浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第四十六話「柳蓮ニの戸惑い」



関東大会決勝、その前哨戦として行われた敗者復活戦で山吹中と緑山中がそれぞれ全国行きを決めていた。
各自ウォーミングアップをしている中、真田の姿が見えないことに気付いた蓮ニは辺りを見回した。
精市に電話でもしにいっているのだろうか、と一瞬思ったが確率的に低いそれを切り捨て、蓮ニは仲間の元を離れた。
「……」
暫く歩くと、東屋の前に見慣れた姿を見つけ、しかし同時にそこにいたもう一つの姿に蓮ニは咄嗟に身を潜めた。

「…レギュラーだったとはな」

真田の低音が空気を伝って蓮ニの耳に響く。
「うん、聞かれなかったから」
穏やかに返すのは、この四年余り一日たりとも忘れたことの無い、掛け替えの無い存在。
乾、貞治。
「…怒った?」
苦笑交じりの、しかし甘えるような声音。
乾があのような声を出すのは気を許した相手、そう、以前ならば蓮ニに対してだけのはずだった。
胸の奥でちりりと何かが燻る音がする。
「いや…その眼で大したものだと思っただけだ」
眼?
蓮ニは思わず二人を見る。
彼は確かに昔から分厚い眼鏡をかけていた。
しかしテニスに支障が出る程ではなかったはずだ。
「データは嘘をつかないからね。俺が負けるのは、相手がデータ以上の動きをした時だけだ」
「…蓮ニは強いぞ」
真田の言葉に、乾は暫く何も言わなかった。
蓮ニの場所からは乾がどんな表情をしているのか見ることは出来ない。
「知ってるよ」
沈黙の後、乾はそう告げて踵を返した。
「それじゃあ、そろそろ戻るね」
「ああ」
ああ、そうだ、と乾は足を止めて振り返る。
「幸村の手術、成功すると良いね」
「必ず成功する」
「うん、そう願ってるよ」
それじゃあ、と今度こそ乾はその場を立ち去った。
真田はその後姿をじっと見つめていたが、やがて蓮ニの居る方へと向かって歩き出した。
「弦一郎」
すっと東屋の柱から姿を現すと、全く気付いていなかったらしい真田は微かに目を見開いて蓮ニ、と呟いた。
「さ…乾、貞治と知り合いだったのか」
貞治、と呼びそうになり蓮ニは咄嗟に言い換える。しかし真田はそれに気付かなかったのか、ああ、と頷くだけだった。
「乾だ、蓮ニ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
しかし思考の回転が速く、尚且つ言葉の足りない真田の意図を察する事に慣れている蓮ニには不幸にも一つの答えを導き出してしまっていた。
「…まさか」
「ああ。度々お前に相談していた相手というのは、乾の事だ」
煩いまでの蝉の鳴き声が、一瞬にして消えた。








「ずっと一緒にいような」

そう言って笑う笑顔が今でも瞼の裏に焼き付いている。
コートを駆けながら、いつもお前の気配を探してる。
居るはずの無いその姿を、同じコート内に求めている。
あんな別れ方を選んだのは、自分自身だというのに。

――乾はシングルスに向いていると思わないか、柳。

お前の笑顔と違って、さっさと消えて欲しい声が今もこびり付いている。
俺は、認めたくなかったんだ。
俺が居なくなったら、お前は一人でコートに立つのだろうか。
それとも他の誰かとダブルスを組むのだろうか。
そのどちらも、赦しがたいことだった。
俺を必要とせず、コートに立つお前の姿を見たくなかった。
例えそれが、お前のためであったとしても。
だから何も言わずに去った。
お前はきっと泣くだろう。
傷付き、悲しみと困惑に暮れ、その深い色合いの瞳を涙で濡らすのだろう。
そしてそのまま崩れてしまえばいい。
俺の傍ら以外に居場所を見出すくらいならば。
テニスなんて止めてしまえばいい。
そして一生、その傷を抱えて生きていけ。
俺という名の傷を抱えて、俺以外の誰も受け入れず。
俺だけを想って生きていけばいい。





「参謀?」
「っ」
蓮ニははっと我に返ると傍らを見た。
「どうしたんスか?さっきからボーっとして」
赤也が珍しいものを見た、と言わんばかりの顔で蓮ニを見ている。
「…いや、予想よりいい動きをすると思ってな」
赤也から視線を逸らし、コートへと戻す。
視線の先では丸井・ジャッカルペアと桃城・海堂ペアが戦っている。
一度落ちたかと思われた海堂が持ち直し、桃城がダンクスマッシュを決めていた。
あーあ、と赤也が見下したような声を上げる。
「ヤツラの作戦にまんまとはまってどーすんすか」
蓮ニを挟んで両脇の赤也と柳生が話しているのを蓮ニは何処か遠くで聞いていた。
視線だけを動かして青学側のベンチを見る。
フェンスの向こう側に立つ長身。
その手は一冊のノートを開いている。
傍らの仲間と言葉を交わしながらも視線はコートを見つめ、シャーペンを握った手はノートの上を走っている。

今なら、あの時の自分がどれほど子供じみた選択をしたのかが分かる。

思惑とは裏腹に、彼はテニスを止めなかった。
そこに至るまでにどんな苦悩があったのかは想像するしかない。
あの表情豊かだった彼が、今は能面の様にただ無表情で試合を見つめている。
けれど、手にしているノートの存在に蓮ニは胸中に嬉々としたものが湧き上がるのを止められない。
彼は忘れてなどいない。
彼がデータテニスをする、それ自体が彼が蓮ニを忘れていないことの証であり、絆だった。
例えその絆がどれほど傷付いていようとも。
彼の中に自分が居座り続けていることが、何よりの喜びだった。
「……」
ふと視線を乾から外し、目の前のベンチに座る真田の背に向ける。
貞治は今、この男と付き合っている。
認めたくは無いが、真田の言葉を信じるのならそうなのだろう。
何より、先程の真田に対する乾のあの甘えたような声音がそれを証明していた。
あれは、彼が自分に甘えてくるときのそれと同じだった。
ちりり、と再び胸の奥で燻るものがある。
ああそうだ、これは嫉妬だ。
彼と別れて以来、忘れて久しい感情に瞑目する。
昔は彼が他の誰かと話すたび感じていた感情。
静かに、そして獰猛にこの身を喰らう獣。
それがまたこの身の内に戻ってきている。

貞治、全ては無駄な事なのだ。

弦一郎を選ぼうと、誰を選ぼうと。
お前の心は俺と共に在る。
だからもう足掻くな。

この手の中に、戻って来い。








(2007/08/24)

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