浅瀬を歩む君の滑らかな脚
第四十四話「真田弦一郎から乾貞治へ」 幸村に乾の連絡先を聞くまでも無く、彼は翌日の帰り道、前回同様ひょっこりと現れた。 「い、乾!」 「やあ」 ひらりと手を振る仕草は変わり無く、まるで先日の出来事が無かったかのような素振りだ。 「もしよければ今日も少し時間を戴きたいのですが?」 わざとらしい口調で小首を傾げる仕草は真田の欲目か、何処か愛らしい。 「う、うむ」 本人は勤めて平静を装っているつもりなのだが、動揺しているのは傍目から見て明らかだったらしく乾は苦笑した。 「大丈夫。真田の嫌がるような事はしないから」 「……」 嫌ではないから困るのだ、とは言えず、真田は無言で乾の後に付いて行った。 辿りついたのは、一昨日と同じ公園だった。 同じ様にベンチに座り、「一昨日の事だけど」と乾が切り出した。 「無かったことにしたければそれでも良いよ」 あっさりとした声音に乾を見れば、彼は真田を見るでも無くじっと前を見つめていた。 「真田がそうしたければ俺も忘れるし、不用意に真田の前に現れたりしない」 「……」 無言でその横顔を見つめていると、漸く乾がこちらを向いた。 「俺は真田が好きだけど、困らせたいわけじゃない」 「…乾」 「だから、今決めてくれると有難い。そうじゃないと、また会いに来てしまうだろうから」 微かに苦笑する乾に、真田は緩く首を左右に振った。 「…嫌ではない」 「でも…」 「俺も、恐らく…乾の事が好きなのだと思う。だから、無かった事になど、できん」 「……」 真田は幾度か視線を泳がせた後、ぐっと乾を見据えて告げた。 「順序が逆になってしまったが…乾、俺と付き合ってくれ」 「……」 乾は驚くでも無く、ただ無表情で真田を見ていた。 その不透過のレンズの向こうでその瞳はどんな色を湛えているのかは分からない。しかし、真田は顔を背けず凝乎と乾を見つめていた。 「…俺ね」 やがて、ぽつりと乾は呟くように言ってまた前を見据えた。 「昔、ずっと一緒だって思ってたヤツがいたんだ。そりゃあ一生ってわけには行かないかもしれないけれど、少なくとも一緒に成長して、大人になっていくんだって思ってた。お互いがお互いの特別だと信じてた。でも、ある日突然そいつは俺の前から消えた。俺は何も知らなかった。周りは俺が悪いんだって噂したよ。俺もそうなんだろうかって思ったけど、例えそうであったとしても、それは本人の口から聞きたかった。でも、その後も何の連絡も無かった。未だになんであんな別れ方をしなければならなかったのか、俺には分からない」 「……」 「とにかく哀しくて、認めたくなくて、でもあいつが俺の元を去ったことはどうしようもない事実で。だからもう二度とあんな思いをしなくていいように、信じることを止めたんだ。ずっととか、特別とか、そういった感情の約束は信じないようにしてるんだ。いつでも無かった事に出来るからね、そんな口約束は」 乾の横顔は何処か遠くを見つめていて、口元には薄らと笑みすら浮かんでいた。 全てがどうでも良さげな、排他的な笑みだった。 「つい最近もね、俺の事が好きでずっと傍に居るって言ってた奴が居たけど、結局そいつも今は俺の傍に居ない。俺には何の相談も無く遠くへ行くことを決めてた。直接知らされたのはそいつが旅立つ前日だった。その程度の事なんだよ、結局は」 「……」 乾から視線を外し、真田は俯く。 乾の言葉一つ一つが、まるで乾自身を切りつけている様で居た堪れなかった。 「…哀しいな」 「何が?」 「乾が、だ」 乾がこちらを見たのが視界の隅に映る。 俺が?と彼はきょとんとして言った。 乾は信じることを放棄したと言い、足蹴にするような物言いをする。けれど真田にはそう告げる乾の声音が苛立っているように聞こえてならない。 これは乾の悲鳴なのだ、と真田は思う。 信じないと言いながら、それでもその言葉の裏側では信じたいと願っている。 けれどまた裏切られるのが怖い。だから信じていないふりをしている。 そうやって乾は己を守っているのだ。 そうすることでしか、己を守れないのだ。 「ならば、尚更の事、俺と付き合ってくれ」 乾と向き合ってそう告げると、乾は「尚更とか意味がわかんない」と小首を傾げた。 「俺が、信じさせてやる。俺が乾を好きだという事も、裏切ったりしない事も、信じさせてやる」 「……」 無言でこちらを見ている乾の顔に手を伸ばし、そっとその重量のある眼鏡を外す。 分厚いレンズが無くなり、乾の深い色合いの眼がじっとこちらを見ていた。 その眼としっかり視線を合わせ、真田はもう一度繰り返した。 「俺が信じさせてやる。乾に、もう一度信じるという事を思い出させてやる。だから、俺と付き合え」 「………」 乾は暫くの間じっと真田を見ていたが、徐に視線を伏せるとその手を伸ばし、真田の手にそっと触れた。 まるで子供のように真田の人差し指を握る乾の表情は、苦笑に歪んでいた。 「…俺はきっと、真田に苦労をかけるよ」 「構わん」 「ちょっとでも放って置かれるとダメなんだけど」 「放っておくつもりは無い」 「…結構スキンシップ激しいんだけど」 「…知っている」 「それ、えっちな事も含まれてるんだけど」 「わ、分かっているっ」 まあ真田は身をもって知ってるよね、と漸く微かに笑った乾に内心でほっとする。 乾には、あんな苦しそうな苦笑は似合わない。させたくない。 「急に信じろとは言わん。少しずつでいい。乾が信じれるよう、俺も努力する。だから、」 不意に乾の顔が近づき、一瞬だけ唇が触れ合って離れた。 「いっ、乾!」 思わず掴まれていない方の手で口元を押さえると、乾は「真田、真っ赤」と笑った。 「期待せずに待ってるよ」 そう言いながらも嬉しそうに笑う姿に、真田は「あー、その、だ」と視線を彷徨わせる。 「…今日は、寄って行くのか?」 何処へ、とは言わなかったが、乾には十分だったのだろう。一瞬眼を丸くした乾は、次の瞬間、花が綻ぶような笑顔を浮かべて頷いた。 握られた人差し指が、熱かった。 (2007/08/22) |