浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第四十九話「仁王雅治と切原赤也」



「お」
部活の帰り道、仁王が不意に声を上げて立ち止まった。
「どうしたんすか、仁王先輩」
「見てみ、えらい別嬪じゃ」
指で示された方を見れば、確かに整った顔立ちの青年が歩いている。
しかし赤也は彼自身よりも、彼が手にしている白く細長い杖に目が行った。
青年はその杖の先で行く先を叩きながらゆっくりと歩いている。
「なんすかね、あれ」
「白状じゃ」
「ハクジョウ?」
「弱視のモンが持つ杖の事じゃ」
「へえ。じゃああの人、眼え殆ど見えないって事っすか」
物珍しげに見ていると、不意にその足取りが止まった。
彼の前には数台の自転車が止まっている。
見慣れた違法駐車も、視力の弱い彼には大きな壁なのだろう。杖の先で慎重に確かめながら自転車を避けていく。
「よし、赤也。ちと手伝って来い」
「はあ?!」
何で俺が、と言うより早く背を思い切り押されてしまい、たたらを踏んで青年の前に飛び出してしまった。
「っとぉ…」
仁王先輩のアホンダラ。そんな事を思いながらそおっと目の前の人物を見上げると、彼は驚いたように眼を見開いてこちらを見ていた。
深い色合いの瞳に思わず魅入っていると、彼は不思議そうに小首を傾げた。
「何か?」
「あ、いや、その、そこ、自転車あるんで、その…」
すると彼は「ありがとう」と柔らかく笑った。
「でも大丈夫。これは訓練だから」
そう言って彼は白状の先で地面を叩きながら自転車と赤也の脇を通り過ぎていく。
そして通り過ぎてから赤也を振り返り、「ね?」ともう一度笑った。
何だか随分と余計な事をしてしまったような気がして、赤也は離れた所でにやにやしている仁王を睨み付けた。
「仁王先輩!大丈夫だったじゃないすか!」
すると青年はきょとんとした後、仁王の居る辺りを振り返った。
「仁王?仁王も居るのかい?」
「へ?」
今度は赤也がきょとんとする番だった。
「あんた、仁王先輩の知り合い?」
仁王と青年を指差して見比べると、しかし仁王は違う、と言わんばかりに手をひらひらと顔の前で振った。
「知り合いっていうか…君は切原君だろ?立海の」
「へえ?!」
赤也は素っ頓狂な声を出して目の前の顔を見上げる。
やはりどれだけ見ても見覚えは無い。
「…おー、お前、乾か」
すると寄って来た仁王が青年をじろじろと見回した後、合点がいったように声を上げた。
「やっぱ仁王先輩の知り合いなんじゃないすか」
「つーか、コイツ、青学の乾じゃ」
「はい!?」
もう一度その顔を見る。青学の、と言われてもやはりピンとこない。
こんなヤツ居たっけ?
そうありありと顔に出てたのだろう、仁王が「やから、」と乾と呼ばれた青年を親指で示した。
「参謀を負かした、乾貞治」
「……」
基本的に自分の試合以外興味の無い赤也はおぼろげな記憶を掘り起こし、数秒後、叫んだ。
「うっそ!あのぬぼーっとしたメガネ?!参謀と同じでデータがどうのって言ってた?!うっそ!ぜってえ嘘!」
「これならどうじゃ」
騒ぐ赤也に、すっと仁王が乾の目元を手で隠した。
「あの眼鏡当てはめてみい」
「……」
あの不気味なまでの不透過眼鏡を思い起こし、仁王の手の部分に当てはめてみる。
…確かに、確かに乾貞治だ。
なのだが。
「…ありえねー!!」
眼鏡取ったらとんでもなく美形っていつの漫画だよ!
地団駄踏みたいくらい理不尽な気分に赤也は叫んだ。
「あーかや。ちーっとウルサイぜよ」
「だって仁王先輩、コイツ反則だって!」
コイツ、と指差された乾はただ苦笑している。
その苦笑すら魅入ってしまいそうな何かを持っていて、赤也を余計混乱させた。
「赤也は放っておいて、乾、なんでこんなトコおる」
そう言われてはっとする。
確かに青学の乾が何故神奈川に居るのか。
「この近くの大型スポーツ用品店に用があってね。行くついでに訓練しておこうかと思って」
「そうだよ!何でアンタ見えてんのにそんな杖持ってんだよ!」
紛らわしいんだよ!と声を荒げればやはり彼は苦笑するばかりだ。
「眼が悪いのは本当なんだ。今だって、大体の輪郭と声で君たちを判断しているだけで、顔自体は殆ど見えない」
「でもアンタ、テニスしてたじゃんよ。しかも参謀に勝っちまうし」
すると彼はそれには答えず、はにかんだように笑うだけだった。
「…その蓮ニだけど、今日の事は、あいつには秘密にしておいてくれないかな」
「なんでっすか」
「まあ、色々と事情があってね」
そう言いながら乾は白状を持ち上げると四つに折りたたんで鞄にしまってしまった。
「ええのか」
「仁王たちが居るって事は、蓮ニに見つかる可能性もあるからね。それにしても今日は部活が終わるの早いんだね」
「あー真田が幸村の見舞いにいっとんのじゃ。やから俺らは自主トレこなして解散っちゅーこっちゃ。…それより、参謀への口止め料、貰ってええか」
「出来る範囲でなら」
すると仁王はにっと笑い、乾に素早く顔を近づけて口付けた。
「あー!!!」
叫ぶ赤也を「うるさいぜよ赤也」としれっと流し、仁王は乾から離れた。
「毎度」
にやりと笑う仁王に、乾は困ったように笑って肩を竦めた。
「どういたしまして」
「ほんじゃ、俺は帰るき。赤也、ちゃんと送ったれよー」
「ちょっ、仁王先輩!なんてことしてんすかー!!」
しかし仁王はさっさと二人の間を通り過ぎ、ひらひらと手を振って去っていってしまった。
「あんの詐欺師〜!」
がしがしと髪を掻くと、傍らでくすくすと笑う声がしてむっと唇を尖らせて乾を見上げた。
「んで、あんた杖無しで行けるのかよ」
「そうだね。この辺一帯の地図は叩き込んであるし、前にも一度来たことがあるから不可能ではないよ」
「……」
むすっとして乾を見ていたかと思えば、赤也は徐に乾の手を引いて歩き出した。
「切原君?」
「店、行くんだろーが」
ざかざかと足早に歩く赤也に引っ張られながら、乾は小さく笑った。
「出来ればゆっくり歩いてくれると有難いんだけど」
足元見えないから。と続ければ赤也ははっとしたように、しかし同時に赤くなって「早く言えよな!」と怒鳴った。
「うん、ごめんね」
「謝ってんじゃねえよ!ウゼエ!」
「じゃあ、ありがとう」
「っ…!あ、あんた仁王先輩にキスされてんじゃねえよ!避けろよ!」
言ってすぐに彼にはそれすら困難なのでは、と思いついたが今更取り消すことも出来ずに思わず手を握る力を強くする。
「まあ、目くじら立てるような事でもないから」
「じゃあ俺がさせろつったらさせるのかよ!」
のんびりとした応えに苛立って口走り、はっと我に返る。
さっきから俺、何言ってんだ。ああもうチクショウ!
ワケが分からない苛立ちを抱えながら毒付くと、不意に頬に柔らかい感触が当たって思わず足を止めた。
見上げた先には、にっこりと笑った乾貞治。
「はい、口止め料」
内緒ね、と言う様に人差し指を口元に当てた仕草に赤也は一層赤面する。
「ばっ…なんで仁王先輩は口で俺は頬なんだよ!」
ワケが分からない頭のまま叫んだのは、一番言いたくなかった本音で。
すると乾は己の唇に当てていた人差し指をついっと赤也の唇に当てて微笑んだ。
「こっちは好きな人の為にとっておきなさい」
ね?と小首を傾げる姿と唇に当てられた人差し指の感触に、赤也は全身の血が沸騰するかと思った。
「ばっバカな事言ってんじゃねーよ!ばーかばーか!超ウゼエ!」
小学生のように怒鳴って足早に歩き出したが、それでも彼の手を離すことは出来なかった。








(2007/08/28)

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