浅瀬を歩む君の滑らかな脚
|
第五十五話「乾貞治の困惑」 お前に会いに来た。 そう目の前の男は言った。 別に不思議な事でも不自然な事でもない。 蓮ニとの蟠りはあの試合で全て解消されているのだ。 必要以上の言葉は交わさなかったが、あれだけで十分だった。 幼い頃の思い出に決別をした。 だからもう、こうして顔を合わせても何も問題は無い。 そのはず、なのに。 「…そう、神奈川からわざわざご苦労様、蓮ニ」 唇の端が引きつる。 ちゃんと笑えているだろうか。 何故だろう。何故こんなに自分は動揺しているのだろう。 心音が早まり、指先が冷えていく。 「お前とて、毎日と言って良いほど神奈川に来ているだろう、貞治」 ぴくりと指先が震えた。 ああ、そうか。 「知ってたんだ」 「お前の事だからな」 ぴくりとまた指先が震え、それを隠すように強く拳を握り締めた。 「それで、今日はどうしたの」 視線を、逸らしてしまいたい。 早く、この場を立ち去りたい。 「かえってこい、貞治」 蓮ニの言葉が脳髄を貫くような衝撃となって全身を硬直させる。 ああ、そうだ、この不安定な感覚は。 畏れ、だ。 蓮ニが怖い。 否、「柳蓮ニ」という「存在」が怖い。 「乾貞治」を構成するに当たって「柳蓮ニ」というファクターは欠かせない。 彼が居たからこそ、今の自分が在ると言っても過言ではない。 彼こそが今の自分を創り出したのだ。 「手塚や弦一郎ではお前の欲しいものは手に入らない」 静かな声が脳内でうわんうわんと鳴っている。 ――ねえ、乾君。 不意に、それを切り裂くように違う声が聞こえた。 大和の声だ。 ――君は、手塚君が欲しいんでしょうか。それとも… 「貞治、お前の歪みを埋められるのは、俺だけだ」 ――柳蓮ニ君の代わりを、探しているだけなのかな? 「や、めろ…」 無意識に胸元を握り締める。 気持ちが悪い。 「貞治」 逃れることを赦さない静謐な声音。 もう片方の手で口元を押さえた。 ふらりと一歩後ずさる。 全てを吐き出してしまいそうだった。 手塚は乾を追いかけていた。 乾が部室を去ってから、幾ら考えても答えは出なかった。 どうすれば良いかなんて分からないままだった。 それでも、己が乾を好きだということは変えようも無い事実で。 乾の気持ちが何処にあるとしても、諦めることなどできそうにない。 俺は、乾を諦めない。 それだけを伝えるために手塚は乾のマンションへと急いでいた。 そして目指すマンションの前に立つ長身を認め、しかし彼と向き合っている人物に眉根を寄せた。 あれは確か、立海の柳蓮ニ。 かつて、乾とダブルスを組んでいたという男。 関東大会の決勝で乾に敗れたことは聞いている。 その柳が何故、ここに。 しかし、その疑問も乾がふらりとその長身を傾げた事によって吹き飛んだ。 「乾!」 駆け寄り、その身体を支えると小さく手塚を呼ぶ乾の声が聞こえた。 「て、づか…?」 「大丈夫か、乾」 きっと柳を見ると、彼は乾を心配するでも無く、手塚の突然の登場に驚くでも無くただ静かに乾を見ていた。 「乾に、何を言った」 手塚の鋭い眼光にも怯む事無く柳は一言、「真実を」とだけ告げた。 「真実、だと?」 「…手塚、いいから…」 先を促す手塚の声は立ち直った乾によって遮られる。 もう大丈夫だから、と手塚の肩に手を置いて乾は柳を見た。 「…今日はもう、帰ってくれないか」 「…良いだろう」 するとあっさりと彼はそう頷き、二人の脇を通って去っていった。 「……」 「……」 「…もう、大丈夫だから」 彼はもう一度そう繰り返すが、その顔色はただでさえ白い肌が一層青白くなっている。 「ダメだ。部屋まで送らせてもらうぞ」 じっと睨みつけるように見つめれば、彼は小さな溜息を吐いてそれを了承した。 「……ねえ、手塚」 今日は階段を上る気力も無いらしく、エレベーターを待っていると不意に乾が口を開いた。 「何だ」 「……」 自分から振っておいて乾は黙り込んでいる。 手塚もそのまま黙っていると、エレベーターの扉が左右に開いた。 二人して決して広くないその匣に乗り込み、扉が閉じる。 一瞬の浮遊感。 乾が小さく告げた。 「追いかけてくれて、ありがとう」 (2007/08/06) |