。下着はその次だ。
そして乾が裾の長いシャツを着ていると彼は喜ぶ。
だから時折乾は裾の長いシャツを着て彼の家を訪れる。
別に恋人同士でもなければ、恋愛感情があるわけでもない(少なくとも乾はそうだった)のだから、彼がどんなフェティシズムを抱いていようと乾には関係なかった。
ただ、機嫌はとっておくに越したことは無い。それだけだ。
「それより、今日、手塚にちょっかいを出していましたね」
足首を這っていた舌の動きが止まる。
男は顔と上げると、見ていたんですか、と笑った。
「委員会じゃなかったんですか?」
確かに今日、乾は委員会会議で遅刻した。彼が部活に訪れたのは殆ど部活の終わりに近い頃だったはずだ。
「窓から見てました。大石君もいましたね」
「大丈夫ですよ。部に関することをお話しただけですから」
乾は暫くの沈黙の後、そうですか、とだけ呟いた。
「信じてますよ、大和部長」
我ながら空虚な言葉だ、と乾は思った。








(2007/08/05)

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