浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第三十九話「博士を象るアペイロン」






大切な人を失いました。


それは、ある日突然のことでした。


永遠を信じていたわけではありません。
しかしながら近しい未来ならばそこにも彼の姿はあるのだと信じていたのです。





愚かにも、無邪気に信じていたのです。










関東大会一回戦、対氷帝戦は青学の勝利で幕を閉じた。
「あれ?乾は?」
不二の声に、帰りのバスを待っていた一同はそういえばと辺りを見回す。
しかしあの不可視眼鏡をかけた長身は見当たらない。
「…乾先輩は用があるって先、帰りました」
「えー?さっきまで一緒に居たのににゃー」
「乾の事だから、新しいノートでも買いに行ったんじゃない?」
各々好き勝手な事を言っていると、目の前を明らかにそれと分かる高級車が通り過ぎていった。
「…あれ?」
「ん?どうした、越前」
「いえ…」
今、通り過ぎていった高級車に乾が乗っていた気がしたのだが。
「…何でも無いッス」
気のせいだろう。




「それで、手塚はどうなる」
自邸へと向かう車中、跡部はそう切り出した。
傍らで緊張感も無く座っている乾は「そうだね」と短く返す。
「手塚は九州に行ってもらう事になるだろうね」
「九州?」
「宮崎に青学大附属の病院があってね。あそこは整体が進んでるから」
「またお前の差し金か」
呆れたような声音に、乾はまさか、と小さく笑った。
「俺はただ竜崎先生に聞かれたからデータを提供しただけだよ」
決めたのは竜崎先生と手塚自身さ。
他人事の様な言い方に跡部は肩を竦める。
「で、自分から仕向けたくせに、いざそうなると手塚を捨てるのか」
「手塚には肩治して貰わないと困るし。まあ、勿体無いとは思うけど、俺、待つのって嫌いだから」
面倒臭そうに言い、乾は天井を見上げる。
「それに、面白そうなのも見つけたし」
「立海か」
「うん。幸村には悪いと思うけど」
「で?誰だ。真田とか言うんじゃねえだろうな」
すると乾は悪戯っ子のような笑みを浮かべ、人差し指を唇に当てた。
「ビンゴ、って言ったら?」
跡部は数秒の間、唖然としていたがやがて大きな溜息を吐いて窓の外へと視線を向けた。
「いい加減、お前の趣味がわかんねえ」




跡部邸につくと、二人はまずシャワーを浴びた。
今日は着替えを持ってきていなかったので、乾は跡部のシャツとスウェットを借りてソファでルーペを弄っていた。
「新しいのに変えたのか」
「うん、やっぱりエッシェンバッハ社の物が一番良いね」
ほら、とグリップ付け根のレバーを弄る。
「ダブルレンズだからここをこうすると中央部の倍率が上がるんだ。しかも脚部付きだからグリップの位置をレンズ本体の高さに合わせてぐらつきのないように調整できるんだよ」
「弱視眼鏡はどうした」
「あれは持たなくて良いから楽なんだけどね、うっかり掛けたまま外に出たら嫌だし」
それにまだこの眼鏡で間に合ってるからね、と乾はいつも掛けている黒縁眼鏡を指先でくいっと持ち上げた。
「幸い、等級も上がらずにすんだし」
「ああ、手帳の更新がどうたらつってたな」
「最近は視野の方にも支障が出てきてるから…ギリギリだったよ」
まあ、今更なんだけどね、と乾は笑う。
「……」
跡部は乾のこの笑い方が余り好きではない。
乾自身は気付いていないようだが、眼の話をしている時の乾はいっそ穏やかなほどの笑みを浮かべる。
しかし跡部から言わせればそれはとても薄っぺらで、簡単に剥がせそうな張り付いた笑顔だ。
しかし剥がしたその先で乾がどれほどの絶望を抱いているのか、それを知ってはならない気がして跡部は何も言わない。
乾は、出会った時にはもう既に諦めることを知っている子供だった。
冷静に情報を分析し、そこから導き出した答えが否と言うのなら仕方ない、そうあっさりと切り捨てる。
逆に、と数刻前の会話を思い出す。
真田に手を出すという事は、真田を落とす自信があっての事だという事だ。
跡部は乾の横顔を見つめながら思う。
どうやってあの堅物に近づくつもりなのかは知らないが、手塚の時の様に時間を掛けたりはしないだろう。もう一度始めからやり直すだけの時間はもう、彼には無い。
何より、真田に近づくということは、アイツへのあてつけもあるのだろう。
「ん?どうした?」
「…いや。お前、明日はオフか?」
「うん。明後日はみんなで慰労を兼ねてボーリングへ行くけど、明日は完全にオフだよ」
「なら、何処か行くか」
ごろりとソファの上で横になり、当然のように乾の膝に頭を乗せると乾が小さく笑って跡部の髪を梳いた。
「何処へ行くんだい」
「そうだな…この前は宮城だったな」
「石ノ森萬画館で跡部はしゃいでたよね」
「お前が行きたいっつったんだろが!」
「えー?だって跡部も好きデショ?サイボーグ009」
「うっせえよ。暑ぃから北海道でも涼みに行くか」
「じゃあ小樽行こうよ。流氷凍れ館。氷の滑り台滑りたい」
「お前、俗っぽいのが好きだよな」
「年相応でいいと思うけど」
へらりと笑うと、跡部はやれやれ、と溜息を吐いて起き上がった。
「よし、ならこれから小樽行くぞ」
部屋に設置された内線で電話する跡部を尻目に、乾はルーペを片付ける。
跡部がこういう行動に出るのはいつもの事だ。
乾は鞄から携帯を取り出し、自宅の番号を呼び出して耳に当てた。
「…ああ、母さん。貞治だけど…」









(2007/08/16)

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