浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第五十一話「仁王雅治と乾貞治」



「乾」
フェンス前でノートを広げていると、背後から声が掛かった。
「ん?」
振り返ると、フェンスの向こう側に見覚えのある姿が立っていた。
「仁王?」
「よ」
ぴしっと片手を挙げたのは、制服姿の仁王雅治だった。
「どうしたんだい。立海もまだ部活中のはずだが」
すると仁王は「フケてきた」とにやりと笑った。
「真田が怒るよ」
「ええんじゃ。真田なんぞ怒らせとき。それより、ぬしこの後ヒマか」
「一旦帰ってからまた神奈川行くつもりなんだけど」
「ほんならご一緒、してええか」
乾は数秒考えた後、いいよ、と頷いた。
「なら、部活終わるまでその辺で待っとるき」
「ああ。ウチの子らにはちょっかいかけるなよ?」
「わかっとるよ」
ひらひらと手を振って木陰に向かう仁王の後姿を見送り、乾はコートに向き直った。
「うわっ、不二、驚かせるなよ」
真後ろに立っていた不二に乾がびくりとすると、不二は不機嫌そうに乾を見上げていた。
「仁王にも手を出したの?」
「いや?昨日街で偶然会ったくらいだけど」
「じゃあ何でわざわざ青学まで会いに来るわけ?」
「さあ」
サッパリ分からない、と言わんばかりに小首を傾げる乾に、不二は一つ溜息を吐いた。
「乾って計算ずくなのか天然なのかどっちなの?」
「仁王を引っ掛けた覚えは無いよ」
真面目に言う乾に不二はやれやれと肩を竦めた。
「あーはいはい、両方ね。もう手に負えないよ」
せめて手塚にはバレないようにね、と去っていく不二の背に、乾が小さく呟いた。
「バレてくれないと意味が無いんだよ」



部活が終わると乾は仁王と連れ立って帰路に着いた。
仁王の存在に菊丸や大石は警戒していたようだったが、乾は敢えてそれらを無視する事にした。
やがてマンションに到着し、仁王をエントランスに待たせておくのも気の毒だったので部屋に上げることにした。
「着替えてくるから、その辺で適当に寛いでて」
物珍しげに室内を見回す仁王をリビングに置き去りにして乾は自室に向かった。
愛用している水色が涼しげなジャージを取り出し、制服を脱いだ所で徐に仁王が部屋に入ってきた。
「仁王?」
彼は半裸の乾の体をじろじろと見回し、そしてにやりと笑った。
「それ、真田がつけたんじゃろ」
それ、とは恐らく乾の体に散る無数の鬱血痕の事だろう。
乾はひょいと肩を竦めてシャツを羽織った。
「さあ?」
「恍けるんならそれでええけど。ぬしに興味が湧いた」
歩み寄ってきた仁王が徐に乾の肩を押した。
「わっ」
バランスを崩してベッドに倒れこむと、ぎしりと音を立てて仁王もベッドに膝を付き乾に覆いかぶさった。
「あの堅物が夢中になるん、味見させてもらうぜよ」
途端、乾は己の思考が冷めていくのが分かった。
確かに彼が会いに来た時点でその可能性は考えていた。
けれど例えそうなったとしても別にどうだってよかった。
身体くらい、どうだっていい。
そう、思っていた。筈だった。
「に、おう…」
首筋を這う生暖かい感触にぴくりと身体を震わせて目を閉じる。
閉じた瞼の暗闇の向こう、思考の奥底で何かが鳴っている。
ああ、これは警鐘だ。
いけない、と頭のどこかで囁く声がする。
何故。今までこんなこと無かったのに。
「っ」
不意に、真田の顔が脳裏に浮かんだ。
このまま仁王と寝てしまえば、真田は赦さないだろう。
きっと真田は自分の元を去るだろう。
ああ、何処かで警鐘が鳴っている。
「に、お…やめっ…」
シャツの中に滑り込んだ手を押し止めるようにその手首を掴む。
初めてだった。
二年前に大和に抱かれて以来、拒んだのは初めての経験だった。
仁王が嫌だとかそういうわけではない。
なのに無意識に逃れようと身を捩っている。

「乾、これも参謀殿への口止め料じゃ、言うたらどうする」

ひたりと乾の動きが止まった。
己を組み伏せる男を見上げると、彼は意地の悪い笑みを唇に貼り付けて乾を見下ろしている。
仁王は、選ばせようとしている。
蓮ニに眼の事を知られるか、真田に背くか、どちらかを選べ、と。
「……」
乾は数秒の間、仁王を見つめていたがふと微笑して仁王の首に腕を絡めて引き寄せた。
重なる唇。ぬるりと入り込んでくる熱い舌の感触。
「んっ…」

ごめんね、真田。
俺は結局、こういう人間なんだよ。

ぎ、と二人分の体重を受けてベッドが軋む。
唇は角度を変えながら何度も重なり、仁王の手が乾の胸元を弄った。
「っは、ぁ…んんっ…」
指と舌で舐られ、身を捩りながら甘い声を洩らす。



なあ、跡部。
まだ間に合うかも、なんて、やっぱり無理だよね。贅沢すぎたんだ。
全ては今更、だ。



「…っぁ…に、おう…!」





真田には、嫌われたく、なかったなあ。














(2007/08/31)

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