浅瀬を歩む君の滑らかな脚
――しろちゃん、ちぃちゃん、お願いだから。 あの子は泣いていた。 お願いだから俺の事、もう名前で呼ばないで。 泣いてそう訴えた。 蓮ニに呼ばれてるみたいで、嫌なんだ。 その白い頬に涙は伝っていなかったけれど。 微笑みすら、浮かんでいたけれど。 あの子は確かに泣いていた。 第五十八話「木手永四郎」 全国大会緒戦、青学VS比嘉は青学の全勝に終わった。 コートから出てそれぞれ思い思いに散っていく中、乾は比嘉中のメンバーに近づいていった。 「あ、乾先輩!」 桃城の上げた声に他の面子の視線が乾に向かう。 当然、そこには比嘉中の視線も含まれている。 決して好意的とは言いがたいそれに、しかし乾は気にした様子も無く部長である木手の前に立った。 「止血」 アビテンのケースをぷらぷらと振りながら言うと、「結構」と木手にぴしゃりと返される。しかし乾は構わず木手の手を取り、近くのベンチに座らせた。 「えぇ!わちゃくっとんのか!」 近くに居た比嘉中の男が声を荒げたが、すっと制する手にその人物を見上げた。 「知念先輩!なんでよ!」 しかし知念はそれらを無視して乾の手元を見ていた。 「乾、ガーゼいるか」 「いや、これくらいならアビテンだけで大丈夫だと思う。はい、終了。触るなよ、しろ」 「しろ」呼ばわりに驚いたのは周りだけで、当の木手やレギュラーたちは平然としている。 「放って置けばよかったんです、敗退校など」 「放っておけないよ、大切な従兄弟だもの」 「「いちゅく?!」」 一層ざわめく周囲に、木手がうるさいですよ、と切って捨てる。 「貴方達は先に帰ってなさい。すぐ行きますから」 その言葉に真っ先に従ったのは知念たちレギュラーだった。 困惑気味の後輩らを連れてさっさとその場を後にする。 その後姿が小さくなっていって漸く木手が口を開いた。 「…眼の調子はどうなんです」 「うん、今日は悪くないよ」 「…でしょうね。伯父さんが来てましたよ」 「うっそ。父さんが会場に居るのはまあ当然として、こっちのコート来てたなんて全然気付かなかった」 「ハルの試合の後半に十分ほど見に来て戻ったみたいです」 「全くあの人は自分どこ放り出して何してんだよ…それより、手塚と戦ってみて、どうだった?」 「…嫌味ですか」 「ちょっとだけ。駄目だよ、しろ。俺のお気に入りを苛めちゃ」 木手は黙り込む。 だからこそ、どうしても勝ちたかった。 乾の馬鹿げた「理想」を打ち砕いてやりたかった。 そうすれば、きっと乾の目も覚める、そう信じたかった。 けれど、結果は結局乾の思惑通りで。 「ハル」 「うん」 悔しかった。 大切な肉親一人助けてやれない自分の無力さが。 「……本当に、これでいいんですか」 ようやっと搾り出すように紡いだ言葉に、乾は小さく微笑んだ。 「うん」 じゃあ、行くから。そう立ち上がった乾を木手は俯いたまま送る。 「……っ…ハル!」 しかし己の声に弾かれる様に立ち上がると、乾が立ち止まり、ゆっくりと振り返った。 無言で見つめ返す彼にどんな言葉を掛けて良いのか分からない。 けれど、自分は言わなければならない。 「…っ貞治!」 この四年間、ずっと封印してきたその呼び方に全てを篭める。 もう、これ以上自分を壊すのは止めてくれ。 おねがいだから。 「しろ」 けれど彼は微笑う。 「わかってるから、いいんだ」 柔らかに、笑う。 ――貞治って、呼ばないで。 あの時と同じ顔で彼は微笑む。 自分では、彼を止められない。 「…っ好きになさい!」 吐き捨てるように、叫ぶように告げて踵を返す。 泣いてしまいそうだった。 自分に対する不甲斐なさと、乾に対する哀れみで。 「……永四郎」 暫く歩くと、先に行ったはずの知念が木手を待っていた。 「先に帰ってなさいと言ったでしょう」 しかし彼は何も言わず、ただ木手の左肩をぽんぽんと、まるであやす様に叩いて歩き出した。 「…何なんですか」 その後姿を睨みつけて呟く。 ああ、本当に泣いてしまいそうだ。 「……貞治」 どうか、お願いです。 何を踏みつけてもいいから。 誰を犠牲にしてもいいから。 全てをなぎ倒してもいいから。 だから、どうか。 どうか、幸せを。 |