浅瀬を歩む君の滑らかな脚




第五十六話「手塚国光の執着」



乾の住む部屋はこのマンションの最上階に存在する。
エレベーターを降りて一番端の扉。
そこまで辿りつくと、乾はくるりと手塚を振り返った。
「はい、部屋まで着いたよ」
何処かからかいを滲ませた声音にむっとしながらも安堵する。
「…ちゃんと横になるまで見届ける」
よかった、いつもの乾だ。
「そう言うと思ったよ」
微かな笑いを滲ませて玄関をくぐる乾に続く。
乾の家は、犬を飼っているくせに動物臭が殆どしない。
それは恐らく、その犬のパートナーである彼の母親が余りこの家に帰って来ない所為だと手塚は思う。
詳しい話は聞いたことがなかったが、一度だけ、偶然乾と一緒に歩いていた彼の母親との会話で手塚は彼の母親が郊外にある実家を主な生活基盤としている事を聞き及んでいた。
父親の方は聞いたことがないからどんな人かも分からない。
乾と彼の母親を見る限り、少なくとも乾と両親が不仲で、というわけではないようだ。
やはり乾や彼の母親の持つ障害絡みだろうとは思うがやはりはっきりした事は分からない。
段差の潰された敷居や要所要所に取り付けられた点字シート。
乾の視力はまだ見えているはずなのだが、癖なのだろう、点字シートに手を滑らせる仕草はとても自然だった。
そして乾の自室に入ると、今まで整然としていた光景が一転する。
散らばった本やビデオテープ、CD−ROM、コードの繋ぎっ放しのハンディカメラ。
乱雑に散らかされた本やテープは視力障害者としてそれはどうなのだと思うのだが、本人曰く、あの辺は歩くエリアじゃないから、だそうだ。
そしてパソコン専用のデスクに勉強机。机の上には何冊かのノートに筆記用具、そして点字タイプライターと一つの写真立てがあった。
以前乾の部屋を訪れた際はあんな写真立ては無かった筈だが。
そんな事を思いながらその写真に眼を凝らそうとした途端、徐に乾の手がその写真立てを手に取った。
「乾?」
後姿からははっきりとした事は分からないが、どうやらその写真を見ているらしい。
呼び掛けにも反応せず、暫くの沈黙が続いたかと思った途端、乾は写真立てを持つ手を振り上げた。
「乾!」
咄嗟に背後から振り上げられた腕に飛びつくと、乾の体がびくりと揺れてその手から写真立てが落ちた。
ごとりと音を立てて写真立てはカーペットの上に転がった。
そこには幼い乾と、立海の柳が笑いながら仲良く手を握り合う姿が写っていた。
「乾…」
乾の息が荒い。全身を強張らせ、動悸を抑えるように肩で息をし、その横顔は初めて見る険しさを宿していた。
乾が柳蓮ニとダブルスを組んでいた事も、それが唐突に解消された事も知っている。
そして先日の関東大会で戦い、勝利を収めたことも大石から聞いていたのだが。

乾は、独りである事を極端に嫌う。

常に己のシンパサイザーとも言える相手を傍に置き、それを育てる事によって自己を埋める傾向がある。
それらは柳との別離がきっかけではないだろうかと手塚は思っている。
当時ダブルスで有名だった彼らの突然の解消の噂は手塚が当時通っていたスクールにも届いていた。
そしてそれが乾に優しくない噂だということも。
だからきっと乾の中でそれは多かれ少なかれ瑕となっているのだろうと思っていた。
独りを嫌うのも、それが原因だと思っていた。
だからこそ、乾の勝利は乾の中の何かを癒してくれるのではと思っていた。

しかし、それは何の解決にもなっていなかったのだ。

乾の瑕は、テニスの勝敗で解決できるほど浅くはなかったのだ。
もっと深い、根本的な所で乾の瑕は今も口を開いている。
柳は、それを知っていて乾の元を訪れたのだ。
瑕を広げるためか、癒すためか、それは分からないが。
少なくとも、乾にとって彼との接触は瑕を掻き毟る事と同じだったらしい。
手塚は乾の頭を引き寄せて抱え込み、その髪に頬を寄せて思う。

乾を傷つけるものは、何であろうと赦しはしない。

これ以上、柳を乾に近づけさせない。
否、柳だけではない。真田もだ。
乾が誰を選ぼうと、自分を必要としてくれるならそれでいいと思っていた。
傍に居られればそれでいいと思っていた。
思い込もうとしていた。
けれど、それだけでは駄目なのだ。
与えられるのを待っているだけでは、乾はすぐに何処かへ行ってしまう。
乾は己に無頓着だから、求められればすぐにそちらへ行ってしまう。
もう、乾が自分をどう思っていようと関係ない。
乾をここに、自分の元に、縛り付けてしまおう。
乾は優しいから、それを赦すだろう。
だから乾が見逃す限り、何処へも飛び立てないよう縫いとめてしまおう。
「乾…」
頭を抱く力を緩めるとゆるりと乾が顔を上げる。
その顔から分厚い眼鏡を取り外し、手塚はその眼鏡を机の上に置くと乾の肩に手を置いた。
その意を察した乾がとすんとベッドに座り、手塚は乾に覆いかぶさるようにして口付けた。

例え乾が一生本当の意味で手塚を愛することがないとしても。

シャツに包まれた乾の肩を押すと、いとも簡単に彼は緩やかにベッドに横たわった。
ベッドサイドに腰掛けながら、もう一度口付ける。
「ん…」
舌を差し入れ、その口内を侵すと乾の甘えたような音が鳴った。
空いた手でシャツのボタンを外していくと、乾の白い肌が露になっていく。
その所々に散った鬱血痕に一瞬眉を顰め、それを上書きするように一つ一つに口付けていった。
「手塚に俺が抱けるの?」
擽ったそうに笑う声に顔を上げると、乾は緑がかった漆黒の瞳で手塚を見ていた。
「抱く。乾の全てが欲しい」
その瞳を見据えて返すと、乾は可笑しそうに喉を鳴らして「全部はあげられないなあ」と笑う。
「奪うから構わない」
そう言い切って乾の首筋に顔を寄せ、軽く歯を立てるとその身体が微かに震えた。

矛盾した想いでも構わない。
先のない愛でも構わない。


それでも俺は、乾を愛してる。









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