浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第三十五話「乾貞治の甘言」



唇を貪りあいながら豪奢なベッドに倒れこんだ時、メールの着信を知らせる音が室内に響いた。
「ん…ごめん、跡部、手塚だ」
専用の着信音に乾は覆いかぶさってきた跡部を押し止めた。
ちっと舌打ちする彼の下からするりと抜け出し、テニスバッグの上に放りっ放しだったクラムシェル型の携帯電話を手に取る。
そしてその内容に目を通した乾は、微かに唇の端を歪めて笑った。
すぐさま返事を打ち、送信する。
「悪い、跡部。手塚からのラブコールだ。今日は帰らせてもらうよ」
冗談めいて言うと、跡部はベッドの上で寝そべりながら鼻を鳴らして笑った。
「とうとう手塚もお終いか」
跡部の言い様に乾はくつくつと笑う。
「なあ、跡部。俺はね、ジレンマに悩んで打ちのめされて粉々に砕け散っても尚、俺の名前を呼ぶ手塚の姿が見たい。ぼろぼろになって這いずりながら俺の脚に縋りつく手塚の姿が見たい」
緩やかに両手を広げ、心底楽しそうに言う男に跡部は視線を伏せる。
「…哀れだな」
「手塚が?それとも俺が?だとしたら、跡部も同じだよね。過程は違えど、最終的に欲しいものは一緒なんだから」
そして乾はテニスバッグを背負い、ドアへ向かって歩き出した。
「跡部もいい加減素直にならないと、俺が貰っちゃうよ?」
「ばーか、樺地が俺様以外を見るわけねえだろ」
それもそうだ、と笑って乾は跡部の部屋を後にした。





手塚の家を訪れると、いつもならこの時間帯は彩菜が夕食の支度をしている音が聞こえてくるというのに、今日はしんと静まり返っていた。
すると、母親は友人と泊まりで旅行に行っていると手塚が説明した。
父親も残業で遅くなると連絡があったし、祖父も寄り合いで遅くなるとの事だった。
手塚の自室に通され、部屋の中央に置かれた折りたたみ式の小さな円卓の前に腰を下ろした。
暫くして手塚もやってきて、乾と自分の前に冷茶の注がれたグラスを置いた。
それを早速一口飲んで、ウーロン茶である事に気づく。偶然かもしれないが、もしかしたら以前乾が麦茶よりウーロン茶の方が好きだといった事を覚えていたのかもしれない。
ことり、とグラスを置いて乾は手塚を見た。
「それで、話って何?」
「…その、先日の…ルドルフの、観月のことなのだが…」
言いにくそうに視線を逸らしながら告げた手塚に、観月君がどうかした?と返す。
「その、もし、ルドルフが勝ったら乾と…その…」
「ああ、付き合ってくれってヤツ?」
「…どうなったのかと…」
どう、と繰り返して乾は小首を傾げた。
「どうって言われても、ウチが勝ったんだから、無効でいいんじゃないのかな?」
「あれから、彼は、何か…」
「別に?あれ以来会ってないし」
「…そう、か」
明らかに安堵と分かる息を吐いた手塚を見ながら乾はまた一口、グラスから茶を飲んだ。
「それで。まだあるんでしょ?」
「……氷帝戦でのオーダーの件だが…」
「海堂とダブルスを組んだ事?」
図星なのだろう、気まずげに手塚は視線を逸らす。
「別に深い意味は無いよ。ただ、ウチはD2が弱い。俺なら海堂のサポートも出来るし、ダブルスコートなら海堂のブーメランスネイクも使える」
「それだけ、なのか?」
「何が言いたいの、手塚」
「……最近のお前は、随分と海堂に入れ込んでいるように思える」
「海堂は飲み込みが早いからね。俺のメニューにも付いてこれてるし」
「…それだけ、なのか」
「手塚、それさっきも言った。…ねえ、手塚」
すいっと円卓を廻ると手塚の真横に擦り寄り、びくりと身を強張らせるその耳元で低く囁いた。
「何を、言って欲しいの?」
「…っ…」
「ねえ、手塚…俺は手塚が好きだよ。手塚の望むようにしてあげる。だから、言ってみてよ…」
「…っ乾!」
身を捩って退こうとする手塚の身体に腕を回し、ぐいっと抱き寄せる。
手塚の身体はいとも簡単に乾の腕の中に落ちてきた。
「ねえ、手塚…俺が他の人と付き合ったりしたら、イヤ?」
「……」
短い沈黙の後、こくり、と腕の中で小さく頷いた。
「だったら、ねえ、手塚…ちゃんと言ってくれないとわかんないよ?」
「………」
戸惑うように乾の腰元に当てられていた掌がそろりと背に回される。
「…俺、は…」
「うん」
「……」
再び黙り込んでしまった手塚に、それでも乾は根気よく付き合った。
ぎゅ、と背に回された手が乾のシャツを掴む。
「………乾が、好きだ」
「うん」
「お前が、俺をそういう風に思ってないことは分かってる…だが、俺は、お前が好きだ」
「うん」
「お前が他の誰かと親しくしているだけで、無性に苛立って…もし親密な付き合いを、と思うと居ても立ってもいられなくなる」
すまない、としがみ付く手塚の髪を撫で、そこに口付けを落とした。
ねえ手塚、と乾は柔らかく笑う。
「祐太君が転校した時のこと、覚えてる?」
「?…ああ」
「あの時部室で言ってくれたこと、もう一度言ってキスして?」


「…お前が望むなら、望むだけ傍に居るから…」


手塚は逡巡した後、そう告げて乾に口付けた。
「んっ」
触れるだけのはずだった口付けは、乾の手により頭を固定されてしまい、より深いものへと変わっていった。
「っ…ん、ん…」
唇を割って入ってきたぬるりとした熱い舌に手塚の身体が震えた。
それはゆるゆると口内を這い回り、舌を絡めてくる。
それに応える様に舌を絡ませれば、たどたどしいそれを導くように乾の舌が蠢く。
「……っは…ぃ、ぬい…」
濡れた唇を乾の舌先が這い、ちゅ、と音を立てて唇の端にも口付けられる。
「ねえ、手塚。俺はね、手塚が一番好きだよ。一番大切。だから、ね」
手塚の顎を指先で持ち上げ、ノンフレームの眼鏡を取り上げて円卓に置き、そして己の重量のある眼鏡も同じ様に置いた。
途端に視界がぼやけたが、これだけ近づいていればさして問題は無い。
手塚の薄らと朱の射した頬も、とろりと潤んだ瞳も、濡れた唇もはっきりと見ることが出来た。
「手塚は俺の好きな手塚でいて。そうすれば、俺はずっと手塚の傍にいるから」
乾は優しい微笑みを浮かべてもう一度口付けた。
そしてそのまま床に押し倒しても、手塚は抵抗しなかった。


余りに可笑しくて、笑い出したい衝動を抑えるのに苦労した。








(2008/08/11)

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