浅瀬を歩む君の滑らかな脚
「手塚、お前さえ居ればもう、それでいい。だから俺を選んで。テニスよりも家族よりも。ねえ、手塚。俺を選んで」 手塚編「瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい」 乾は一通りの検査を済ませるとさっさと退院した。 退屈で倒れそうだった。電話越しに彼はそう言って笑っていた。 明日は一度病院によってから部の方にも顔を出すよ。 その言葉通り、乾は幾ばかりか遅れてコートに現れた。 癖なのかいつもの眼鏡をかけ、しかし手には彼が視覚障害者であると示す白く細長い杖が握られている。 「乾」 駆け寄り、声を掛けると彼はこちらを向いて微かに小首を傾げるような素振りを見せた。 「やあ、手塚」 未だガーゼや湿布がその白い肌の多くを占めており、痛みが無いわけではないはずなのに彼はいつもと同じ様に微笑った。 「乾、大丈夫なのか」 同じくコートを飛び出してきた大石の言葉に、乾はゆったりと頷く。 「うん。コートに立つことはできなくなっちゃったけど、いてもいいかな」 「当たり前だろう。コートに立てなくたって、お前は俺たち青学テニス部の仲間だ。なあ、手塚」 「ああ。たとえテニスが出来なくなろうとも、お前が今まで培ってきたものは変わらない」 「…ありがとう」 「そういえば乾、何で眼鏡かけたままなんだ?」 大石の疑問に、ああ、と乾は眼鏡をくいっと中指で持ち上げた。 「無いと落ち着かないって言うのもあるけど、眼鏡無いと俺だって分かってもらえないかなって思って」 「そんな事無いと思うぞ」 「そう?昔から『お前は眼鏡外すと誰だかわからない』って言われてきたから、そうなんだと思ってたんだけど」 「まあ、見慣れないっていうのはあるかもしれないけど、そんな罅の入った眼鏡を掛けてて、万が一割れたりしたら危ないだろう?」 「え、罅入ってる?どっち?」 「左目の方。結構ハデに入ってるぞ」 「そっか。レンズは触らないからわかんなかったよ。ありがとう、大石」 なら外しておいた方が良さそうだ。そう言って眼鏡を外し、乾は空いた手で鞄を探り始めた。 「手伝おうか?」 「いや、大丈夫。…あ、あった」 手探り、と言うには慣れた手つきで鞄から眼鏡ケースを取り出し、罅割れた眼鏡をケースにしまって再びそれを鞄の中に仕舞いこんだ。 「それじゃあ、いつまでもここで立ち話ってのも何だから、コートに行こうか。大石、コートまで肩に手を置かせてもらってもいい?」 「え、俺?あ、うん、いいけど…」 その申し出に大石は思わず手塚を見る。 しかし手塚もいつもどおりの無表情で一つ頷くだけだ。 「あ、乾、部室には寄らなくていいのか?」 「うん。ご覧の通りジャージだし、鞄には点字用のタイプライターとか入ってるからどっちにしろ持ち歩く事になるし」 「そっか。じゃあ、行こうか」 原因不明の違和感を感じながらも、大石は心持ちゆっくりと歩き出した。 始まりは、ほんの些細な事だったのに。 ぱしん。 乾いた音と共に差し伸べた手に軽い痛みが走る。 睨み付けんばかりの険しさを湛える乾。 また、やってしまった。 「すまない…」 手塚は伸ばした手を引いて謝った。 「あ、いや…俺の方こそゴメン」 気まずげに乾は顔を逸らし、「でも、大丈夫だから」と呟くように告げて部屋を出て行った。 彼の自室に一人残された手塚は叩かれた手をもう片方の手でそっと包み込み、目を閉じた。 乾は、手塚に手を貸されることを極端に嫌っている。 大石や他の仲間たちには遠慮なく誘導を頼んだり、手を借りたりする。 しかし手塚にだけは決して頼ろうとしない。 最初こそその意図が分からず途惑ったのだが、今は違う。 乾は手塚に自分の弱さを見せたくないのだ。 ハンデを背負っているという事は、乾にとって酷く劣等感を煽るものなのだろう。 それでも乾は手塚にだけは、手塚とだけは、対等でありたいと思っている。 受け入れざるを得ないのだからと己を納得させて入るものの、しかし溢れるものは拭い切れない。 だから彼は手塚の庇護の手を過剰なほどに嫌う。 それは、乾とって手塚という存在が他の者達とは違うのだと知らしめているようで。 例え手を差し伸べるたびに手酷く振り払われたとしても、手塚にとってそれは幸福の証でしかなかった。 「おまたせ」 グラスの二つ乗せられたトレイを片手に戻ってきた乾を手塚は迎える。 眼が見えないとは思えないほどのしっかりとした足取りで小さなローテーブルの前まで来ると、彼はそこにトレイを置いた。 「手塚、そこにいる?」 「ああ」 乾は声を頼りに手塚の居場所を確かめ、ぶつかる事無く隣で腰を下ろした。 「ねえ、手塚。キスしてよ」 少しだけ口元に笑みを浮かべ、求めてくる乾の頬に手を沿え、手塚は求められるがままその唇に口付けた。 「ん…」 そのまま何度も角度を変えては触れ、次第に深くなっていく口付けに乾の手が手塚の背に廻される。 「…乾」 「今日は抱きたい?それとも抱かれたい?」 顔をずらし、くつくつと喉の奥を鳴らして笑う乾のその喉仏に軽く口付ける。 「…乾を抱きたい」 「いいよ」 おいで、と誘われるように手塚は乾を毛足の短いカーペットの上に押し倒した。 手の痛みは、疾うに消えていた。 もっと早く、気付くべきだった。 乾の擦り切れた精神の不安定さに。 それが発する小さな警報に。 けれど手塚はそれを見逃した。 気付いた時にはもう、その道を転がり落ちるしか術はなかった。 |