浅瀬を歩む君の滑らかな脚




あの日から、全てが変わった。

あれだけ輝いていたコートがくすんで見えた。
ボールの軌道を追うのが遅くなった。
自分の手足が鉛でも差し込んだように重くなった。
勝敗など、どうでもよくなった。

何より、蓮ニの居ないコートに立つ事が苦痛だった。


最初の内はまだ信じられなくて、スクールに通ってさえいればひょっこりと戻ってきてくれるんじゃないかと願ってた。
周りがどれだけ陰口を叩こうと、無視し続けた。そんな事は無い、蓮ニが戻ってきてそれを証明してくれる。そう信じてた。
だけどそれも結局は自分の願いでしかないことを思い知らされるだけで、蓮ニは戻ってはこなかった。

蓮ニが居ない。

はっきりとそれを現実として受け入れたのは、暫く経ってからだった。
自室に篭って布団を頭から被り、声を上げて泣いた。
声が掠れるまで泣いて、もうテニスはやめようと思った。
どうせ眼が見えなくなるまでのものなのだ。今やめたっていいだろう。
また昔のように、趣味が手話と点字に戻るだけだ。
俺は、蓮ニの喪失に耐えられなかった。
蓮ニの居ないコートになんて立ちたくなかった。
だからもう、テニスはしない。
泣き疲れて眠りにつく頃にはそう決めていた。

だけど、夢を見た。

コートの中で、俺たちは一緒だった。
俺たちのプレイスタイルは同じだった。
当然だ。データテニスを教えてくれたのは蓮ニなのだから。
同じ事を考え、同時に同じ指示を出し合って、笑いながらテニスをしていた。

楽しかった。
泣きながら目が覚めて、夢を思い出してもう一度泣いた。
だけどもう、声を上げて泣いたりはしなかった。
ただ、涙が溢れて止まらなかった。


ああ、俺、テニスをやめることなんて出来ない。


蓮ニが与えてくれたものを捨てるなんて、俺には出来ない。



蓮ニ、俺はテニスを続けるよ。
俺は俺なりに、お前が与えてくれたものを守っていく。
いつかこの手がお前に届くまで。
俺は、やめないよ。










第四十七話「乾貞治の憧憬」










「貞治…お前、ワザと…」

何を驚いているんだい、教授。

「続きはここからだったハズだな」

俺はこの日のためだけに、コートに立ち続けたのだから。



さあ、あの日の続きをしよう。







≪17−16、柳リード!≫


あの日から全てが変わった。
その筈だった。


≪22−21、乾リード!≫


なのに今、こんなにもコートは輝いている。
あの頃と比べて格段に落ちた視力でもボールの軌道がはっきりと見える。
重かった手足が自由に動く。

なあ、蓮ニ。
俺たちは今、同じコートに立っているんだ。
ネットを挟んではいるけれど、また、お前と一緒のコートに立てた。
俺はこの日をずっと待っていたんだ。


≪29−29!≫


ずっとあの頃に戻りたかった。
ずっとお前と一緒だと無邪気に信じていたあの頃に。
だけど時間は巻き戻せない。
だからせめて、あの日の続きを紡ごう。


≪30−29、乾リード!≫


そうやって漸く俺はお前が居なくなってしまったことを認めることが出来る。
今までは、認めてしまえばお前と俺を繋ぐ全てが消えてしまう気がしていた。
だけどもう、耐えることは無い。
やっと言える。


≪ゲームセット!ウォンバイ乾!7−6!≫


さようなら、教授。
大好きだったよ。







(2007/08/25)

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