浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第五十二話「真田弦一郎の敗北」



その夜、いつもの時間になっても乾は現れなかった。
いつもなら到着する少し前にメールが入るのだが、それすら無い。
何かあったのだろうかと、しかし自分から電話することも出来ず躊躇っていると不意に手の中の携帯電話が震えだして取り落としそうになった。
ディスプレイには「乾貞治」の文字。
「乾か」
通話ボタンを押して耳元に当てると「やあ」といつもの乾の声が電話越しに聞こえた。
『少し、出てこれるかな』
「構わんが…ウチではいかんのか」
すると乾は回線の向こうでああ、うん、と何処か曖昧な返事をした。
『ちょっと、外で話したくて』
乾が指定したのは、二人で話したあの公園だった。



夜の公園はライトアップされていて、ベンチで横になっているサラリーマンや東屋で楽しそうに話している恋人同士がちらほらと見受けられた。
乾はいつもと同じ、自動販売機近くのベンチに座っていた。
「乾」
乾はいつもの水色のジャージを着込んでおり、しかし何処か力なく真田に笑いかけた。
「やあ」
「どうしたのだ、一体」
その問いには答えず、乾はすらりと立ち上がった。
「真田、俺を殴ってくれないか」
突然の申し出に真田は眉を顰めた。
「どういうことだ」
「俺ね、さっきまで他の男に抱かれてたんだ」
薄い笑みを浮かべてそう告げる乾を真田は瞠目して見つめる。
「顔見知りだったから油断したよ。俺が迂闊だったんだ。だけど最初はどうでもよかった。身体くらい、好きにすればいいと思ってた」
でも、と彼は眉尻を下げて笑った。
「真田の顔が浮かんだんだ」
流されたらダメだと思った。
真田はきっと赦してくれないから。
なのに。
「ダメだった。結局、俺はこういう人間だったんだ」
だから、殴って欲しいと乾は言う。
「……」
真田が俯いた乾の頬に手を伸ばすと、びくりとその身体が震えた。
すいっと彼の重い眼鏡を取り上げると、乾は揺れる瞳で真田を見た。
「…お前が一番傷付いているのに、殴れるわけ無かろう」
「…俺が、傷付いてる…?」
「そんな顔をされたら、殴る気も失せる」
それに、と抱き寄せると乾の体が強張るのを感じた。
「こうして打ち明けてくれたということは、少しは俺の事を信用してくれているということにはならないだろうか」
「…信用…?俺が…?」
「その気になれば隠し通すことも容易だったはずだ。しかしお前はこうして俺に打ち明けてくれた」
「……俺、ずっと真田の事考えてた。真田、怒るだろうな、とか、もう会えないかもしれない、とか…でも、隠している方が嫌で、でも真田を失うのも嫌で…」
おずおずと乾の手が真田の背に回される。
「確かに腹は立っているが、どちらかと言えばお前に対してというより相手に対して怒り、というか、嫉妬している。誰とも知らん輩がお前を好きにしたかと思うと腸煮えくり返るわ」
「…知らない輩じゃないんだけどね」
小さく呟かれた言葉に真田はばっと乾から身を離し、その両肩を掴んだ。
「俺の知ってる奴か!誰だ!」
真田の剣幕に乾は右に左に視線を彷徨わせた後、ぽそりと告げた。
「…ええと…仁王」
「おのれ仁王!叩っ斬ってやるわ!」
「わー!待って、待って真田!」
ぐるりと踵を返して歩き出した真田の腕に乾が慌ててしがみ付いた。
「流された俺も悪いんだし、だからちょっと待ってって!」
「しかし乾!」
乾を引きずってでも仁王の元へ向かいそうな勢いに、乾は仕方ない、と眼鏡を外して真田をじっと見つめた。
「真田…」
「な、なんだ」
切なげに揺れる瞳に真田が硬直する。
視線はしっかり真田を見つめたまま、きゅっとその腕に寄り添った。
「仁王の所になんて行かないで。今夜は、ずっと俺を抱いていて…」
仁王のこと、忘れさせて。ね?
儚げに微笑めば、真田の顔は一気に朱に染まり、油の足りない機械のようにぎしぎしとした動きで乾と向き合った。
「い、乾がそう言うのなら、仁王の事は明日にしよう」
「ありがとう、真田」
結局、真田が乾に敵うはずが無かったのだった。








(2007/08/03)

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