浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第四十話「真田弦一郎と乾貞治」



手塚の居ないメンバーで不動峰と練習試合を行った翌日、今度はルドルフとの練習試合となった。
初めて訪れた青学に興味津々と言った面持ちの柳沢と野村を尻目に、裕太はそわそわとコートを見回していた。
「やあ、今日は無理を聞いてもらってありがとう」
「いえ、こちらこそ我がルドルフを選んでいただけて光栄です」
大石が観月と言葉を交わしている間も裕太は辺りを見回し、しかしそこに求める姿がない事にしゅんと肩を落としていた。

「裕太君」

途端、背後から聞こえた声に裕太はばっと振り返る。
そこには、ランニングにでも行っていたのか、海堂を連れて漸くコートに入ってきた乾の姿があった。
「乾さん!」
ぴょこっと飛び上がりそうな勢いで探し人の名を呼ぶと、乾は穏やかに笑っておいで、と言わんばかりに両手を緩く開いた。
「乾さん!…あっ」
勢い余ってその腕の中に飛び込み、次の瞬間はっとして離れようとするが、既に乾の腕にホールドされてそれはかなわない。
「いいい乾さん!」
あわあわと唯一自由な両手をてふてふしていると、耳元でくつくつと笑う声がして思わず首を竦めた。
「久しぶりだね」
「は、はいっ」
するとカシャ、とシャッター音がして裕太と乾は同時にそちらを向いた。
「浮気現場激写ー」
そこには携帯を構えた不二が立っていた。
「あ、兄貴っ」
「不二、ただのスキンシップだって」
乾が笑いながらすっと体を離し、不二に向き直るがしかし不二はそんな事お構い無しにカチカチとメールを打つ。
「手塚に送っちゃえ。えい」
「こら、後でフォローするこっちの身にもなってくれ」
「フォローする気なんて無いくせにー」
ぶーぶーと文句を垂れる不二を笑って誤魔化し、乾は裕太に向き直った。
「まあともかく、よく来たね」
「あ、はい、今日はお誘いありがとう御座いますっ」
「提案者は乾じゃなくて大石だけどねー」
そのまま三人でわいわい話していると、打ち合わせが終わったらしい大石と観月がそれぞれに集合を掛けた。
「それじゃ、今日一日よろしく」
「はい!」





練習試合が終わり、裕太は乾を探していた。
「あ、乾さん!」
水飲み場に居た乾に駆け寄りると、乾は水を止めて裕太を振り返った。
「うん?どうしたんだい?」
「あの、今日俺家に帰るんですけど、良かったら途中まで一緒に帰りませんか?」
すると乾はうーん、と少し考え込んだ。
「今日はちょっと行く所があってね。だからバス停までなら良いよ」
「あ、はい、それでも良いです!…あ、偵察ですか?」
首から提げたタオルで口元を拭きながら「内緒」と乾は笑った。
「さあ、着替えに行こうか」
「あ、はいっ」
部室に向かう乾の後を裕太は小走りで追った。
結局、二人で帰るはずだったバス停までの道のりは不二の邪魔が入り、裕太はいつも以上に兄を邪険にした。




「……」
立海を出て暫くして、道の向こうから見覚えのある長身が歩いてくるのに気付いた真田は足を止めた。
すると向こうも気づいたらしく、ひらりと片手を挙げた。
「やあ、真田」
「…乾か」
そしてふと乾の制服姿を上から下まで見回す。
「…この辺の学校ではないようだな」
「うん、俺、青学だから」
青学、と聞いて訝しげな顔をする。
「青学の人間が何故こんな所にいる」
「真田に用があったから」
「俺に?」
「そ。真田、少し時間貰っていいかな」
「…構わんが」
コレのお礼、させてよ、と乾がひらりと振って見せたのは、見覚えのある青いビニルに包まれた手帳だった。
「礼をされるようなことはしていない」
「拾ってくれたじゃない」
「見つけたのは幸村だ」
「うん、だから見つけてくれた幸村にはまた別個でお礼するとして、今日は届けてくれた真田にお礼をしようと思って」
コレが無いと色々と不便だから、本当に助かったよと乾は笑う。
「良ければ近くの公園でお茶でも奢らせて頂けませんか?」
にこっと笑う乾を暫く見つめた後、真田はこくりと頷いた。



公園には散歩中の人や時間を潰すサラリーマンの姿があった。
真田は乾に促されるがまま手近のベンチに座り、お茶でいい?と聞いてくる乾に無言で頷くと乾は設置されている自動販売機へと向かった。
「はい、お待たせ。生茶とウーロン茶、どっちがいい?」
「生茶」
どうぞ、と差し出されたペットボトルを受け取り、乾が隣に座るのを待ってからキャップを外した。
「…テニス部なのだな」
乾の傍らに立てかけられているテニスバッグを見ながら言うと、何故か乾は可笑しそうに笑った。
「何が可笑しい」
「だって、最初に会った時言ったじゃない、テニスしてるって」
「…そうだったか」
「真田って興味のある選手しか覚えない性質デショ」
「……」
図星を指されて黙り込んでしまった真田に、いいよ、と乾は笑う。
「俺は別に真田や手塚ほど強くないし、真田が知らないのも当然だと思う」
「…その、不便ではないのか?」
「ああ、眼の事?今の所は大丈夫だよ。調子が悪いときもあるけど、そういう時はデータで補ってる」
「データテニスをするのか」
「この眼の遠近感は当てにならないからね。だから何処にどうボールが飛んでくるのか分かってないと打てるものも打ち返せない」
くい、と中指で眼鏡を直す仕草を見ながら、その指が思いの他細い事に気づいて思わず真田は視線を逸らす。
「そこまでして、何故テニスをする」
すると乾はきょとんとして(といっても彼の不透過眼鏡のせいでよく分からないが)真田を見た。
「…真田はどうしてテニスをしているの?」
質問を質問で返され、一瞬黙り込むと「好きだからだよね?」と問われてこくりと頷く。
「俺もだよ。テニスをするのが楽しいから、やれるうちにやれるだけやっておきたいんだ」
「…角膜移植とやらでは治らんのか」
知識は無かったが、とりあえず聞いたことのあるそれを口に出すと、乾は「治らないねえ」と苦笑した。
「俺の場合、遺伝子の欠陥による視神経の問題だから角膜を変えたって意味は無いよ」
「そうなのか」
「うちは元々そういう欠陥遺伝子を持った家系みたいでさ。母さんも祖父さんも全盲なんだ」
「…大変だな」
「そうでもないよ。コレのおかげで色々助かってるし」
乾は手帳を胸ポケットからちらりと出して再び仕舞った。
「コレがあると国から色々と助けていただけますし」
小さく笑う乾の表情に、またあの笑顔だと真田は思う。
「…イヤなのか」
「……」
思わず口をついて出た言葉に乾が黙り込んでしまい、真田は慌てて言葉を捜す。
「その、前も思ったのだが、この話をするときのお前は…何と言うか、妙な感じがするというか…」
視線を彷徨わせながら説明すると、乾が小さく噴き出して笑った。
「あ、ごめん。そんなに顔に出てたかなあ」
気をつけないと、と乾は己の頬をさすりながら言う。
「…そうだね、イヤだよ」
その声は先程までとは比べ物にならないほど低いものだった。
「俺が眼に欠陥を持ってることは部活仲間は結構知ってるし、別に隠してるつもりじゃない。でも彼らの前で弱視専用の眼鏡やルーペを使いたくないし白状…あ、弱視の人が持ってる白い杖ね。あれも出来れば持ちたくない。国からの援助も有難いけれど、自分が欠陥を持った人間なんだって思い知らされるから好きじゃない」
そこまで言い切ると乾はふう、と溜息を吐いてウーロン茶を一口飲んだ。
「…ごめんね。何か愚痴っぽくなっちゃった。今までこんなこと言った事無かったのになあ。うーん」
乾は形のよい顎に手を当て、小首を傾げる。
「テニスの技術は努力すればいいんだけど、こればっかりはどうしようもないから納得してるつもりなんだけどね」
真田だからかな、と乾はにこりと笑った。
「…何故、俺なんだ」
「何となく、真田ってそういうのを黙って受け止めてくれそうな感じだから」
その言葉に何と返していいのか分からず黙り込んでいると、不意に乾が薄暗い空を見上げて「あ」と声を洩らした。
「どうした」
「雨が降るね」
言われて空を見上げると、確かに空には暗雲が立ち込めている。
通りで日が沈むにしては早いと思った。
「わ、言ったそばから」
頬に雨粒を受けたのか、そこを撫でながら乾はテニスバッグを持ち上げて立ち上がった。
「雲の流れから見て通り雨だね」
同じ様にテニスバッグを担いで立ち上がった真田はもう一度空を見上げる。
すると顔にぱたぱたと決して小さくない水滴が落ちてきた。
通り雨だとしても、それなりの雨量が予想できる。
「真田、家が近いなら帰ったほうがいいよ。俺はその辺で雨宿りしてから帰るから。…お礼のつもりが長々とつき合わせちゃってゴメンね」
それじゃあ、と踵を返そうとする乾の手を真田は咄嗟に掴んでいた。
「真田?」
「…俺の家はそんなに遠くはない」
「うん」
そうこうしている間にも、雨粒はあっという間にその量を増していく。
「…うちへ、来るか?」
ばたばたと雨の落ちる音が、やけに耳についた。











(2007/08/17)

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