浅瀬を歩む君の滑らかな脚
第六十話「乾貞治が溺れる沼の名は」 準決勝の翌日の部活はレギュラーのみ二時からの参加だった。 と通達されているにも関わらず、一時を過ぎる頃には一人、また一人とやってきて着替え始めていた。 桃城がやってきたのもそれくらいで、鼻歌交じりに部室へと向かうのを後ろから呼び止める声が上がった。 「やあ、昨日はお疲れ様」 記者の井上だった。今日は芝は連れていないらしく一人だ。 「あ、ちわーす。今日も取材ですか?」 「いや、そうしたい所だけど今日は別件で近くを通ったからこれを渡しておこうと思ってね」 と彼が鞄の中から取り出したのは一本のビデオテープ。 「関東大会の時に言っていた、乾君と立海の柳君がペアを組んでいた頃のビデオだよ」 言われて桃城は「ああ!」と手を叩いた。 どうやら三年生たちは知っていたようだったが、桃城は乾が小学生時代に柳とペアを組んでいた事も、二人の実力が嘗てジュニアテニス界で有名だったことも初めて聞いた。 その頃の二人が見てみたい、と洩らした所、井上が資料なら残ってるから今度持ってくるよ、と申し出てくれたのだ。 半ばその時のノリだったのだが、見てみたいというのも本当だ。 桃城は礼を言ってそのテープを受け取った。 「それはダビングしたやつだから君にあげるよ。彼らのプレイが参考になるかはわからないけれど」 その言葉に桃城が首を傾げると、彼は苦笑混じりに言った。 「…彼らのプレイは、何というか、超越しているんだ」 「そんなに凄いんすか?」 しかし井上はそれを肯定するでも否定するでも無く踵を返した。 「彼らなら世界だって夢じゃなかっただろうに…本当に、残念だよ」 それじゃあ、と去って行く背と手にしたビデオテープを見比べる。 「も、もー!」 するとどかっと後ろから菊丸が圧し掛かってきて危うくテープを落としそうになった。 「エージ先輩、危ないっすよ!」 「お?桃、にゃに?そのテープ」 桃城が説明すると、菊丸はその場でぴょんこぴょんこと跳ねながら見たい見たいと騒ぎ出した。 「じゃあ部室のデッキで観ましょうか」 「おっしゃー!」 菊丸に釣られるように部室に駆け込むと、そこには既に殆どのレギュラーの姿があった。手塚に至っては疾うに着替えも終え、部誌を書いている。居ないのは病院に行っている河村と、そしていつもギリギリにしかやってこない乾と越前だけだった。 「あっれ、もう来てたんすね。俺が一番乗りだと思ってたんすけど」 「それより桃、早く早く!」 「あ、そっすね。乾先輩が来ない内に観ちゃいましょう」 「乾がどうかしたのか?」 デッキを準備している二人に大石が声を掛ける。 桃城が先程菊丸にしたのと同じ説明を繰り返すと、大石も興味を持ったようだった。 「へえ、乾と立海の柳の噂は耳にしてたけど、実際に見るのは初めてだなぁ」 「桃、再生するよー」 「オッケーっす!」 テレビをつけて早速再生する二人に不二や大石もどれどれと寄ってくる。 海堂も気になるのか、着替えながらもちらちらとその輪を窺っていた。 手塚はと言うと一人黙々と部誌に向かっていたが、しかしその手は進んでいない。 そんな中、テープは廻り始めた。 ぱっと映ったのは、テニスコート。 ネットを挟んで二組の少年が向き合い、握手を交わしていた。 「うわ、これ乾先輩っすよね?!ちっちぇー!」 「一年の終わりくらいまでは乾も俺たちと同じくらいの身長だったもんなあ」 最初こそそんな風に話しながら観ていた一同だったが、試合が進んでいくにつれ、言葉は消えていき、やがて聞こえるのはテレビからの音声だけとなった。 凄い、と誰かが小さく呟いた。 画面の中の二人の動きは軽やかだった。 ボールを打ち返した次の瞬間にはもう返球される位置が分かっているかのように、否、分かっているのだろう、そこに駆け出していた。 左右どちらに打っても必ずそこには乾か柳が立っている。ならばとセンターを狙えば二人が同時にスイングモーションに入る。けれど打ち合わせもアイコンタクトも無くどちらかが打ち、もう片方はフェイントを入れた。ラケットがぶつかり合うなどというミスは犯さない。 それはまるで昨日の大石と菊丸のように。 そして乾と柳のペアは勝利をもぎ取った。 あっという間に終わったその試合は完全なるラブゲームで。 次の試合も、その次も殆ど一方的と言っていいほどの強さだった。 二人は特別目立ったプレイをしているわけでもない。けれど着々と勝利を収めていく。 気付けば、画面の中で二人がメダルを授与されていた。 そこに至って漸く一同は詰めていた息を吐き出すように肩の力を抜いた。 「乾って凄かったんだにゃー」 「井上さんが言ってた事も強ち嘘じゃないっすね」 「あ、待って、まだ続きがあるみたい」 テープを止めようとした桃城の手を不二が遮る。 場面が変わり、映ったのは何処かの東屋だった。 ベンチに腰掛け、手を繋いだ二人がじっとこちらを見ている。 どうやら試合後のインタビューらしい。井上が撮っているのだろうか、彼の声が映し出された乾と柳に向かって感想を聞いている。 素っ気無い対応の柳の反面、乾は始終柔らかな物腰で井上の質問に答えていた。 しかし井上がその質問をした途端、柳は不機嫌も顕わにこちらを睨んだ。 『二人とも、シングルスはやってみたいと思わないのかい?』 柳は突然立ち上がったかと思えば乾の手を強引に引っ張ってその場を立ち去ろうとする。 『蓮ニ?ちょっと待って、蓮ニ!』 『柳君?』 井上の声に小さな背中が振り返る。その視線はいっそ憎しみさえ宿していると言っても過言ではない勢いでこちらを睨みつけていた。 つかつかと柳が歩み寄り、その手が画面に向かって伸びてきた。途端、画面が揺れ、井上の足元が映し出される。柳がカメラを無理やり下ろしたのだ。 『俺と貞治はこれからもずっとパートナーであり続けます。シングルスなんて、ありえません』 地を這うような声がスピーカーから聞こえてくる。それに被さるように乾の戸惑った声が聞こえる。どうしたの、蓮ニ。 『何でもない。話はもう終わった。帰ろう、貞治』 『終わってない!こら、蓮ニ!』 延々と地面が映し出される中、乾と柳の言い争う声が聞こえる。 『そうやって誰彼構わず喧嘩売るの止めろって言ってるだろ』 『真実を言っているだけだ』 『言い方ってモンがあるでしょ!すみません、井上さん』 『いや、良いよ。こちらこそ不躾な事聞いちゃったみたいで悪かったね』 『いえ、構わないです。でも、俺も蓮ニと同じで、蓮ニ以外の人と組む気も無いし、シングルスに転向する気もありません。だってダブルスの、ううん、蓮ニと一緒にコートに立つ楽しさを知っちゃったから。俺、試合で緊張したことって無いんです。だってコートには蓮ニも一緒で、俺一人じゃないから。俺、もっと強くなりたい。蓮ニと一緒にたくさん大会に出て、有名になりたい。そうすれば俺がどれだけ蓮ニとのダブルスが楽しいのか、皆に知ってもらえるから。パートナーと一緒にコートに立つ事がこんなに楽しいんだって、世界中の人に知ってもらいたい。だから、シングルスなんて考えたこともありません』 画面は相変わらず地面を映し続けていた。けれど、柔らかくとも凛としたその声は、はっきりと聞き取れた。 『貞治…』 『ね、蓮ニ』 ほら、蓮ニも井上さんに謝って。 駄々っ子をやんわりと諌めるような声音の後、微かに「すみませんでした」と柳の声が聞こえた。 『いや、俺が悪かったんだからいいよ。それにしても、二人は本当にお互いを信頼してるんだね』 『はい、蓮ニは凄いんです。今もこうやって蓮ニと訓練してるんです』 『訓練?』 『はい!こうやってずっと手を繋いで一緒に居ることでお互いの思考や行動パターンが分かるようになるんです!ね、蓮ニ!』 『そうだな、貞治』 「…なんか、どっかで聞いたことやってますね」 「うん、すっごい最近同じこと聞いたにゃー」 「四天宝寺のはコレが元ネタだから仕方ないよ」 「「うわあ!!」」 淡々とした声に桃城と菊丸がびくりと竦みあがる。 「いいいいにゅい!」 いつの間にか乾が傍らにちょこんとしゃがみ込んでいた。 「いつの間に!」 「普通に入ってきたけど。それより、懐かしい物見てるね。出所は井上さんかな」 「あ、は、はい、井上さんが俺にくれたんすよ」 「ていうか、コレが元ネタってどういうことだい?」 「うん、四天宝寺の監督、アレ、俺の小さい頃お世話になったお兄さん。で、俺が蓮ニとああいう事してるって俺が話したの。どうもそれ覚えてて面白半分で言ったらしいんだよね。昨日本人に電話して確認した」 「ああ、じゃあ金色小春と一氏ユウジもある意味乾の被害者ってことだね」 「人聞きの悪い事いうなよ、不二」 「えーでも間違ってないよね」 それはともかく、と乾は取り出しボタンを押してテープを取り出し、それをしげしげと眺めながら桃城を呼んだ。 「くれたって事は、ダビングだよね、これ。テープも新しいし」 「あ、はい、ってあー!!」 徐にカバーを開いたかと思えば、ビィーッと耳障りな音を立てて乾はテープを引き出していた。 「何するんすかー!!」 「勿体無いにゃー!!」 桃城と菊丸の犬猫コンビが声を上げるが乾はお構い無しにテープを引っ張り、そして適当な所でぶちりとそれをちぎった。 「何って、不愉快だから抹消したまでだけど」 「不愉快って、あんなに凄いプレイなのに何でっすか!ていうか、あんなに凄いのに何でコンビ解散したんすか?」 桃城の問いかけに反応したのは乾ではなく菊丸だった。 「ももも桃!アップ行くにゃ!」 ぴゃっと飛び上がったかと思うと桃城の腕を掴み、強引に引きずって部室を出て行こうとする。 「は?エージ先輩、どうしたんすか?」 「いーから!早く行くったら行くにゃー!!」 一人訳が分からないといった表情の桃城を引きずって菊丸は部室から逃げ出した。 「乾はまだ気にしてるの?」 不二が無遠慮に問いかけると、しかし乾は気にした様子も無く「何が?」と返してきた。 「柳が黙って引っ越したこと」 「今はもう気にしてないよ。俺が不愉快って言ったのは、馬鹿だった頃の自分を見るのが不愉快だって話」 乾は手にしていたテープの残骸をゴミ箱に落とした。 ごとりと鈍い音が室内に響く。 「それより、俺今日の部活休むから。それ言いに来ただけなんだよね」 「え、休むってどうかしたのか?」 大石の戸惑い交じりの声に乾はどうという程じゃないけれど、と小首を傾げた。 「ちょっと目の調子が悪くてね。朝電話したら二時半からなら検査できるって言われて。いいよね、手塚」 突然話を振られた手塚は結局桃城が来てからずっと止まったままだったシャーペンを机に置き、小さく頷いた。 「構わん。しかし大丈夫なのか」 「大したことないよ。念のため、ってだけだから」 「…そうか」 「あとこれ、今日のお勧め練習メニュー。レギュラーは個別に書いてあるから参考にしてよ」 そう言って鞄の中から数枚のレポート容姿を取り出して机の上に滑らせると用は済んだとばかりに踵を返した。 「乾!」 咄嗟に呼び止めると、彼はゆるりと手塚を振り返った。 「なに?」 「…いや、気をつけて行ってこい」 「わかってるよ。明日は出れるから」 それじゃあ、と今度こそ乾は部室を出て行った。 「……」 一同の視線が気遣わしげにその閉ざされた扉に向かう中、不二だけはじっとゴミ箱を見つめていた。 テープが引っ張り出される耳障りな音が、まだ耳にこびり付いていた。 |