浅瀬を歩む君の滑らかな脚





第六十二話「海堂薫の佇む川の名は」




真っ白なベッドに横たわるその姿は痛々しいの一言に尽きた。
頭部は包帯に覆われ、その白い頬も更に白いガーゼや湿布で殆どの面積が覆われてしまっている。
海堂はただその傍らで座っている事しか出来ない自分が情けなかった。
負けた。
全国大会、最後の試合で海堂と乾は負けた。
しかもそれは乾の負傷による棄権負けだ。
乾の怪我の原因を作ったのは間違いなく自分だ。
切原のプレイスタイルを知っていて、なのに煽った。
結果、自分ではなくこの人が狙われた。
勝てなかった。相手にも、自分自身にも。
守れなかった。動けなかった。ただ見ているだけだった。
何のために。海堂は膝の上できつく拳を握り締める。
何のために、強くなりたかったのか。それを忘れてはいなかったか。
ただ強さだけを求め、肝心なものを置き去りにしてしまっていた。
「…っ…」
微かに震えた空気に海堂ははっとして顔を上げる。
今まで人形のように眠り続けていた乾の顔が苦しげに歪められ、片手が何かを探すようにシーツの中から滑り出た。
「先輩」
思わず腰を浮かせて手を伸ばすと、中を彷徨っていた手が海堂の手を掴んだ。
「せん…」
「…、…」
乾の薄い唇が何かを紡ぐ。
「先輩」
誰かを呼んでいるようだ。しかし微かなその声は不明瞭で、誰を呼んでいるのかまでは分からない。
その唇の動きを見つめ、何とか読み取れたのはたった一言。

そばにいて。

「…先輩」
海堂は己の手を握る手をそっと握り返した。
「ここに、います」
ここに、いますから。




それからどれ位の時間が流れただろうか。そんなには長くはないはずだ。
ノックの音に海堂はするりと握った手を放した。
「はい」
看護師だろうか、と思いながら応えると、入ってきたのは思いも寄らぬ人物だった。
「アンタは…」
海堂は思わず立ち上がった。
見るからに高価とわかるスーツを身に纏い、冷酷ささえ宿しているように見える切れ長の眼差し。
「海堂君だね」
冷やかなものを含んだ低音。彼が歩くたびにかつりと靴音が響く。
「アンタ、氷帝の…」
入ってきたのは、氷帝テニス部の監督を務めている榊だった。
「貞治はまだ目が覚めないのか」
「え、あ、はあ」
海堂の疑問に満ちた生返事に榊は無言でベッドに近寄った。
それと同時に再び扉が開かれる。
「失礼します」
入ってきたのは今度こそ看護師と白衣を纏った医者だった。
「先程お話したとおり、目が覚め次第、息子は神奈川の総合病院に移します」
榊が医師を振り返って告げた言葉を、海堂は理解するのに暫くの時間を要した。
その間にも榊と医師は何かやり取りをしていたが、海堂の耳には入らなかった。
話が纏まったのか、医師と看護師が病室を出て行き榊がこちらを振り返った瞬間、漸く海堂は我に返った。
「アンタ、息子って…」
「貞治は正真正銘私の息子だが」
「でも苗字、」
「私は婿養子なので正しくは乾姓だ。しかし氷帝の監督と青学の選手が親子となれば下世話な勘繰りをする輩も出てくる。その為に学校では旧姓の榊姓を使っているだけだ」
切り捨てるような言い方とその冷えた眼差しに、海堂は目の前の男が自分に対して敵意を抱いているのだと気付いた。
この男が本当に乾の父親だというのなら、敵意を抱かれても仕方ないだろう。けれど謝ることもできなくて海堂はふいっと視線を逸らして拳を握り締めた。
「…君は、」
榊が何か言いかけ、しかしその言葉を閉ざした。
「…ぅ…」
乾が小さく声を上げ、やがて薄らとその瞳を開けたのだ。
「貞治、大丈夫か」
榊の呼びかけに、しかし乾はぼうっとしたまま天井を見上げていた。
「貞治」
「…あれ、父さん…?」
頭が微かに傾いて榊の方を見る。しかしその眼はどこか虚ろだ。
「ここ、どこ?」
「会場近くの病院だ。眼が覚めたのなら神奈川の病院に移ろう。あちらの方がお前の事を良くわかっている」
「それはいいけど、決勝はどうなったの」
「今はまだS2の最中のようだ」
「そう。じゃあ不二が頑張ってる頃だね…そっか、負けたんだな、俺…海堂に悪いことしちゃったな」
「先輩、」
「あれ、海堂、いたの」
海堂の声で漸く海堂の存在に気付いたらしい乾はゆっくりと身を起こした。
「眩暈や吐き気はないか」
「大丈夫だよ。それより、海堂」
榊がその背を支えたが、乾はそれをやんわりと断って海堂の方へ顔を向けた。気がついたばかりだからだろうか、顔はこちらを向いていたものの、その視線は相変わらずぼんやりとしていた。
「…っす」
「ごめんな、俺の所為で棄権負けになったんだろ」
「そんな!アンタの所為じゃないじゃないっ、俺が、」
「ねえ、海堂。海堂は切原君みたいになっちゃだめだよ」
「…っ…」
「幸村たちが何も言わないって事は切原君のあのプレイスタイルは黙認されていると見ていいだろうけど、誉められたプレイではないって事はわかるよね」
「ッス…」
「それが彼の実力を引き出すに適したスタイルというのであればそれは仕方ないと思う。でも、海堂は違うよね」
「……」
「目の前の強さに流されて自分を見失ってしまったら元も子もないデショ」
「…っす…スンマセンでした…」
頭を下げる海堂に、しかし乾は緩やかに微笑った。
「これで俺は引退だ。俺はもうお前を引き戻してやれない。だから、忘れちゃだめだよ。お前のテニスを」
その微笑みに、海堂は深く頭を下げた。
「ありがとう、ございました…!」




俺の代わりに見届けておいで、と海堂を会場に返し、病室には乾と榊の二人だけになった。
「…貞治」
「何、父さん」
何事もないように父親を見上げるその視線は、やはりどこか焦点がずれていて。
榊は痛ましげに息子の顔を見下ろした。
「…見えて、いないんだな」
その言葉に乾はただ穏やかに微笑む。
「…すまない」
榊は乾の頬を両手で包み込み、そして抱きしめた。
「どうして父さんが謝るの」
きついほどのその抱擁を乾は笑って受け入れる。
「お前を、守ってやれなかった」
「中学に入ってからもテニスが続けたいってごねたのは俺だよ。それに、蓮ニと切原君のペアに当たるってわかった時点でこの事態は予想できていたし」
「私はお前に何もしてやることが出来なかった」
「十分してもらったよ。青学に通いたいって言う俺の我が儘聞いて青学近くのマンションまで借りてくれて、オマケに俺の好きなテニスを理解しようとたくさん勉強して、氷帝の顧問にまでなってくれたじゃないか」
少しだけ体を離し、父親の顔があるだろう場所を見上げ、「ね?」と彼は笑った。
「父さんと母さんの息子に生まれてこれて、良かったと思ってるよ」
「貞治…」
「だから、そんなに悲しまないで」
微笑む息子が愛しくて、哀しくて、榊はその体を強く抱きしめた。







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