浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第五十三話「手塚国光の帰還」



「久しぶり。元気?…ああ、会うのは正月以来だね。うん、ごめんごめん。さすがに三年になるとね。特進は容赦ないから。あは、それもそうだ。…うん、まだ大丈夫だよ。そこそこ見えてるから。…うん、ありがとう。皆にも宜しく伝えておいて。会えるのを楽しみにしてるよ」



全国大会を二日前に控えたその日、手塚は帰ってきた。
乾はそれを大石からの電話で知った。
そもそも手塚が九州に行ってから一度も連絡を取っていなかったし、手塚がどう思っていたにせよ乾から連絡を取ろうとは思わなかった。
だから回線の向こうで喜ぶ大石の声に淡々と応えを返したが、大石はそれに気付かなかった。
手塚が帰ってくる。
大した感慨は沸かなかった。
ただ、念のために常飲薬と一緒に不穏時にと処方された薬を一粒追加した。
どうも手塚に対しては感情のコントロールが聞かなくなるときがある。
それは決して、良い傾向ではないことを乾自身、理解していた。


「これが全国で勝てる最強メンバーです。竜崎先生」

そう言って大石が流した一筋の涙を、乾は見ることが出来なかった。
ただフェンスの向こうで握手を交わす二人を、ぼやけた視界で眺めていた。
俺にはもう、あんな風にはなれない。
漠然とそう感じていた。
テニスは好きだ。
でも、もう終わりが見えている。
四年前に果たせなかった思い出にも決着をつけた。
これ以上の執着は後悔を呼ぶだけだ。
テニスが好きだから続けている。
その思いだけでここにいる。
それだけならば、もう、終わりにしよう。
全国大会までは全力を以って勝ちに挑もう。
しかしそれが終わったら、テニスからはもう、離れよう。
そうする事が一番なのだ。
だけど。
「……」
フェンスに指先を掛けると、込めた力に応じてそれは軋んだ音を立てた。

俺だけ光を失うなんて、不公平だと思わないか。
なあ、手塚。




返ってきた日常。
手塚の居る青学。
なのに何処か己が異分子であるような感じがして乾は携帯を弄る手を止めた。
今この部室には手塚と自分だけが残っていた。
手塚は不在中の部誌記録を読んでいる。
その端正な横顔は記憶と寸分の違いも無い。
ああ、そうか。
乾は思う。
この違和感は、罪悪感か。
手塚を一方的に振り回して捨てておいて、それでも尚引きずり込もうとしている事への。
一人前にそんなもの、持ち合わせていたのだな。
乾は何処か他人事のように思う。
手塚は己が裏切られていることなど思いもよらないだろう。
乾が手塚を、手塚が乾を想うのと同じ意味で好きではないことは手塚も知っている。
それでも手塚という存在は乾の中で特別な意味を持っているのだと信じているのだろう。
事実、そうであることは乾も否定はしない。
乾にとって手塚は特別だった。
何よりも誰よりも丁寧に、慎重に扱った。
例え置き去りにしようとも、捨てようとも戻ってくるように。
そう仕向けた。
「…乾?」
視線に気付いた手塚が乾を見る。
何でもないよ、と笑って乾は再び携帯の画面に視線を落とす。
カチカチとボタンを連打する音が続き、そして送信する。
送信完了の画面が表示されると同時に携帯を閉じ、胸ポケットにしまった。
「ねえ、手塚」
背もたれに身体を預けると、安っぽいパイプ椅子はぎしりと音を立てた。
さあ、最終調整といこうじゃないか。
「何だ」

俺の事が本当に好きならば。

「俺ね、今、立海の真田と付き合ってるんだ」



俺を奪い返してごらん、手塚。









(2007/08/04)

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