浅瀬を歩む君の滑らかな脚





第六十四話「博士を象るクオリア」




乾が失明したと知ったのは、全国大会が終わってからの事だった。
連絡を受けていた竜崎が手塚と大石だけにそれを告げた。
足元から全てが崩れていくような感覚。
いつかは訪れるだろうと覚悟していたはずなのに。けれど、まだ早すぎる。
まだ、彼の瞳は映すべきものがたくさんあったはずなのに。
だがもうそれは叶わない。
会場からその足で乾の元へと向かいたかったが、まずは自分の腕を診て貰えとかかりつけの病院に引っ張って行かれ、文句を言えば呆れられた。
しかし確かにこの腕のまま乾に会いに行っても彼は会ってはくれないだろう。大人しく診察を受けることにして、乾に会いに行くのは翌日に持ち越された。
そして長い夜が明け、漸く会いに行けるかと言えばそうでも無く。
午前中は大石と共に学校に赴き、竜崎とこれからについて話し合わなければならなかった。
次期部長を誰にするかとかそんな事は何も今日話し合わなくても良いだろうに。
顔にそうありありと出ていたのだろう、仏頂面の手塚に大石は苦笑し、竜崎にはまた呆れられた。
そうして昼過ぎになってやっと神奈川へと向かうことが出来た。最初は大石が同行を申し出たのだが、それを断って手塚は一人でその病院へと訪れた。
教えてもらった部屋の前に立ち、ノックをしようとした時、それは聞こえた。

『ふざけるな!!』

室内から聞こえた、温厚なはずの彼の怒声に手塚は思わずその扉を開けていた。
「乾?!」
そこには既に先客が居た。一人は真田弦一郎。
そして、柳蓮ニ。
手塚の視線が険しいものに変わる。
あの試合で唯一切原赤也を諌める事が出来る位置に居ながら、それを止めようともしなかった男。
手塚は二人を押し退けるようにして乾との間に割って入り、彼を背に庇って二人を睨みつけた。
「乾に何をした」
「何も」
淡々と返される応え。彼は冷めた視線を手塚に、否、その背後の乾に向けて告げた。
「貞治、いつまで人形遊びをしているつもりだ」
訝しげに眉を顰めたのは手塚だけで、真田も乾もただ黙っている。
「そうやって依存させて、己の思うがままに動くよう躾けた所でお前の望むものは手に入らない」
「……ぃ…」
「もう、そんなあてつけはしなくとも良いのだ」
「うるさい!」
「乾っ」
手塚が乾を振り返り、その体を支える。しかし触れられた途端乾は身を捩ってそれから逃れた。
「よくもまあそんな勝手な事が言えたもんだな!いい加減機嫌を直せ?あてつけなんててしなくてもいい?ふざけるな!今まで俺がどんな思いで生きてきたか知らないでよく言うよ!」
ぶんっと枕が投げつけられる。しかしそれは見当外れの方向に飛んで行き、壁にぶつかって落ちた。
「今更、お前の元にかえれるわけないだろう…!」
「お前が望むなら俺は時を戻そう。お前があの日の続きを紡いだように、俺はあの世界をもう一度お前に与えよう」
ただ傍らの存在を信じ、無邪気に笑っていたあの頃を。
「乾、聞いては駄目だ」
「しかし、いつまでもこのままというわけにも行くまい」
手塚の制止を遮って真田は乾を見る。
彼はきつくシーツを握り締め、白い肌を一層白くして眼を閉ざしていた。
「乾、お前はどうしたいのだ」


そして、長い沈黙の後、乾は口を開いた。









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