浅瀬を歩む君の滑らかな脚





自室に入るなり、真田は固まっていた。
「おかえり、真田」
自室に戻ってきた自分を柔らかな笑顔で迎える乾。そこまでは良い。
「…蓮ニは何をしているのだ」
「え?膝枕?」
疑問系で乾が答えるが、正座した彼の膝に頭を乗せ、腕までもしっかりとその細い腰に回している蓮ニの姿を膝枕といわず何というのか。
「何かね、疲れて眠いって言って突然こうなった。蓮ニ、真田戻ってきたよ」
優しくその頭を撫でて囁くが、しかし蓮ニが起きる気配は無い。
「うーん、寝入っちゃってるみたい」
「…そうか」
視線は二人へと向けたまま定位置に腰を据える。
乾は相変わらず優しげな表情で、蓮ニの髪をゆっくりと梳いている。
その指先が与えてくれる心地よさを知っている身としては、蓮ニが羨ましいと思ってしまうのも仕方の無いことだ。
「…合宿以外で蓮ニの寝ているところを見るのは初めてだ」
「そう?昔よくウチに泊まりに来てた時は俺が起こすまで起きなかったくらい寝汚かったけど」
それは単に乾に起こして欲しいが為に寝たフリをしていただけに過ぎないのだが、乾がそれを知る由もない。
「そうか」
それにしても、と真田は乾を見る。
乾は最近は随分と穏やかな顔をするようになった。
彼が自ずから背負い込んでいた重荷を大分下ろした所為か、つい先日まであれ程までに蓮ニに対して神経質なまでの反応をしていたというのに、今ではすっかり気を許している。
それはここが真田のテリトリーであるということも関係しているのかもしれないが、そうであると自負できるほど自惚れるつもりは無い。が、それが事実であれば良いとも思う。
「…真田は、俺がこうやって他の人とくっついたりするのは嫌?」
「…乾の行動を制限するようなことはしたくは無い。…のだが、不愉快と思わないわけではないのが正直な所だ」
「そう。ねえ、真田」
乾がちょいちょいと手招きをする。
「何だ?」
誘われるがままにその傍らににじり寄ると、真田の位置を確かめるように乾の手が真田の肩口をぺたぺたと触った。
「?」
乾の挙動を見守っていると、彼は徐に真田の肩にこてりと頭を乗せた。
「真田、ありがとう」
「?何がだ」
しかし乾は小さく笑うだけだ。
「乾?」
「いや、俺、真田を選んでよかったなあって思って」
「!」
思わず身を硬くすると、それを感じ取った乾が喉を鳴らして笑う。
余りにも無邪気に笑うものだから、真田は誘われるようにその頬に手を添えた。
するとその意図を察したように乾は真田の肩から顔を上げる。
「乾…」
その整った顔に己の顔を寄せ、あとほんの少しで唇が触れ合うという刹那、ごすっという音と共に真田の顎が衝撃によって跳ね上がった。
「ぐっ…」
「真田?!」
「おっと何やらぶつかったか」
しれっとして身を起こしているのは、先ほどまで眠っていたはずの蓮ニだった。
「あ、蓮ニおはよう」
「ああ、おはよう貞治。お前の膝は心地よくてつい寝入ってしまった。すまないな」
「いや、俺は構わないんだが…真田、大丈夫?凄い音がしたんだけど」
「起き上がった弾みでつい頭が掠っただけだ、貞治」
実際は掠った所の騒ぎではないのだが、痛みに悶えている真田に反論する術はない。
「人が寝入っているのを良い事に不埒に及ぼうとした弦一郎の自業自得だ。貞治の心配には及ばん」
乾が見えないのを良い事に、そう言いながらも蓮ニはげしげしと真田に蹴りを入れている。
その不敵な顔に真田は確信した。こいつ最初から起きてやがった、と。
乾が真田を選んでからも、蓮ニは一向に構わず乾の周りをうろついている。乾の警戒が緩んだら緩んだで途端に過剰なスキンシップも図ってくる始末。
今日とて本来なら乾だけを招いたはずだったのだ。なのに気付いたらちゃっかりと蓮ニまで上がりこんでいる。
下手をすると乾が泊まるなら自分も泊まると言い出しかねない。
「こら蓮ニ、また真田苛めてるだろ」
見えなくとも気配や音でそれらを察する事に慣れている乾は渋い顔で蓮ニを諌めた。
「気のせいだ、貞治」
「……」
乾の一言で漸く攻撃が収まり、真田が身を起こす。
「ていうか蓮ニ、今日はもう遅いんだから帰れよ」
「貞治と一緒ならば帰ろう」
「駄目。俺はお泊り。蓮ニは帰る。これ決定事項」
蓮ニがぶすくれていると「玄関までは送るから」と蓮ニの手を引いて立ち上がる。とっとと追い出すことにしたらしい。
「ほら、さっさと行くよ」
「さだはるぅー」
「はいはい、また明日な」
べたりと抱きついてきた蓮ニを構わず引きずって乾は玄関へと向かう。
真田は一つ溜息を吐き、その後を追うべく立ち上がった。















子供が俺を見上げていた。




あの泣いていた子供だとすぐに分かった。
子供はもう泣いてはいなかった。
けれど泣き腫らして未だに潤んだ目でじっと俺を見上げている。

そっと子供に手を伸ばした。

今度こそ、この手は子供に届いた。
けれど子供は何処か戸惑うように俺を見ている。


「もう、泣かなくていい」


身を切り裂くような、悲鳴のような声で呼ばなくてもいいのだ。
子供の前に膝をつき、その小さな体をそっと抱き寄せる。


「俺が、傍にいる」


お前の傍にいる。
喜びも怒りも、哀しみも全て共に分かち合おう。
だからもう、独りでこんな寂しいところで泣くな。


共に生きよう。
支えあう事は、いけないことではないのだ。


子供の体から力が抜け、柔らかく俺の体に寄りかかってきた。
耳元で子供が小さく呟く。


「…ああ、疲れただろう。今はゆっくりと休め…乾…」


子供の体の輪郭が薄れ、消えていく。
俺の体も見る間に消えていく。
暖かく心地よい消失に身を委ね、目を閉じた。



泣き声は、もう聞こえない。







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