浅瀬を歩む君の滑らかな脚





第六十三話「柳蓮ニと乾貞治」




全国大会が終わった。中学最後の大会が終わった。
それは昨日まで確かに現実として在ったはずなのに、一晩経っただけで既に遠い昔の事のようにも思えてくる。
自分たちに残っているのは、もう引継ぎだけだ。
それを終えてしまえば、中学校生活での部活は終わりを告げる。
後はもう、進級試験または外部受験の準備に追われる事になる。
未だ夏は続いているというのに、全てが終わってしまったような気がする。
大会後ということで今日一日は部活が無いのだが、決して試合疲れだけではない倦怠感が体に付きまとっていて、真田はそれを振り払うように道場でただ無心に剣を振るっていた。
「…ん?」
早朝から道場に篭っていた真田は、昼を廻って漸く母屋に戻ってきていた。
そして軽くシャワーを浴びて部屋に戻ると、机の上に置きっぱなしにしておいた携帯電話のランプが点滅している。
ぱかりと開いてみると、一通のメールが届いていた。
蓮ニからだ。
連絡が欲しいというその内容に、部活の事だろうかと携帯を耳に当てた。
「…蓮ニか。何かあったのか。…ああ、それは俺も気にしていたのだが…転院?」
蓮ニの用件は、乾の事だった。
あの試合の後、会場近くの病院に搬送されたことは知っていた。しかし、昨日の内に転院していたことまでは当然知らない。蓮ニがどうやってそれを知ったのかは知らないが、確かなのだろう。転院先は幸村が入院していた神奈川の総合病院だった。
しかもわざわざ転院してまでの入院。やはりどこか打ち所が悪かったのだろうか。
試合とはいえ、赤也の暴走は止めるべきだった。今更後悔しても遅いのだが。
そしてふと思い出した。あの病院は、元々乾が通っていた病院だ。
「…まさか、眼に異常が出たのか?」
すると回線の向こうで訝しげな声が聞こえた。
「?知らないのか?乾が弱視だと」
どういうことだ、と低い声がする。
蓮ニは乾の眼の事を知らなかった?
当然知っているものだとばかり思っていた真田は内心で首を傾げる。
そして乞われるがままに乾の目に付いて話し始めた。



それから一時間ほど経った頃、真田は蓮ニと共に病院を訪れていた。
真田が乾の眼の状態について話した後、蓮ニは乾の見舞いに行くことを提案した。
真田としても乾の容態は気になっていたので二つ返事で受けたのだが。
ちらりと傍らを歩く蓮ニを見る。
「何だ」
「…いや、何でもない」
「用も無いのに見るな。減る」
明らかに不機嫌だ。どうやら真田や幸村どころか仁王や赤也まで乾の眼の事を知っていたというのに自分が知らなかったということが余程気に食わないらしい。
ここが部室だったらロッカーの扉二、三枚はへこまされている事だろう。ここが病院で良かった。
ナースセンターで聞いた場所に辿りつくと、確かにそこには『乾貞治』のプレートが差し込まれていた。
軽くノックをすると、どうぞ、と耳に馴染んだ声が帰ってきた。
「失礼する」
病室に入ると、乾はベッドの上で身を起こしていた。
「いらっしゃい」
頭には包帯が巻かれ、頬の殆どはガーゼや湿布に覆われたその姿に一瞬息が詰まった。
けれど乾は穏やかに笑うばかりだ。
「真田の事だから、今日は道場に篭ってると思ってたんだけど、外れちゃったね」
「いや、昼までは確かに道場で稽古をしていたのだが…それより、体の方は大丈夫か。いや、俺が言う言葉ではないかもしれないが」
「何で?心配してくれてるんデショ?嬉しいよ。ありがとう。体の方はそれほど問題ないよ。ただの打撲と切り傷だから」
「しかし、入院となるとやはり何かあったのではないか」
すると乾は「んー」と珍しく言葉を濁して笑った。
「親が心配性でね。検査入院ってトコ」
「そうか…では、眼の方も大丈夫なのか」
すると乾はまた言葉を濁した。
「初めに言っておくけど、あれは試合中のものであって切原君は悪くないからね?」
「ということはやはり異常があったのか」
「ええとね、そういう可能性があるって分かってて出場した俺が悪いんだから、切原君を叱らないでほしいんだけど」
「……わかった。赤也には何も言わん。だから話せ」
「うん」
頷いて乾は己の分厚い眼鏡を外した。
ゆっくりとこちらを見上げる。しかしその焦点は明らかに合っていない。
「……まさか」
真田の声に、乾はえへっと笑った。
「失明しちゃった」
「笑い事ではないだろう!」
「や、だから、こういう可能性があるって分かってて出場したのだからして覚悟は出来ていたというか、どっちにしろ無事に全国終われたとしてもあと一年も持たないっぽかったからいっそ清々したというか」
眼を閉ざしてへらりと笑う乾に歩み寄ったのは、今まで無言を通していた蓮ニだった。
蓮ニは相変わらずの無音で乾の傍らに歩み寄ると、すっとその手を彼の頬に添えた。
「?!」
びくりとして乾がその手から逃れる様に体を引いた。途端、訝しげな色を湛えて蓮ニの居る辺りを閉ざした視線で見上げている。
「…誰?今の感触、真田じゃない」
「俺だ、貞治」
その声を認識すると同時に、すうっと乾の表情が色を無くした。いや、驚愕を微かに浮かべている。
確かに、眼が見えていなかったのならばずっと無言だった蓮ニの存在に気付いていなくてもおかしくはない。
「蓮ニ…」
「そうだ、貞治」
そうして彼はもう一度乾の頬に手を添える。びくりと震える体。まるで捕食されるのを待つしかない小動物のように。
「眼の事、何故俺に言わなかった」
「…どうして、蓮ニに言わなきゃ、ならないの」
まるで怯えるように声を潜めて返すその応え。けれど蓮ニはそれに気付かないかのように淡々と問い詰める。
「一々説明しなければわからないのか?」
「……もう、昔の話だろ。お前とはパートナーでも何でもない」
すると蓮ニは乾の頬に当てていた手を下ろし、やれやれと溜息を付いた。
「いい加減機嫌を直せ、貞治」
「っ!」
その瞬間、乾は衝動に任せ、手にしていた眼鏡を思い切り蓮ニに向かって投げつけていた。
「ふざけるな!!」
鈍い音を立ててそれは蓮ニの腹に当たり、しかし重力に従って床に転がった。
かしゃんと乾いた音が響く。
「乾?!」
勢い良く扉が開き、聞き覚えのある声と共に一人の青年が入ってきた。手塚国光だ。
真田たちが居るとは思わなかったのだろう、一瞬驚いたように眼を見開いたが、しかしそこに蓮ニの姿を認めるとその表情を険しくして二人を睨みつけた。
「乾に何をした」







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