浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第四十二話「乾貞治の誘惑」



真田には何故自分たちがこんな事になっているのか分からなかった。
ただ分かるのは、乾が自分に口付けてきたということ、そしてそれが不思議と嫌悪感を齎さなかったということだけだった。
そしてそっと唇が離れると、彼は柔らかく微笑んだ。
何故、と問うより早く彼が「イヤじゃなかった?」と聞いてきた。
「…イヤでは、なかったが…」
「じゃあもう一回、してもいいかい?」
「それは、困る」
ようやっとの事で視線を逸らすが、しかし乾はそれを追いかけるように真田の顔を覗き込む。
「何が困るんだい?」
この眼を見てはいけないと思う。けれど逸らすことができない。
「それは…」
下肢が反応してしまいそうで困る、などとは言えず、言い淀んでいると「答えられないならしちゃうよ?」と微笑んで口付けてきた。
「いぬ…っ…」
先程の触れるだけの口付けとは違い、熱を孕んだ舌が真田の歯列を割り、口内に侵入してくる。
ぬるりとしたそれは真田の上顎を擽っては絡めてくる。背筋を走る微電流のような快感に、どう対応して良いのか分からない真田は乾の舌の動きに翻弄されるばかりだ。
「…っい、ぬい、これ以上は…っ…」
拙い、と続けようとしたそれも乾によって飲み込まれてしまう。
くちゅ、と唾液の絡み合う音に真田は強く目を閉じるが、否が応でも耳に届いてしまい身を捩って逃れようとする。
しかし乾の口付けは執拗で、その舌先の愛撫は真田の下肢に熱を持たせた。
己の変化に気付いた真田は咄嗟に身を引こうとするが、それを阻むように乾が一層身体を密着させてくる。
「大丈夫だから…」
舌先で濡れた唇を舐められ、漸く口付けから解放されたかと思えば乾の手が裾の合わせ目からするりと入り込み、形を変えつつある真田の中心をやんわりと撫で擦った。
「!乾っ」
咄嗟に引き剥がそうと乾の方に手をやるが、するりとその手を取られて指先をちろりと舐められる。上手く力が入らない。
乾はそんな真田の手の甲に口付けを落としながら、艶やかに微笑った。
「俺から逃げないで…真田」










…泣き声が聞こえた。



子供の泣き声だ。


必死に誰かを探しながら泣いている。
いつまで経っても泣き声は治まらない。
俺はそれをただじっと見ているだけだ。


その泣き声を止める術を、俺は知らないのだから。









翌日の練習は散々だった。
いくら集中しようとしても乾の艶姿が脳裏に焼きついて離れない。
灯りを反射する白い肌に映える胸元。
薄らと上気した桃色の目尻。
真田自身をそのしなやかな身体の最奥で受け入れた時の、苦悶と快楽に歪んだ表情。
彼が自分の上で腰を揺らすたび走る強い快感。
下から突き上げるたびに上がる嬌声。
さなだ、と甘えるように何度も呼ぶ声。
絶頂を迎えたときの反り返った首筋のラインの美しさ。
その全てが真田の脳裏を何度も巡り、ミスをしては我に返る、その繰り返しだった。
「弦一郎」
静かな声に振り返れば、いつの間にかすぐそこに柳蓮ニが立っていた。
「どうしたんだ。らしくないな」
「蓮ニか…」
「心此処に在らずといった感じだが、何かあったのか」
「……」
真田はラケットを下ろし、視線を彷徨わせた。
他人にこういったことを相談するのは躊躇われる。
しかし艶事や人の感情の機微に疎い自分では、思考が空回りするだけでどうしようもない。
その点、蓮ニならば何か良いアドバイスをくれるかもしれない。
長い沈黙の後、真田は重い口を開いた。
「…少し、相談したいことがあるのだが」









(2007/08/19)

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