浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第五十話「切原赤也と乾貞治」



結局赤也は乾を大型スポーツ用品店まで引っ張っていき、買い物にも付き合った。
といっても乾の言うとおり、ここまで来ること自体が一番の目的だったらしく彼が購入したのはわざわざ神奈川まで来なくても手に入るはずのリストバンドとグリップテープだった。
拍子抜けした赤也を乾は近くのファーストフード店に誘った。お礼に奢るという言葉に赤也は喜び、遠慮なく三種類もハンバーガーを頼み、ポテトとチキンナゲットとジュースもしっかり頼んだ。
「乾さん、そんだけでいいんすか」
赤也に続いて乾が頼んだのはポテトとウーロン茶だけで、それでも彼は「十分だよ」と笑った。
「だからそんなにひょろいんすよ」
「そうかな」
トレーを持って窓際の席に腰掛ける。
窓の外を流れていく人々を眺めながら乾はポテトを一本齧った。
「眼、どれくらいみえないんすか」
照り焼きバーガーに齧り付きながら問うと、乾はうーん、と小首を傾げて赤也を見た。
「そうだね、この距離で切原君の表情が分からないくらいかな」
この距離、つまりテーブル一枚分しかない。
赤也から見れば乾の表情も、その色合いの深い瞳もはっきりと見て取れるのに、乾はそれが全く分からないと言う。
「へえ。よくそんなんでウチの参謀に勝てましたね」
すると乾は曖昧な笑みを浮かべた。
あ、まただ、と赤也は思う。
乾は柳の名が出るたびこうやって何かを誤魔化すような曖昧な笑みを浮かべる。
嘗てダブルスを組んでいたという話は聞いたが、それに何か関係しているのだろうか。
「眼鏡を掛ければ多少は違うし、何より俺にはデータがあるからね」
「あー、参謀が教えたって言う」
我ながら無神経だとは思うが、しかしそれを悪いとは思わない。
乾も赤也の気性を分かっているのか、気を悪くした様子も無く「そう」と頷いた。
「蓮ニには感謝しているよ。蓮ニがデータテニスを教えてくれなければ俺は今日までテニスを続けることは出来なかっただろうから」
「なんでそこまでしてテニス続けるんすか」
「そうだな、まあ、意地もあったんだろうけど、やっぱりテニスが好きだから、かな?」
でもまあ、この夏でそれも終わりかな、と彼は窓の外を眺めながら呟いた。
「いい加減視力も落ちてきたし、目指すものも達成したし」
「…全国制覇はどうでもいいんすか」
思わず低くなった声に、ああ、ごめん、と乾は苦笑した。
「そういう意味じゃなくて、勿論部員としては全国制覇を成し遂げたい所だけど、俺自身がテニスを続ける理由が無くなってしまったから、皆の足を引っ張る前に身を引こうかと思ってね」
「理由が無いって、さっき好きだからっつってたじゃん。それじゃダメなんすか」
「…これ以上続けたら、嫌いになってしまいそうだから」
「はあ?」
赤也はイラついていた。好きだの嫌いだの行ったり来たりする話にも苛立ったが、この目の前の男がテニスを諦めると言外に仄めかしている事に気づいた途端、無性に腹が立っていた。
しかし、乾が何処か寂しげな笑みを浮かべた途端、怒りのボルテージが一気に下がった。
「このまま行けば俺はテニスをするどころか、正確なデータを取ることもできなくなるだろう。じりじりと自分のプレイが出来なくなっていく事を自覚しながら続けるのは趣味じゃないし、視覚障害者によるハンディキャップテニスはあるんだが、俺がやりたいテニスはそんなテニスじゃない。…何より、恨みたくないんだよ。テニスを」
「恨む?」
「テニスなんてやらなければ良かった、なんて思いたくはないんだ。テニスは俺に多くのものを与えてくれたから、テニスに八つ当たりするようなことはしたくない。だから、自分のプレイが出来ている今の内にやめておこうと思ってね」
「……」
赤也は三つめのハンバーガーに齧り付いて黙り込んだ。
混乱していた。
そんなのはお前が弱いのだ、ギリギリまで縋り付いて見せろと言うのは簡単だ。しかし、赤也には視力の無い世界に放り込まれる事がどんな事なのかが今一つ理解できない。見えることは当たり前だったし、いつか見えなくなるかもなどと考えたことも無い。
だから目の見える自分が彼をバカにするのはお門違いだと思ったのだ。
遠慮だなんて自分らしくないと思う。
しかし、と赤也はちらりと乾を見る。
赤也の視線に気付けない乾は何でもないようにウーロン茶を啜っている。
この人を、傷つけてはならないような気がしたのだ。
「…なんで、俺にそんな話するんすか」
問いかけに漸く赤也が自分を見つめていた事に気づいた乾が小首を傾げた。
何でこの人はこんな図体でかいくせに小動物みたいなこまい動きが似合うのだろう。
「そうだね、何故だろう。…真田といい幸村といい、俺、立海人に弱いのかな」
「は?なに、アンタ幸村部長と真田副部長も知り合いなんすか」
「ああ、俺の通ってる病院が幸村と同じ病院でね。偶然知り合ったんだ。真田はその延長みたいなものかな」
「へえ、俺アンタ見たこと無いけど」
「そりゃあ俺が幸村に会いに行くのは大抵が平日の午前中だったからね」
「ふーん」
何か面白くない。
ずずーっとメロンソーダを啜りながら赤也は思う。
参謀はともかく、自分が一番乗りだと思ってたのに。
三鬼才全員と知り合いなんじゃん。
幸村と乾の組み合わせは何となく分かる。
でも、真田と乾はどうなんだろう。
話すことあるのか?あの真田副部長と。
そんな事を思いながら何気なく店に入ってきた人物に目を向け、ぎょっとした。
「げ」
その真田が、入ってきたのだ。
「ん?どうかしたかい?」
「あ、いや、真田副部長が…」
あの真田がファーストフード店に。有り得ない。
しかし乾は「ああ」と得心が行ったように頷いて振り返った。
「乾、待たせたな。…何故赤也がここに居る」
二人のテーブルにやってきた真田はまず乾を見下ろし、次に赤也を睨んだ。
何故睨まれなければならないのかわからず狼狽していると、乾がにこりと微笑んで真田を見上げた。
「途中で偶然会ってね。店まで案内してもらったんだ」
乾の言葉に漸く視線を緩め、そうか、と真田は頷いた。
「悪いね、真田の後輩勝手に使っちゃって」
「構わん」
「それより、幸村の見舞いに行ってたんだって?どうだった?」
「順調だ。お前にも会いたがっていたぞ」
「そう?決勝が終わったばかりだから会いに行き辛かったんだが…なら今度の検診の時にでも寄るよ」
「そうしてやってくれ」
「ていうか真田副部長!」
二人の会話に割って入るように赤也が声を上げた。
「何だ、赤也」
「何で真田副部長がこんな所にいるんすか」
家と逆じゃないすか、と続ければ真田は当然のような顔をして「乾を迎えに来たのだ」と告げた。
「はあ?」
「うん、元々真田とここで待ち合わせしてたんだよ」
「乾、白状はどうした」
「切原君が誘導してくれたから、鞄にしまってある」
「そうか。なら行くぞ」
「そうだね。切原君、今日はありがとう。ああ、あとは飲み物だけかい?ならこっちのゴミは俺が捨てておくよ」
「貸せ。俺がやろう」
「ありがとう、真田」
ぽかんとしている赤也を尻目に二人はどんどん会話を進めていく。
真田がゴミを捨てに行き、戻ってくると乾が立ち上がった。
「それじゃあ切原君、また」
「はあ…」
唖然としたままの赤也の目の前で乾は真田の腕に左手を添え、真田もそれを当たり前のように受け入れている。
ひらひらと手を振る乾に反射的に振り返しながら、赤也は二人の後姿を見送った。
ぱたり、と振っていた手がテーブルに落ちる。
「…何で乾さんを真田副部長が迎えに来るんすか…」
しかし遅すぎた問いかけに答えるものは誰もいなかった。
「わけわかんねえ…」









(2007/08/30)

戻る