浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第五十四話「手塚国光の困惑」



今、乾は何と言った?
手塚が瞠目したまま乾を見つめていると、聞いてる?と乾が小首を傾げた。
「な、に…?」
辛うじて絞り出した声に、乾は淡々と同じ言葉を繰り返した。

「俺ね、今、立海の真田と付き合ってるんだ」

視界が歪んだ気がした。
何故、と吐き出すように問えば彼は換わらない微笑みを浮かべて。
「だって、真田が俺の事好きだって言うから」
言ったよね、手塚。乾はいっそ優しささえ湛えて笑う。
「俺を離しちゃダメだよって。ねえ手塚、どうして九州にいる間、一度も連絡くれなかったの?大石とはまめに連絡取ってたのに」
柔らかな声が棘となって突き刺さる。
乾とて分かっているのだ。声を聞けば会いたくなることも、治療に専念したいという手塚の思いも。分かって手塚を責めている。
それが手塚にも理解できていたので余計に何も言えなくなる。
「……どうすれば、良かったと言うのだ」
視線を落として問えば、別に何も、と淡白な応えが返ってくる。
「もう過ぎてしまったことだから、どうしようもないよね」
「俺はもう、お前には必要ないということか」
「…手塚」
かたりと乾が立ち上がる気配に手塚は身を強張らせる。
目の前に立った乾をまるで縋るように見上げると、彼は慈愛さえ孕んだ微笑みで手塚の頬をそっとその掌で包み込んで見下ろしていた。
「今でも俺の一番は手塚だよ。手塚が一番好きだし、特別」
でもね、と乾の顔が近づき、そっと羽が触れるように口付けられた。
「真田に抱かれると、安心するんだ」
呆然と間近の乾を見上げていると、すっと乾は身を起こして手塚から一歩退いた。
そしてそのまま踵を返し、テニスバッグを提げて扉へ向かって歩いていく。
「ねえ、手塚」
部室から出る一歩手前で立ち止まると、乾は手塚を振り返った。

「欲しいものは、座ってるだけじゃ手に入らないよ」

ぱたりと扉が閉まる。
手塚はただ只管乾の出て行ったその扉を見ていた。

「…乾…」

呼んでも応えがあるはずも無く。
頬に触れた温もりは変わらぬものだったのに。
「い、ぬい…」

お前を取り戻すには、どうすればいい。





薄暗くなり始めた道を歩きながら、乾は携帯電話を耳に当てて歩いていた。
『それで、どうするつもりなんだ』
電話越しの跡部の声に、乾は「えー?」と小首を傾げながら返した。
「俺は何もしないよ。後は手塚次第だもの」
『そうじゃねえ。真田の方だ』
ああ、そっち。
乾は得心がいった様に応えた。
「仁王との事があったばかりだし、手塚の事は伏せておくよ」
『真田を切るつもりは無いんだな』
「うん。だって真田、面白いもん。…!」
マンションの前まで来て乾は瞠目して立ち止まった。
エントランスに佇む、すらりとした人影。
『乾?おい』
「……蓮ニ」
まるでその声が聞こえたかのように彼は顔を上げ、乾を見た。
『…乾』
跡部の案ずる声音に大丈夫、と乾は返す。
「…また、連絡する」
『…わかった』
「それじゃあ」
ぷつりと回線を断ち切り、乾は歩み寄ってきた相手を見返す。
「歩きながらの通話は余り好ましくないな、貞治」
落ち着いた声音。親しげな雰囲気。
しかし乾は訝しげに蓮ニを見た。
「こんな所まで、どうしたんだい」
愚問だな。彼は微かに笑った。
「お前に会いに来たのだ。貞治」






(2007/08/05)

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