浅瀬を歩む君の滑らかな脚
第三十八話「幸村精市」 いつもの様に受付だけを済ませて乾は病棟へと向かった。 その足取りは馴れたもので、迷う事無く進んでいく。 やがて一室の病室の前に立ち止まり、軽くノックをした。 「どうぞ」 室内から響いた声に遠慮なく扉を開く。 「やあ、調子はどうだい。幸村」 そこにはベッドの上で身を起こした幸村精市の姿があった。 「乾」 「これ、差し入れ」 はい、と提げていた小さな紙袋を幸村に差し出す。 幸村は受け取るなり早速その中身を覗き、嬉しそうな声を上げた。 「この前言ってた本だね?ありがとう」 ベッドサイドのテーブルにそれを置き、乾に椅子を勧める。 「明後日だな。関東大会」 椅子に座りながらそう言うと、そうだね、と穏やかな声が返ってきた。 「うちと青学はブロックが違うから、戦う時は決勝だね」 「ああ、そうだな」 ふと二人の間に沈黙が落ちる。お互い笑顔のままだったが、何処と無く気の詰まった空間に、幸村がそれより、と声を上げた。 「今日はどうしたの?いつもは午前中に来るのに」 「うん、今日は簡単な視力検査だけなんだ。手帳の更新が近いから、診断書を出してもらおうと思って」 「ああ、そうだったんだ。何かあったのかと思っちゃった」 安堵の笑みを浮かべる幸村に、「何かあるかと言えばあるよ」と乾は笑った。 「真田に会ったよ」 「真田に?」 「うん、朝ロードで走ってたら、ばったり」 へえ、と返してから幸村はあれ?と考え込む。 「ロード途中って…乾、こっちまで走ってきたの?」 「ああ。ちょっと走り足りなくてね」 「相変わらず凄いね、乾は」 「これくらいしないと置いていかれちゃうからね」 するとノックの音が間に割って入った。二人は一瞬顔を見合わせたが、乾が小さく頷くと幸村も同じ様に頷いて扉へ向かって声をかけた。 「どうぞ」 すると扉はするりと横に滑り、そこから乾とさほど変わらぬ長身の青年が入ってきた。 「真田」 噂をすれば、ってヤツだね、と幸村が笑う。 「む、来客中だったか。すまない…ん?お前は…」 訝しげな顔をする真田に乾はやあ、と片手を挙げて笑った。 「確か、乾といったな。幸村と知り合いだったのか」 「病院仲間って所かな」 「お前がか?」 「真田」 幸村の咎めるような声音に真田がはっとして「すまない」と軽く頭を下げた。 「いいよ、気にしてない。俺は眼が悪くてね。定期検査に来るついでに幸村に会いに来てるんだ。それより、この時間帯はまだ授業中じゃないのかな?」 「職員会議のため五時間目終了と同時に強制下校させられた。全く、明後日は関東大会だというのに、先生の都合で部活もさせんとは何たることだ」 「でもみんなの姿が見えないって事はスクールに行ったんだろう?」 「ああ。赤也辺りが煩かったが、先に行かせた」 「…それじゃあ、俺は行くよ」 お邪魔しちゃ悪いし、と席を立つと幸村が乾、と呼び止めた。 しかし乾はいいから、と手をひらりと振って真田の傍らをすり抜けて扉に向かう。 「どっちにしろそろそろ時間だろうから。それじゃ、また来るよ。真田も、またね」 「…ああ」 「気をつけてね」 心配げな幸村の声に乾は笑って病室を後にした。 「…何と言うか、不可思議なものを纏った男だな」 乾の出て行った扉を見つめながら真田が呟くように言う。 「…そうだね…乾は……あれ?」 ふと視線を落とした幸村は、椅子の陰に何か落ちている事に気づいた。 「俺が拾おう」 ベッドを降りようとした幸村を制し、真田がそれを拾い上げた。 青のビニル地に、金の文字で押された「身体障害者手帳」の文字。 「それ、乾のだよ」 裏返すと、確かに乾の名と、証明写真が貼られている。 届けないと、と慌ててベッドを降りる幸村を真田は引きとめ、再びベッドに座らせた。 ぺて、と音を立ててスリッパが落ちる。 「俺が行く。今ならさほど遠くへ行ってないだろう」 そのまま踵を返して出て行く真田の背に幸村の声が被さった。 「眼科に行くはずだから」 病室を出て辺りを見回すが、あの長身は見当たらない。 真田は幸村の言っていた通り外来へと向かって歩き出した。 外来へ向かうにはエレベーターを使うのが一番早いのだが、エレベーターの前には既に何人か人が待っていたので真田は階段で行く事にした。 外来エリアに入ると一気に人が多くなる。 真田は辺りを見回しながら足早に人混みを通り抜けていく。 …いた。 眼科に向かって歩く長身。 「乾」 その背に声をかけると、振り返った男は真田の姿を認めるなり、あれ、と小首を傾げた。 「真田、どうしたの?」 「忘れ物だ」 手にしていた手帳を差し出すと、ああ、と乾は得心がいったような顔をした。 「すぐ出せるようにポケットに入れておいたのが良くなかったな」 「こんな大切なものを落とすなど、たるんどる」 「あは、気をつけるよ」 長い指がついっとそれを摘み上げ、鞄にしっかりと仕舞うのを見届けた真田が踵を返そうとすると、今度は乾が呼び止めた。 「真田」 「何だ」 「ありがとう」 穏やかな笑顔を浮かべ、ひらりと手を振って乾は背を向けた。 そのまま眼科の外来受付に向かうその後ろ姿を、真田はじっと見送った。 「……」 そして漸く踵を返し、幸村の病室へと向かう。 脳裏には、先程の乾の笑顔が張り付いたように離れなかった。 あんな空っぽの笑みは、初めて見た。 (2007/08/18) |