浅瀬を歩む君の滑らかな脚
第五十九話「乾貞治という名の歓喜」 全国大会準決勝初戦、S3は不二の敗退で幕を閉じた。 大石たちが俯く不二に声を掛ける中、手塚と乾はその輪から外れたところでそれをじっと見ていた。 ぱたりと乾がノートを閉じる。 「…楽しそうだな」 手塚が不二を見たまま言う。乾の口元は微かに、しかし確実に笑みを象っていた。 「まあね。どんな形であろうと不二のデータを取れたから」 それに、と彼は視線を四天宝寺のベンチへと向ける。 つられるように手塚もその視線を追うと、丁度金色小春と一氏ユウジがひょっこりと現れた。そのふざけた格好に手塚の眉間の皺が僅かに深まる。 しかし渋面の手塚とは反対に、乾は可笑しそうに喉を鳴らして笑った。 「彼ら、常に何処かくっついてるだろ?あれはね、常日頃からくっついてる事によって相手の次の動きや考えが分かるようになる特訓なんだよ」 乾が言うと同時に金色と一氏が全く同じような事を桃城と海堂に説明している。 そうだったのか、と手塚が答えようとした途端、しかし乾は「嘘だけど」と笑った。 「嘘?」 「うん、あれ、オサムちゃんのでっちあげ」 するとそれを肯定するように、金色と一氏に同意を求められた四天宝寺の監督が「言うたっけ?」とすっ呆けた応えを返していた。 「ね」 「…四天宝寺の監督と知り合いなのか」 「うん。オサムちゃん、元々俺んちのお隣さんだったから。って言ってもマンションの方じゃなくて、実家の方ね。母さんと仲が良くてさ。俺が物心付いた頃には普通にウチに出入りしてたよ。大学卒業と同時に大阪に帰っちゃったけど。今でも年に何回かはふらっとやってきてご飯食べてくみたい」 「…そうか」 「心配?」 「……」 「大丈夫だよ。オサムちゃんとはそういうんじゃないから。木手たちもね。知ってるでしょう?俺が年に何回かは沖縄に行ってること」 「…何故今木手の名が出る」 「だって手塚、昨日からずっと何か言いたそうな顔してたから」 ついで、と笑う乾に手塚は黙り込む。 「手塚は分かりやすいから」 「…俺を分かりやすいというのは母とお前くらいなものだ」 「それだけ、手塚を見てるって事だよ」 「……」 黙り込んだ手塚を見下ろし、乾は微笑む。 しかし微笑む事に失敗したような気がして、乾はすぐにそれを消してコートに視線を向けた。 今日は、余り調子が良くない。 いつもの薬に加えて不穏時用のものも飲んだのに、余り効いてる気がしない。 それだけメンタル面がぐらついているということか。 会場内にどっと沸く笑い声も何処か遠くに聞こえる。視界が狭くなる。全てが輪郭を失っていく。 もう、終わりは見えている。 恐らく周りが言うより大分早くそこへ辿りつくだろう。 「……」 「乾?何か言ったか?」 「いや…何でもない」 退屈だ。 終着点の見えている道のりとは、これ程までに世界の色を無くせるものなのか。 退屈で仕方が無い。 こんな大会、早く終われば良いのに。 この大会さえ終われば引退できる。 テニスを止める丁度いい機会だ。 この時期なら周りに逐一理由を説明する必要性はがくりと下がる。 自然な形で終われる。 テニスが好きなまま、終われる。 けれど。 この胸の虚から滲むものは何だろう。 胸の奥の歪みから、暗く淀んだものがずっと滲み出し続けている。 早く、しないと。 全てが溢れ出してしまう前に終わらせないと。 「……」 小さく小さく溜息を吐く。 少し、疲れた。 ……真田に、会いたいな。 準決勝は青学の勝利に終わり、桃城たちは焼肉へと思いを馳せていた。 病院から戻ってきた河村と合流し、焼肉屋へと向かおうとした時、すっとその輪から外れる者がいた。 「センパイ?」 真っ先に気付いた海堂が立ち止まる。先を行く桃城たちは二人が立ち止まった事に気づいていない。 「悪いけど海堂、俺は焼肉には行けないから皆には帰ったって言っておいて」 ひらりと手を振って離れようとする乾を別の声が引きとめた。 「どこへ行く」 「部長…」 手塚だった。 「ちょっと行く所があってね。竜崎先生にはもう言ってあるから」 「……そうか」 「それじゃあ、お疲れ様。また明日、学校でね」 そう言って今度こそ乾は一行の輪から外れ、一人別方向へと歩き出した。 その後姿を手塚はじっと見送っていたが、海堂の視線に気付いて踵を返した。 「…行こう」 「…ッス」 手塚たちと別れた乾は駅へと歩きながら携帯電話を取り出した。 目的のアドレスを呼び出して耳に当てる。 「……」 しかし数回のコールの後、すぐにそれは留守番電話サービスに切り替わってしまった。 「…乾だけど、準決勝、勝ったよ」 仕方ないので当たり障りのない事を吹き込んで切った。小さく溜息を吐く。 彼の性格や行動パターンからして今頃自主トレに励んでいるのだろう。元々この時間に連絡する予定は無かったのだから彼を責めることはできない。 それに彼とて今日は試合だったのだ。今夜はゆっくり休ませてやりたいとも思う。 けれどこの虚しさを抱えたままというのも嫌だった。 「……」 暫く考えた後、乾は最近登録されたばかりのアドレスを引き出した。 こちらもまた彼と同条件なのだが、こちらには気を使ってやる必要は無い。 誘いに応じるかどうかは向こうが決めることだ。 数コールの後、今度は繋がった。 『へーい』 訛りのある抑揚が応じる。 「乾だけど、これから会えるかな」 『ええよ。おまんちでええか』 「ああ」 それから二言、三言言葉を交わして通話は終わった。 「さて…」 携帯電話を鞄の中に放り込み、乾は足早に駅のホームへと向かった。 青学選手だけの焼肉パーティーだったはずが気付けば氷帝、比嘉、四天宝寺、六角の選手を交えた学校対抗焼肉大食い大会に発展していた。 跡部が店を貸し切った為に誰も彼もがハイテンションで騒ぎまくっている。 そんな中、手塚は携帯を手にそっと店の外に出た。 店内より遥かに澄んだ外の空気にほっと息を吐く。 氷帝と比嘉のメンバーは入ってきて真っ先に乾の不在を聞いてきた。 先に帰ったと大石が告げると、えーだの詰まらないだの文句を垂れる面々の中、木手と知念、そして跡部の三人だけが妙な、複雑そうな顔をしていた。 それがずっと気になって仕方ない。 「……」 携帯電話を耳に当てると、暫くの間コールが続いた。 それでも延々と鳴らし続けると、何十回目かのコールの末に漸く繋がった。 『…手塚?どうしたの?』 何処か気だるげな声音に、いや、ととだけ返して沈黙する。 『手塚?』 「…今、何処にいる」 何となく電話しただけとは言えず、取りあえずそう聞いてみる。 すると「家だけど」とあっさりとした応えが返って来た。 「…行く所があるといってなかったか」 『うん、そのつもりだったんだけど、向こうが捉まらなかったから帰って来た』 「…こちらに来ればよかっただろう」 『面倒だったから』 悪びれた様子も無い声音に小さく溜息を吐く。すると回線越しにぼそぼそとした微かに聞こえた。 「誰かいるのか」 『あー、うん、まあ…あ、こらっ』 途端、乾の声が遠くなる。ぼそぼそとした話し声だけが微かに聞こえている。 「乾?」 呼びかけるが、しかし返って来たのは聞き覚えの無い声だった。 『おー、手塚』 「…誰だ」 固くなった手塚の声音を気にした様子も無く声は続く。 『立海の仁王じゃ』 「…何故お前がそこに居る」 『そら乾の暇潰しに呼ばれたからじゃ。つーことで、ただいま取り込み中じゃからして』 「…乾と代われ」 『あーそら無理じゃ』 「何故だ」 『今乾の口ん中、俺のんで一杯じゃき』 ぶつっと通話が途切れた。 ぎしりと手の中で携帯電話が悲鳴をあげる。 自分が切ったのか向こうが切ったのかすら分からない。 けれどはっきりしている事が一つだけ。 手塚は踵を返して店内へと戻ると、焼き方について語っている大石に用事ができたから帰ると告げてさっさと荷物を手に来た道を戻っていく。 「あ、手塚!?」 「すまない、竜崎先生にはお前から言っておいてくれ。後は任せた」 大石の声にも振り返る事無く足早に店を出ると、真っ直ぐに最寄り駅へと向かった。 「切れた」 「仁王が余計な事言うからだよ」 「ちょっとした茶目っ気じゃ」 「茶目っ気出すのは良いけど、手塚、こっちに来るよ、確実に」 「心の狭いやっちゃのー」 「手塚の居る焼肉店からここまでざっと見積もって精々一時間。どうするんだい」 「まあ、その時はその時で。三人でしたらええじゃろ」 「だーめ」 目指すマンションにたどり着くと手塚は手荒くパネルに部屋番号を打ち込み、インターフォンを鳴らした。 五秒待つ。反応は無い。 もう一度鳴らす。ピンポーンという暢気な音すら苛立たしい。 もう一度鳴らそうかとした時、ぶつりという音がして乾の声が聞こえた。 『開けておくから、勝手に入って』 もう一度ぶつりと音がして回線が断ち切られる。と同時にロックの外れる音がして目の前の扉が開かれた。 足早にエレベーターの前にたどり着くと、丁度ホールに留まっていたそれに乗る。 微かな浮遊感は不快感を生むだけで、最上階までの十数秒すらもどかしい。 ようやっと部屋の前に辿りつき、ノブを回す。乾の言ったとおり開いている。 上がっていいのだろうか。 玄関先で戸惑っていると居間に通じる扉が開いて乾が姿を現した。 「早かったね。あと七分は掛かると思ってたんだけど」 私服姿の乾の髪は、シャワーでも浴びたのかしっとりと艶を放っている。 「…お前が何をしたいのかがわからない」 乾から視線を逸らし、己の爪先に向ける。乾がわからない。 「お前は俺に、何を求めているんだ」 「全てを」 澱みなく返された応えにはっと顔を上げる。乾はただ無表情に手塚を見下ろしていた。 「手塚の過去も現在も未来も、全てが欲しい」 「っなら、何故こんな事をするっ」 「こんな事って?」 「…っ…」 やんわりとした声音に手塚は言葉を詰まらせる。しかし乾はそれ以上は追い詰めようとはせず、「他の男と寝る事?」と答えを提示した。 しかし乾はそれをこれ以上語る気は無いらしく、そんな事より、と手塚に歩み寄る。 「千歳の妹さん、いつ知り合ったの?」 何故そこに千歳の名が出る、と訝しげな顔をすると、わからない?と返された。 「『ドロボーの兄ちゃん』…何したの?手塚」 そこに至って漸く乾が言う「千歳の妹」が誰かを思い出した。 「大した事ではない。ただ…」 ミユキと出会った経緯を説明しようとして、乾の口元だけの笑みに不意に、そう、まるで光の刃が差し込むようにして手塚は思い至った。 「…乾」 「うん?」 「…嫉妬、してるのか?」 きょとんとした乾を認識した次の瞬間、右頬に衝撃が走った。 「…っ…」 不意を付かれたそれに思わずふらつきそうになるのを何とか踏みとどまる。何が起きた。殴られた。誰に。 乾に、殴られた。 それを理解したのは、痛みを訴えるそこに反射的に手を添えてからだった。 呆然として見上げると、乾は心底不快げな表情で手塚を見下ろしていた。 「…いぬ」 「…っあ…」 はっと我に返った様に乾は小さく声を上げると、慌てて手塚の頬に手を添えた。 「ごめん、手塚、大丈夫?」 珍しく動揺した声に手塚は思わずこくりと頷く。 「ああ、少し赤くなってるね。ごめんね、手塚」 「いや、大丈夫だ…」 未だ呆然としたまま手塚は乾を見る。 それは今や殴られたことに対するものではない。 乾が千歳の妹に嫉妬している、という事実にだった。 乾の愛情は歪んだ破璃の鏡のように単純で複雑だ。 こちらが求めれば求めただけそれに応える。 それが愛情であろうが好奇心であろうが頓着しない。 好意であればそれが愛だろうが性欲だろうがどうでもいいと言わんばかりだった。 だから今まで乾の本心が何処にあるのか全く分からなかった。 特別だと囁かれても、それが本当なのか信じることが出来ずにいた。 けれど。 「手塚?」 徐に抱きついてきた体を受け止め、乾が訝しげな声を上げる。 「どうしたの、痛いの?」 乾の首筋に顔を埋めたままふるふると首を横に振る。 殴ろうと思って殴ったのではなく、反射的なものだったのだろう、痛みはもう殆ど無い。 ただ、右頬が熱かった。 それは衝撃によるものではなく、この身の内から溢れ出す熱の全てがそこに集まっていた。 「…乾…」 彼の名を囁き、手塚はその身に溢れるものの正体を知った。 ああ、これは、歓喜だ。 「なに、手塚」 乾の問いかけに、けれど手塚はただその細い首筋に顔を埋め、抱きしめる。 嬉しかった。 乾が、嫉妬している。 俺は、必要とされている。乾に必要とされている。 ならば、信じよう。 乾が俺を特別だと囁くその声を。 「…乾…」 「うん」 そして、信じさせよう。 俺が乾を愛していると言うその意味を。 「ずっと、傍にいる」 何度でも言ってやる。 そうだ、あの秋の終わりに誓ったのだ。 乾が望むなら、望むだけ傍に居ると。 「離れたりしない」 だから、放してやらない。 |