浅瀬を歩む君の滑らかな脚





第六十一話「真田弦一郎が溺れる海の名は」




病院というものは、検査も長いが待ち時間もそれに輪を掛けて長い。
予約してあってもそれはさほど変わらず、本当に予約の意味はあるのだろうかと思えてしまうほどだ。
ちょっと前までなら幸村の病室に時間を潰しにいけたのだが。今はもう彼も退院しており、リハビリと定期健診に訪れるだけだ。
そうして漸く会計を済ませた頃には既に夕方だった。
思っていた通りとはいえ、時間を無駄にした感も否めない。
さて帰ろう、と踵を返した途端訪れたそれに乾は動きを止めた。
「……」
ゆっくりと足を進め、会計待合の椅子に腰掛ける。
不自然ではなかっただろうか。中指でくいっと眼鏡を持ち上げる。
しかし今この瞬間、眼鏡は無用の長物だった。
視界は、暗闇一色だった。
それは、今日二度目の世界だった。
それがいつから始まったのかはわからない。
自覚したのは、今年に入ってからだった。
一瞬停電したような感覚。最初はその程度だった。
それが次第に数秒となり、数分となり、回数も数日に一度だったのが一日おきになり、毎日になり、やがて日に何度も起こるようになっていた。
この眼はもう一年と持たないだろう。
だが、それでもいい。
あと一試合。それまで持てばいい。
ただ、

「乾?」

降ってきた声に乾ははっとして顔を上げる。
徐々に色の戻ってきた、けれどやはりぼんやりとした視界。
見下ろしているのは、
「…真田」
声と薄ぼんやりとした輪郭で導き出したその名を口にすると、ひょこっとまた一人乾の視界に入ってきた。
「俺もいるよ」
「やあ、幸村。二人ともどうしたの」
「リハビリの帰りなんだ。真田はお迎え。やんなっちゃうよね。一人で帰れるって言うのに」
「しかし万一だな、」
「ああはいはい。それより、乾こそどうしたの。検診?」
「うん、そんなとこ。決勝前に一度検査しておこうと思って」
「決勝、楽しみにしてるよ」
「ああ。俺も楽しみにしてるよ」
「それじゃあ、俺は帰るね。真田、乾を送ってあげたら?」
「む。しかし…」
「え、いいよ、まだ部活あるんだろう?」
「部長の俺が良いって言うんだから良いの。ほら、真田、ちゃんと乾を送ってあげるんだよ。みんなには俺から上手く言っておくから」
「……わかった」
「…じゃあ、お言葉に甘えさえてもらおうかな」
そして、当たり前のように差し出された真田の手を取って立ち上がる。視界はそれなりに回復していたが、やはり真田のサポートはありがたかった。
「行くぞ」
「ああ、ありがとう」
そうしていつものように左手をそっと彼の腕に添え、乾は歩き出した。



結局、乾はマンションに戻らず真田の家に泊まる事になった。
荷物だけ置いて二人で揃ってロードワークに出かける。
川沿いを走っている最中、ふと乾の走る速度が落ちた。
どうした、と真田もそれにあわせてペースダウンする。次第に足は止まった。
うん、ねえ、真田。
夕陽を浴びて煌く川の水面。じっとそれらを見渡す横顔。
覚えてるかい。ここで俺と真田、初めて会話したんだよ。
ああ、そうだったな。
あの時、俺が声を掛けなかったら、今こうしていなかったかな。
どうだろうな。
あの時、俺が声さえ掛けなければ…。
「乾?」
「……」
不意に黙り込んだその横顔は、相変わらず川へと向けられていて。
「ごめんね、真田」
「何を謝る」
「…ううん、ただ、謝りたい気分なんだ」
「…そうか」
ねえ、真田。
俺ね、二十歳くらいまでなら目は見えるだろうって言われてきたんだ。
でも俺は目を酷使してきたからその期限はずっと縮まった。
きっと、もう一年も持たないと思う。
それは別にいいんだ。受け入れる覚悟は出来ている。
ただ、
「例えば、真田が大人になって年をとっても、俺にはそれが分からない。勿論、触診や耳からの情報でイメージすることは出来るだろうけど、あくまでそれはイメージであって本物じゃあない。俺の中の真田の姿は一生、十五歳なり、十六歳なり、それくらいの記憶のままだ。真田がどんな大人になってどんな風に年をとっていくのか、見ることができない」
それが少し、勿体無いと思う。
「…乾…」
「…ごめん、行こうか」
駆け出したその背を見、そして真田も再び駆け出した。
隣に並ぶと、彼はにこりと微笑った。


そうして二人は夕食後もロードワークに出かけ、更に真田は道場で夜稽古をこなした。
真田が道場に行っている間に風呂を済ませた乾は真田の母親に捕まり、居間で和気藹々と話し込んでいた。
やがて稽古を終えた真田が風呂も済ませて上がる頃には乾も居間を辞去し、真田の部屋へと向かった。
「すまんな」
「え?何が?」
冷茶の満たされたグラスを机の上に置きながら乾は真田を振り返った。
「母に捕まっていただろう」
「ああ、いいよ別に。俺も好きで話してるだけだから」
「そうならいいが…」
「真田の幼い頃の話とかも聞けるしね」
「……」
差し出されたグラスをむすっとして受け取り、一気に飲み干した真田に乾はくすくすと笑う。
「大丈夫だよ。真田が心配してるような話は聞いてないから」
「…別に何も心配などしとらん」
「ならいいよね」
「……」
むすっとしたままグラスを置き、真田は乾を抱き寄せた。
「お前は意地が悪い」
「なに?今頃気付いたの?」
腕の中でくすくすと笑う乾が小憎らしくて真田はその耳に唇を寄せると軽く歯を立てた。
「真田、くすぐったい」
けれど真田の甘噛みは止まらず、こら、と乾は口では諌めながらも為すがままにさせていた。
「さーなーだ」
「何だ」
「そこばっかりじゃなくて、他にもして欲しい所があるんだけど」
その言葉に顔を上げ、真田は導かれるように今度は乾の唇にそっと口付けた。
「ねえ、真田」
鼻先が触れ合うくらい近くで乾が囁く。
「何だ」
「明日からまた少しの間会えなくなるね」
「そうだな」
「だから、今夜はその分たくさん、して」
「青学も明日は部活だろう」
「大丈夫だから、お願い」
耳元で甘く囁かれ、真田は引かれるがままに乾を布団の上に組み伏せた。
「もっと強く、抱いて」






泣き声が聞こえた。



またあの泣き声だ。
ずっと誰かの名を呼んで泣いている。
悲鳴のように呼ぶその名が聞き取れない。



もう少しで、手が届きそうなのに。








傍らで起き上がる気配に真田は意識を浮上させた。
薄らと瞼を持ち上げると、暗闇の中、乾が身を起こしていた。
「…乾?」
「ああ、起こしちゃった?ごめんね」
「いや、いい。どうかしたのか」
すると乾は「ん、」と誤魔化すような曖昧な笑みを孕んだ声でそれに応えた。
「ちょっと、考え事」
「…眼の事か」
真田も身を起こし、電気をつけようと伸ばした手を乾がそっと止めた。
「ちょっと違う、かな。いや、全く違うって訳でもないんだけれど…」
そう言って黙り込んでしまった乾に、真田は先を促すわけでも無くただじっとその沈黙を守った。
「…俺は、ずっと怖かったんだ」
長い沈黙の後、ぽつりと乾が呟くように告げた。
「いつかこの眼が見えなくなって、世界から弾き出された様な思いをするのが怖かった。小さい頃はまだ良かったんだ。あの頃は、ずっと一緒だと思っていた相手がいた。心の支えがあった。けれど、それはあっさりと崩れた。だから、今度こそ絶対的なパートナーが欲しかった。いや、パートナーなんて対等なものじゃない。俺に依存して離れられない、俺が居なくちゃ生きていけない、そんな存在が欲しかった。…道連れが、欲しかったんだ」
そんな時、目をつけたのが手塚だった。
「三年掛けて俺に依存するように仕向けた。その結果、手塚は何をするにしても何処に行くにしてもまず俺に相談して、俺の言うことを全面的に信頼するようになった。手塚は全国が終わったらドイツに行くつもりみたいだけど、きっとそれも俺が行くなって言えば取りやめる可能性の方が高い。それくらいにまで、俺は手塚を…そう、躾けたんだ」
乾が手塚を本当の意味で愛することは無い。
それは乾自身が一番よく分かっていた。
乾が手塚に対して抱く愛情は決して対等な存在に対するそれではない。
愛玩物を可愛がり、執着するのと同じだ。
「手塚も薄々それを分かってるのに、それでも俺の傍に居ようとする。だから俺は手塚の弱さと優しさに付け入るのを止められない。間違ったことをしてるってわかっててここまで来たつもりだったのに、今になって悔いている自分が居ることが、可笑しいというか、愚かしいというか」
くすりと笑う気配がした。
「…もう、今更だけどね」
「そんな事は無い」
手を伸ばし、その頬にそっと触れた。ぴくりと震えるのが分かる。
「やり直そうと思えばいつだってやり直せる。今からだって遅くは無いはずだ」
「…でも、俺は…」
「伴侶が欲しいというなら俺がなってやる。お前と共に堕ちていくのではなく、俺がお前の手を引いてやる」
頬に当てた手の感触から、乾が微かに微笑んだのが分かる。
「…真田は、眩しいね」
「お前が望むなら、共に光の下に在ろう。決して、堕ちさせなどせん」
「俺、見切り癖が付いちゃってるから苦労するよ?」
「構わん。俺が叩き直してやる」
「うわあ、俺、スパルタ苦手なんだけどなあ」
くすくす笑うその声は、笑っているはずなのにどこか泣きそうな色を含んでいて。
しかし触れた頬は乾いたままで。
真田は乾を抱き寄せると、確かめるようにその目尻に口付けた。
涙は滲んでいなかった。









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