浅瀬を歩む君の滑らかな脚



「真田、もう一度信じるということを思い出させて。…俺に、光を教えて」




真田弦一郎編「アガスティアの葉は焼け落ちた」




「赤也、少し残れ」
全国大会が終わって初めての部活。レギュラーは軽く慣らす程度で終わったそれは、赤也にとっては少々不満を齎すものだった。
「何スか」
これからスクールで足りない分を補おうとしていた所に水を差すようなそれに、赤也は不機嫌そうに真田を見た。
「うむ」
真田は頷くと、ちらりと辺りを見回した。
「んじゃなー」
「お疲れさんー」
その視線に気付いた他の部員たちがさっさと部室を出て行く。
残ったのは、真田に赤也、そして幸村と柳の四人だった。
「で?三鬼才揃って何なんスか?」
「貞治が昨日退院した。部活にも今日から顔を出している」
「へえ」
柳の言葉に赤也は唇の端を歪めて笑う。
「たった二日で退院スか。手加減したつもりは無かったんスけどねえ。さっすが乾さん。ジョーブに出来てらっしゃる」
皮肉じみたそれに柳は何の反応もせず、真田が続けた。
「怪我自体は大した事はないようだ。ただ…」
そこで真田は一旦言葉を止め、視線を逸らした。しかしすぐにその視線を再び赤也に合わせ、言葉を続けた。
「乾はお前に知らせる必要は無いと言った。しかし、俺はお前も知っておくべきだと判断した」
「はあ」

「乾は失明した」

一瞬、真田の言葉が理解できなかった。
「ハァ?」
何を言っているのだろう、この人は。
赤也の訝しげな視線を受け止めながら真田は続ける。
「元々、いつ失明してもおかしくなかった所に頭部に強い刺激を受けた為に一気に進行したそうだ」
何の冗談だろうか。
しかし真田は至って神妙な顔をして語っている。
柳、幸村に視線を向ければ、彼らもただじっと赤也を見ていた。
「…ははっ」
自然と乾いた笑いが出た。
「それで、何スか。謝って来いとでも言うんスか」
馬鹿馬鹿しい。赤也は吐き捨てるように言う。
「不動峰ん時も聖徳ん時も何も言わなかったくせに相手が乾さんだと文句言うんスか」
赤也は沸々と湧き上がるものに突き動かされるように、次第に声を荒げていった。
「テメエに関係ないヤツは良くて関係のあるヤツなら俺を責めるんスか。ふざけんな!アンタらだって今まで見てただけのくせに、俺を責めるケンリなんてねえだろーが!」
声を荒げる赤也に対し、しかし真田たちの視線は静かだった。
批難するでも責めるでもない。それが一層赤也の憤りに油を注ぐ。
「で?乾さんに頭下げて文句の一つでも聞いて来いってか?ざけんなよ。そもそも悪ぃのはあっちじゃねーか!目ぇ見えねえのにのこのこコートに入ってくる方がバカなんだよ!」
「赤也」
真田の静かな声に赤也はびくりと体を竦ませる。
「お前のプレイスタイルに口を出すつもりは無い。ただし、それに付き纏う責任だけは忘れるな。その力を振い続けるのも、または別の道を模索するのもお前の好きにすればいい」
「はあ?わけわかんねーし!つーかんなくっだらねー話んためにワザワザ時間取られたくねーんだよ!」
手荒くテニスバッグを担ぎ、赤也は三人の視線を振り切るように部室を出た。
「っざけんなっ、バッカじゃねーの!弱ぇのが悪いんだよ!」
足音荒く校門へと向かう。
テニスを嫌いになりたくないのだと、そう告げる寂しげな笑顔が甦る。
「俺は何も悪くねえ!悪くねーに決まってんだろ!」
この怒りが何処から来るものなのかなんて、考えたくも無かった。








部外者の存在に真っ先に気付いたのは、フェンスの近くに立っていた菊丸だった。
フェンスの向こう側のその姿を認めると、菊丸は隣で同じ様に休憩していた不二にこそりと耳打ちした。
ちらりと不二もまたその姿を捉える。
切原赤也がそこには立っていた。
しかし向こうはこちらの視線に全く気付く様子も無く、コートの中を睨みつけている。
不二はその視線の先を追う様にコートに視線を戻し、ああ、と納得した。
そこには、乾の姿があった。
すらりとした立ち姿はいつもの事だが、しかし昨日は形ばかりに掛けていた眼鏡も今日は掛けていない。
その目を閉ざし、けれど手にしたファイルを開いて彼は傍らに立つ大石と何か話し込んでいた。その長い指先は先ほどから開いたファイルの紙面を滑っている。練習が始まる前にその中身を見せてもらったのだが、全て点字で打たれていて何が書いてあるのかはさっぱりだった。
キィ、と扉の開けられる音に不二は意識をそちらに戻す。
切原がいつぞやと同じく勝手知ったる態度でコートに入ってきたのだ。
同じくそれに気付いた菊丸が不二にどうする?と問いかけてくる。
とりあえず、見てようか。不二はそう返して腕を組んだ。
「あ!てめえ!立海の切原!」
真っ先に声を上げたのは荒井だった。彼は明らかに不機嫌そうな切原に近づくとその行く手を阻むように立ち塞がった。
「邪魔なんだけど」
「お前こそ出て行けよ!ここは部外者立ち入り禁止だぜ!」
その声に他の部員たちもチラホラと集まってくる。切原はちっと舌打ちして荒井の肩を押し退けた。
「あんたらにゃ用はねえんだよ」
「てめえ!」
しつこく腕を掴んで引き止める相手に切原はただでさえ良くない機嫌が一気に降下していくのを感じた。
「うぜえ!」
思い切り腕を振り、その手を振り払う。わめく相手には目もくれずも区的の人物に向かって声を上げた。
「乾さん!」
彼もまたざわめき始めた雰囲気に気付いていたのだろう、目は相変わらず閉ざされていたが、様子を窺うように顔はこちらを向いていた。
切原の呼びかけに彼は少し小首を傾げ、傍らの大石に何か話しかけている。
大石が説明すると、彼は納得したように頷いてまた何か大石に話しかけた。
そのやり取りすら切原を苛立たせ、そこへ向かおうとするがしかし今度は見覚えのある二人が立ち塞がる。
「部外者が勝手に入ってきちゃあいけねーな、いけねーよ」
「…あの人に近寄るんじゃねえよ…」
おどけた口調の、しかし視線は決して友好的ではない桃城と、敵意も顕わに睨みつけてくる海堂。
切原は二度目の舌打ちを洩らす。
このまま力ずくでねじ伏せてやろうか、そう思った時、大石が彼らを呼んだ。
「桃、海堂」
「大石先輩」
「センパイ…」
桃城と海堂がさっと二手に割れる。その先には大石と、その肩に手を置いた乾が立っていた。
「何か俺に用かな?切原君」
落ち着いたその声音に批難の色は無く、ただ純粋に切原の突然の来訪を疑問に思っているようだった。
「…アンタ、目ぇ見えなくなったってマジっすか」
すると彼は少しだけ苦笑した。
「幸村たちが話したのかな。うん、まあそうだね」
「真田副部長がアンタが俺には言うなって言ったって言ってた」
「ああ、それは、」
「アンタ、そんなに善人ぶりたいのかよ」
ざわり、と周りが剣呑な雰囲気を強める。
テメエ、と手を出そうとした海堂を桃城が止める。
しかしそれが見えていない乾は、ただきょとんとしたように小首を傾げていた。
「そうやってイイヒトぶって周りの同情ひいて満足かよ」
しかし乾は全く動じた様子も無く、小首を傾げたまま切原を窺っている。
「アンタが目ぇ見えなくなったのはアンタの責任だろ。のこのこ俺の前に立つから悪いんだよっつーか試合とか図々しく出てんじゃねえよ全部何もかもアンタが悪いんだろーが!」
語気を荒げたその言葉に、乾は漸く傾げた首を戻し、そうだね、と頷いた。乾センパイ、と声が上がる。けれど乾はいいから、と大石の肩に預けた手とは反対側の手を軽く上げてそれを制した。
「これは俺の責任だから、君が気に病むことはないんだよ」
乾の言葉に切原はハァ?と馬鹿にしたような声を上げた。
「俺が気に病む?どうやったらそーゆー考えになるんすかねえ?」
「だって、気にしてるからここに来たんだろ?」
「っ…ざけんな!」
苛立ちが一気に跳ね上がる。衝動に任せてその胸倉を掴みあげれば他のヤツラに引き離された。二人掛りで押さえ込まれてはさすがに届かない。
「何で俺がアンタの心配しなきゃなんねえんだよ!バカじゃねーの!アンタが悪いんだろうが!アンタさえ試合に出なきゃ良かったんだ!アンタが…!」
ぎり、と奥歯を噛み締める。
チクショウ。唸るように呟いた。
考えたくも無い。
この怒りが何処から来るかなんて、知りたくも無い。
けれど、
「何で!何で試合に出たんだよ!何で俺の前に出てきた!アンタ、テニスを恨みたくないって言ってたじゃんかよ!なのに、こんな終わり方していいのかよ!」
儚く微笑ったあの表情が忘れられない。
傷つけたくないのに、傷つけていい人ではないのに、傷つけることでしか感情を吐き出せない。
「切原君、ごめんね」
彼は困ったように微笑むと、一歩前に踏み出してすいっとその手を伸ばしてきた。
反射的にその手を取ると、思わぬ力で引っ張られ、ぽすっと音を立てて白と青の色彩に飛び込む。
数瞬後、乾に抱きしめられているのだと気付いた。
「ちょっ…!」
「君は何も悪くない。君の言うとおり、これは俺の責任だから君が気に病む必要はないんだよ。俺はあの試合に出れば高い確率でこうなることをわかってた。けれど俺は試合に出た。それはつまり、君に幕切れを期待していたんだと思う。勿論試合をする以上勝つ気ではいたけれど、結果的にそうなってしまえばいいと思っていたのも事実だ。前に言っただろう?じりじりと自分のプレイが出来なくなっていく事を自覚しながら続けるのは趣味じゃないって。だからこれは俺のわがままであって、君はそれに利用されただけなんだよ」
だから、ごめんね、と告げる声は何処までも優しくて。
「…っざけんな」
切原は彼の背に爪を立てんばかりの強さでしがみ付く。
「だから真田たちには君に知らせなくていいって言っておいたんだけど…余計に気を遣わせちゃったかな」
「遣ってねーし」
「はは、じゃあそういう事にしておこうかな」
だからね、切原君。
乾は子守唄を歌うような穏やかな口調で切原を呼ぶ。
「君はテニスをやめないでね」
やめねーし、という呟きは乾の肩口に吸い込まれて消えた。

そして乾が体を離そうとしても切原はしがみ付いて離れず、結局青学二年レギュラー二人に引き剥がされた。




その日、赤也は部活に現れなかった。
昨日の事で拗ねているのだろうかとも思ったが、不機嫌程度で部活を休むような奴ではない。いい加減に見えて、そういう所はちゃんとしている。
しかし携帯に電話しても留守電に変わること無く延々とコール音が鳴り続けるだけで。
幸村と蓮ニは心当たりがあるのか、放っておけと素っ気無い。
仕方なくそのまま部活を始め、昼の休憩に差し掛かった頃に赤也はやってきた。
「赤也、乾」
赤也に手を引かれてやって来た乾の姿に、真田は漸く赤也が何処に行っていたのかを理解した。幸村と蓮ニは分かっていたのだろう、特に驚いた様子は無かった。
二人は真っ先に乾と赤也に近づき、赤也から乾の手を引き剥がして自分の手と繋いでいた。
「ちょっと柳、両方塞いでしまったら乾が白状を持てないじゃないか」
「案ずるな。この俺が完璧なまでの誘導をしてやる。俺に任せておけ、貞治」
「ええと、気持ちは嬉しいんだけど、二人ともちょっと離してくれるかな」
二人の間に見えない火花が散るも、しかし乾がやんわりと二人の手を振り払い、後ろを振り返った。
「切原君、そこにいる?」
一歩下がったところでぼんやりとしていた赤也がはっとして声をあげた。
「あ、ここにいるっす」
乾は頷くと、「真田もいるかな?」と幸村たちの居る辺りに顔を向ける。
「ここにいる」
「うん、じゃあ切原君」
「…ス」
促されるがままに幸村と真田の前に立った赤也は微かに頭を下げて「サボってすんませんでした」と呟くように告げた。
「真田、幸村」
「うん。乾の言いたい事はわかるよ。でも無断で休んだことに変わりは無い。真田」
「うむ。今日はコートに入れると思うなよ、赤也。手始めに午後イチで十キロ走れ」
「ッス」
「それより貞治。ここまでどうやって来たのだ」
蓮ニの問いかけに、乾は「タクシーだけど?」とあっさりと答える。
「結構掛かったんじゃない?」
「カードがあるから問題ないよ。足代はケチるなってのが我が家の理念だから」
「あー!青学の乾じゃん!!」
割って入った声の主へと一同の視線が向く。
荷物を取りに部室に戻っていた丸井たちが乾たちの輪を見つけ、ぞろぞろと寄って来た。
「つーか赤也もいんじゃん!ナニナニどーなってんだぃ?」
「よーぅ乾ー」
「やあ、丸井、仁王…あと、足音からして他にもいるのかな?」
「柳生とジャッカルもおるで」
仁王が乾の肩に手を回せば蓮ニがそれを叩き落とす。ならばと腰に手を回せば今度は幸村が速攻で跳ね除ける。
「今日はガードが固いのー」
「俺は貞治のように甘んずるつもりは無いのでな」
「仁王、乾が優しいからって周りまで優しいとは限らないんだよ?」
「プリッ」
仁王と幸村、蓮ニが何処と無く険悪な空気を醸し出す中、柳生が乾の前に立った。
「それより乾君、今日はどうしたのですか」
「ああ、切原君をお届けついでに遊びに来たんだ。迷惑だったかな?」
「いえ、滅相もありません。ただ、ボールが飛んできたら危ないですから練習中はコートからは離れていてくださいね」
ジャッカルが「そんなホームラン打つ奴いねえだろ」と苦笑するが、柳生は真面目ぶっていいえ、と首を横に振って乾の手を取った。
「万が一ということもありますから」
「うん、ありがとう」
「そしてどさくさに紛れて貞治の手を握るんじゃない」
ずびしっと器用に柳生の手にだけ手刀を落とし、蓮ニは自由になった乾の手を引いて柳生から遠ざける。
「なあなあーそんな事より早くメシ食おうぜぃ」
すると痺れを切らした丸井が乾の背中に飛びつき、そのまま脚を乾の腰に絡み付けて強制的におんぶの形をとった。
「おっと」
「丸井!」
「いいよ、真田。大丈夫だから」
一瞬バランスを崩したが、何とか踏み止まると乾は微笑った。
「メシー!」
「そうだったな。引き止めて悪かったね」
「つーか赤也」
そういえば、とジャッカルが赤也を見る。
「お前はメシ持って来てんのか?」
「うぃーす、途中でコンビニで買ってきましたーっつーか乾さんが十秒チャージのなんたらゼリーとカロメだけしか買わなかったのがありえないって感じでしたー」
「げぇーそんなんだからひょろっこいんだぜぃ、乾ぃ。何なら弁当わけてやるぜぃ、ジャッカルのだけどな!」
「俺のかよ!」
乾は丸井の脚に手を回して支えながら、小さく微笑った。
「じゃあ、今日は皆で一緒に食べてみない?」








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