浅瀬を歩む君の滑らかな脚
第三十七話「真田弦一郎」 傍らで起き上がる気配に手塚は目を覚ました。 睡眠時間が足りてないせいか、少々頭が重い。 いや、それよりも全身の倦怠感の方が強い。 しかしその倦怠感は自ら望んだ結果であり、寧ろ幸福感すら齎すものだった。 「…乾?」 そしてその甘い痛みを齎した当人である乾は、静かにベッドを降りながら振り返った。 「あ、おはよう。まだ寝てても大丈夫だよ」 床に敷かれた布団の上に散らばった衣類の中から下着を取りあげると、それを穿きながら乾は言った。 時計に視線を向けると、確かにいつもよりかなり早い時間だ。 「…何処かへ、行くのか?」 手早く服を纏う乾にそう問いかけると、うん、と短い応えが返ってきた。 「昨日、夜のロードに行けなかったから。ちょっと早めに朝ロード行こうかと思って。…ああ、手塚は寝てなさい。無理はダメだよ」 起き上がろうとして押し戻されてしまい、手塚はむっとしながら乾を見上げた。 「そんな顔してもダメ。出来れば今日の部活も大人しくしてて。無理して熱でも出したら大変だから」 しかし、と言い募ると軽い口付けが落とされて黙り込む。 「いいから」 ね、と微笑まれては何も言えなくなる。 着替えの入った小さな鞄とテニスバッグを提げる乾を恨みがましく見上げていると、くしゃりと髪を撫でられた。 「また後でね」 ギリギリまで体を休めておくんだよ、と念を押して乾は部屋を出て行った。 「……」 一人残されたベッドの中で、手塚はくるりと小さく丸まった。 乾の残した温もりが、まだ残っているようだった。 手塚の家を後にした乾は、一旦マンションに戻り、ジャージに着替えてロードワークに出た。 未だ夜明けの冷気を残したままの空を見上げ、今日も晴れるな、と思いながら走り出す。 今日はいつもより時間があるから少し遠出しようか。 ルートを何パターンも組み立てながらとりあえずいつもどおりのルートを走る。 そしてそのままいつもならインターバルに入る箇所で歩調を緩め、しかし復路につく事無くそのまま再び駆け出した。 「うん、今日はこのルートにしよう」 独り言を呟きながら脳内地図を広げる。 このまま行けば神奈川だ。 神奈川には余り足を踏み入れたくは無かったが、この時間帯だ。まず大丈夫だろう。 一人そう納得しながらそのまま県境を軽々と越えて神奈川へと突入する。 「…ん?」 川沿いに暫く走っていると、こちらに向かって走ってくる人影に気付いた。 少しずつ近づいてくるその人物は、乾と同じ様にジャージを着込み、ジャージと同じ黒の帽子を目深に被っている。 加えてその体格から導き出された該当人物に、乾は微かに目を見開いた。 さすがに彼の行動パターンまではデータに無かった。 タッタッタ、と自分の走る足音を聞きながら、アレはちゃんと前が見えているのだろうか、と思う。 そしてすれ違うまであと少し、という所に来て悪戯心が湧いた。 このまますれ違って終わりのはずだったその瞬間、乾は口を開いていた。 「やあ、真田」 すれ違い様にそう言って振り返ると、彼も足を止めてこちらを振り返っていた。 「こんな早朝からご苦労様」 俺も人の事言えないけど、と笑うが、彼は変わらず訝しげな顔で乾を見ている。 「…誰だ」 「最もな質問だね。俺は乾。今日は偶々こっち方面に走ってきただけだったんだけど、真田はいつもこのルートなの?」 「…そうだが」 「あ、何故自分を知っている、って顔してるね。だって真田、有名じゃない」 「立海の生徒か?」 「ううん、違うけど俺もテニスしてるから」 「そうか。…それで、何か用か」 「いや、ただ一方的ではあるものの知った顔を見つけたので挨拶をしてみただけ。ごめんね、引き止めちゃって」 「…いや」 それじゃ、と軽く手を上げて再び走り出すと、暫くして背後でも走り出す気配がした。 復路でも会えるだろうかと思いながらその確立を算出してみるが、そもそも彼のルートが不明である以上、正しい確立を導き出すことは出来なかった。 「…幸村に聞いてみようかな」 乾は楽しそうに呟くと、走るスピードを上げた。 (2007/08/14) |