浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第四十一話「真田弦一郎の戸惑い」



結局雨は瞬く間に雷雨と化し、真田邸にたどり着く頃には二人ともずぶ濡れだった。
出迎えた真田の母親は二人の姿を見るなりまあまあと声を上げてタオルを取りに奥へと向かった。
「結局濡れちゃったね」
玄関先で突っ立ったまま乾がそう苦笑する。
「そうだな…」
何気なく乾を見て、不意に息を詰まらせた。
水を吸ったカッターシャツが肌に張り付き、その身長の割りに細い身体が透けて見えている。
何故か見てはいけないものを見たような気がして、真田は咄嗟に視線を逸らした。
「はい、弦一郎。お客様もどうぞ」
やがてタオルを手に戻ってきた母親の姿に真田は内心でほっとした。
「お風呂沸いてるから入ってらっしゃい」
「乾、先に使え」
「え!いや、真田こそ先に入りなよ。そもそも濡れちゃったのは俺の所為なんだし」
いや乾が、いや真田が、と繰り返していると、母親の可笑しそうな声が割って入った。
「なら二人一緒に入ってしまえばいいじゃない」
「は」
「二人くらいなら大丈夫だと思うわ」
いや、そうじゃなく。
真田が言葉を捜している傍らで、乾はぽん、と手を打った。
「そうですね。それがいい」
「は」
今度は乾を見る。いい提案だ、と言わんばかりに彼は頷いていた。
「さ、決まったならさっさと入ってらっしゃいな」
床は拭いておくから気になさらないで、と乾に笑いかける母親と、すみません、と頭を下げる乾を交互に見る。
「真田、どうしたんだい?」
「弦一郎、さっさとしなさい」
お互い何の疑問も持っていない様子に、自分がおかしいのだろうか、と自問しながら真田は乾を連れて風呂場へと向かった。
「わあ、広いね」
脱衣所に着くなり乾は風呂場を覗き込んだ。
きょろきょろと見回すその仕草に、何か珍しいものでもあるのかと問えば、いや、と苦笑が帰ってきた。
「風呂に入るとなると眼鏡を外すだろ?だから先に何処に何があるか把握しておかないとうっかり転んだりするから」
「…すまん」
「へ?別に真田が謝るようなことじゃないよ?」
「そうか。…分からないことがあったら聞いてくれ」
「ありがとう」
そう笑って漸く服を脱ぎだした乾の一挙一挙を無意識に見つめる。
濡れたカッターシャツの下から現れた裸体は、先程は細いとだけ感じたが、こうして見ると筋肉はしっかりとついており、しなやかさを感じさせた。
栄養が全て身長にいったタイプだろう、無駄な贅肉は全く見当たらない。
肌もテニスをしているとは思えない白さを保っており、傷跡一つ見当たらない。
「真田?」
視線に気付いた乾がこちらを見て小首を傾げる。
あの分厚い眼鏡を外した乾の視線は、何処か焦点が合ってない様に見えた。
しかしその澄んだ瞳と小首を傾げる仕草は、真田より身長が高いくせにどこか小動物めいたものを感じた。
眼鏡を外しただけで人の印象はこれ程までに変わるものなのだろうか。
「真田?どうかしたか?」
「…いや」
我に帰った真田は視線を外して己の服を脱いだ。



風呂から上がると、母親はすっかり乾を夕餉に招くつもりらしく、いつもより一人分多い食事が用意されていた。
乾は最初こそ恐縮していたが、真田とその母親に構うものかと丸め込まれ、結局夕食を共にする事になった。
夕食後、服が乾くまで居ればいいと冷茶の注がれたグラスを二つ載せたお盆を片手に乾を自室に通したところ、畳の部屋に彼は驚いていた。というより、はしゃいでいた。
着替えに用意された居た浴衣にも喜んでいたし、その今までに無い子供っぽい仕草に思わず真田は笑みを零してしまう。
「あ、真田が笑った」
それを見た乾が嬉しそうに笑う。
「俺と一緒の時はいつも眉間に皺寄せてるから、嬉しい」
「……」
むっとすると乾はほら、また皺寄ってると真田の眉間を指差して笑った。
真田が盆を置き、その傍らに座ると乾は当然のように真田の隣に座った。
正面に座るものだとばかり思っていた真田は思わず眼を見開いたが、乾にどうしたの?と不思議そうに見上げられ、これが普通なのだろうか、と思う。
「あ、ありがと」
グラスを差し出すと乾は嬉しそうに笑ってそれを一口飲んだ。
こくり、と上下する喉につい目が行ってしまい、慌てて逸らす。
何か、先程からこんなことの繰返しをしている気がする。
そもそも、何故乾を家に招いたのだろう。
部の仲間であってもそうそう自ら呼んだりはしないのに、出会って間もない彼を何故。

不意に、彼のあの空っぽの笑みが脳裏に浮かぶ。

あの笑みの所為なのだろうか、と思う。
穏やかに笑うくせに空っぽで、手を差し伸べなければ何処までも沈んでいってしまいそうなそれ。

乾を、もっと知りたいと思っているというのか。
それとも、手を差し伸べたいと思っているとでも。

「真田?」
はっとすると至近距離に乾の顔があってぎょっとした。
しかもいつの間に外したのか、乾は眼鏡をかけていなかった。
底の見えない漆黒の瞳で、下から覗き込むように真田を見ている乾の浴衣は合わせが緩かったのか、胸元が覗いている。
胸の先に色づくそれ。
見てはならないと思うのに、目が離せない。
不意に下肢に熱が集まり始め、内心で動揺する。
乾は男だぞ。
そう言い聞かせるが、しかし乾には男女関係無い何かを感じるのもまた事実。
「さっきからぼうっとしてるけど、やっぱり風邪引いたのかな」
すっと手を伸ばされ、反射的に身体を逸らした。
「な、何だっ」
内心の動揺を隠すように思わず大きな声を出してしまう。
「熱測ろうと思ったんだけど」
「だ、大丈夫だ。そんな軟な鍛え方しておらんっ」
それもそうか、と乾が身を引き、真田は内心でほっと息を吐いた。
「あ、そういえば」
鞄に、と立ち上がろうとした所で乾は自分の裾を踏んづけてつんのめった。
「わっ」
「乾っ」
倒れこんだ乾を咄嗟に抱きとめると、勢い余って二人はそのまま後ろに倒れこんだ。
「あー真田ゴメン、大丈夫?」
「……」
暢気な声を上げる乾とは裏腹に、真田は返事どころではなかった。
ぴたりと密着した体。嗅ぎ慣れたはずのシャンプーの香り。倒れた拍子に乱れた浴衣。
そして、覗き込んでくる深い色の瞳。
「真田、顔赤いよ?やっぱり熱あるんじゃ…」
抱え込んだ腕の中で乾がもぞりと動き、彼の手が真田の首筋にひたりと添えられた。
ぐるぐると回る思考の中、「あれ?それほどでもない?」と小首を傾げる乾の声が通り過ぎて行く。
「…真田?」
柔らかな囁きが聴覚を擽る。
その瞳が優しく細められる。
その不可思議な色合いの瞳が真田を捕らえ、逸らすことを許さない。
「…イヤなら、突き飛ばしてね」
何が、と思うより早く乾の顔が近づいてきた。

そっと唇に触れた柔らかさに、思わず眼を見開いた。
不思議と嫌悪感は無い。



雨が疾うに止んでいることなど、気付くはずも無かった。











(2007/08/18)

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