浅瀬を歩む君の滑らかな脚
手塚がドイツへの留学を取り止めたと大石が聞いたのは、二学期が始まってすぐの事だった。 詳しい理由を手塚は語らなかったが、彼なりの葛藤や考えがあっての事だろう。大石は深く問い詰めたりはしなかった。 手塚ならば高校を出てからでも十分上を目指せるだろうし、成長期の今、左腕の不安材料を抱えたまま無理に渡独する必要もないと思ったのだ。 そうして青学高等部に進学し、大石は当然のようにテニス部に入部した。 そこには懐かしい顔もあれば、高等部から入部したのだろう、見慣れない顔もあった。 乾や河村、そして桃城たち後輩はここには居ないけれど、手塚や不二、菊丸が居る事はとても心強かった。 大石を含む四人は入部してすぐレギュラー入りした。 高等部は中等部ほど目立った戦績は無く、それを思えばなるべくして、というのは慢心かもしれないが、誰もが予測できた結果だった。 そして高等部に上がって初めての夏。 大会を間近に控えたある日、大石は着替える手塚の背に青黒い痣を見つけた。 その時はどこかでぶつけたのだろうとその程度に思っただけだった。 けれど、翌々見ていると手塚の体には常に何処かしらに痣があった。 ぶつけたような、というよりは、殴られたような。 大石の脳裏に三年前の出来事が甦る。 またあの時のように上級生からの嫌がらせを受けているのだろうか。 手塚に何度問い質してもそんな事は無い、転んだだけだと判を押したような応えをするばかりだ。 見守るしかないのだろうか。そう思っていた。 しかしそれは一つ消える頃にはまた別の場所に新しい痣が増え、秋も終わりに差し掛かる頃には増えていく一方となったそれに大石は居ても立っても居られなくなっていた。 だが問い質せば質すほど手塚は頑なになるばかりで八方塞だ。 こんなとき、乾がいてくれたら。 大石は今はコートから身を引いた彼を思う。 不器用で人間関係に角が立ちやすい手塚を常に支え、さりげなくその身を挺して手塚への敵意から彼を守ってきた乾。 乾は視力を失った今も変わらず特進クラスに籍を置いている。高等部になると一般クラスと特進クラスは棟自体が違っており、滅多に会うことは無い。 しかし手塚はいつも乾と帰路を共にしているはずだ。 彼ならば、何か知っているのではないだろうか。 けれど乾も知らなかったとして、彼に余計な負担をかけてしまうのも気が引ける。 ただでさえ自身のハンデに対し、苦悩や葛藤を抱えているであろう彼にこれ以上頼るのはどうだろうか。 「大石君」 大石は我に返って顔を上げた。 「どうしました。難しい顔をして」 「大和部長…」 そこに立っていたのは、高等部でも変わらず部長の地位にいた大和祐大だった。 「私はもう部長ではありませんよ」 つい先日引継ぎを済ませたばかりの彼は、サングラスの位置を指先で直しながらそう薄い笑みを浮かべた。 そういえば、この人にもまた目に障害を持っているらしい。 視力には問題ないが光に弱いとか何とか。そんな噂を聞いた事がある。 だからだろうか。中等部で大和が部を纏めていたあの当時、乾と大和が話している姿をよく見かけたのは。 珍しい組み合わせだと思ったのを今でもよく覚えている。 「大石君?」 「あ、す、すみません。ちょっと考え事をしていて…」 「手塚君の事ですね」 それは疑問ではなく、確認の口調だった。 「ええと、その…」 大石が口篭っていると、大丈夫です、と彼は相変わらずの薄い笑みを浮かべたまま頷いた。 「他言はしません。と言っても部員の何人かは大石君と同じ様に手塚君の体の痣について気にしているようですが」 「そう、ですか」 やはり自分の他にも不審に思っている者はいたらしい。 菊丸も何か言いたげにしているし、不二は何か知っている様だったが傍観者に徹するつもりらしく見て見ぬふりを決め込んでいる。 「手塚を問い質しても転んだとか、ぶつかったとかそんな答えばかりで…」 そうでしょうね、と大和は頷く。 「例え私が聞いた所で結果は同じでしょう。そうですね、乾君に聞いてみましょうか」 「え?」 大石自身、乾に助力を仰ごうかと思っていただけに、大和の口から乾の名が出たことが逆に意外さを感じた。 「乾に、ですか」 「ええ、君も知っているでしょう?手塚君と乾君が親密だと」 「はあ」 仲が良い、でも親友、でもなく、親密と含みのある物言いに大石は何か引っかかりを感じたが、しかし大和は常にそういった思わせぶりな物言いをする人だ。気にするほどでもないだろう。大石はそう判断して頷いた。 「幸い、私は部活を引退して時間を持て余している身です。私から乾君に探りを入れてみましょう」 乾なら何か知っていると、例え知らなくとも彼なら手塚のガードを崩せると大石は期待していた。 「お願いします」 きっと、乾なら何とかしてくれる。 そう信じていたのだ。 「乾と大和部長って、なんか似てるよね」 そう言ったのは、誰だったか。 柔らかな日差しの差し込む教室内に、カタカタと軽い音が響き渡る。 細く長い指を操り、乾はもう随分昔から使い込んでいるそのタイプライターを打ち続けた。 高等部に上がってからは文芸部に身を置いている乾の所在は、専ら歴史資料室の片隅にあった。 最初こそ部に宛がわれた教室で打ち込んでいたのだが、その打ち込む都度の音が他の部員の迷惑ではなかろうかと顧問に相談した所、教師からの信頼も厚い彼はこの資料室の鍵を手にしたのだった。 最初は埃っぽくて咳き込むこともあったが、気の良い仲間たちが掃除を手伝ってくれたおかげで今は古紙の匂いが微かに漂うだけの心地よい空間となっていた。 からり、と扉を引く音に乾はタイプライターを打つ手を止めた。 瞳を閉ざしたまま扉のほうへと顔を向ける。 ここを訪れるのは文芸部の顧問でありこの部屋の管理人である教師か、または部員、そして手塚だけだ。 けれど彼らは乾がここに居ると知っている。だから必ずノックなり一言声を掛けるなりする。けれど今はそれが無かった。 「……」 自分に用なのか、それともこの部屋に用があるのか。 無言で気配を探っていると、再びからりと音がして扉が閉ざされた。 近づいてくる足音。 「お久しぶりです、乾君」 思わぬ声に乾は一瞬言葉を失う。 二年以上、聞く事のなかった、けれど忘れる事も出来ない声。 「…大和、先輩」 呆然としたようにその名を唇に載せ、しかしすぐに彼がここを訪れた意図を察して微かに唇の端を持ち上げた。 「お久しぶりです」 「少し、お話しても宜しいですか」 「どうぞ」 「手塚君の事です」 ほらみろ。 乾は内心で嗤う。途端、馬鹿馬鹿しくなってくる。 「手塚がどうかしましたか」 止まった手を再び動かそうとするがしかし疾うに気は逸れていて、乾は諦めてキィから手を放した。 「乾君は手塚君の体の痣について何か知っていますか」 「分かっているくせに、聞くんですか」 くすり、と微かに笑う気配がした。 「それもそうですね」 昔と変わらぬ、穏やかな笑い方に乾は微かに苛立ちを感じる。 この人は苦手だ。 失う怖さに怯えていた乾の手を取り、図らずとも道を示した。 大和祐大という男は柳蓮ニを失ってからの「乾貞治」の形成に大きく影響している。 乾はそれを余り考えたくない。 認めたくないわけではないのだ。 ただ、思い出したくない。 この身が張りぼてだと、思い出したくないのだ。 「欲しかったものは、手に入りましたか」 その問いかけに乾は苛立ちを嗤いに変換し、小首を傾げた。 「俺の傍らには手塚がいる。それが答えです」 光を失ったはずの眼の奥で、ちかりと何かが光った気がした。 手塚はその扉の前に立つたび、一層背筋が伸びる様な感覚に囚われる。 それは恐らく、この扉の向こうにいるであろう、この部屋の主の存在が原因だ。 否、そもそもここは学校であり、その学校が管理している一資料室に主など存在するはずも無いのだが、しかしこの空間にて作業に没頭する時の彼が纏うものはまさにそういう類のものだった。 そんな彼が自分の存在を認めた途端、ふと纏う空気を柔らかなものに変貌させる。 手塚は、その瞬間が好きだった。 「……」 すぅっと息を吸い込んで利き手を持ち上げる。 二度、軽くノックすると、扉越しに耳に心地よい低温が聞こえてきた。 静かに扉を横に滑らせ、その空間に足を踏み入れる。 ぴりりと頬に何故か痛みを感じた気がして、手塚は扉を後ろ手に閉めながらその先へと視線を向けた。 そこには、乾がいた。 乾、とその名を呼ぼうとして、けれど手塚はそれを飲み込んだ。 乾はいつもと同じ、大小様々な膨大な数の資料とそれを収めきれていない棚たちに守られるようにしてそこにいた。 それはいつもと変わらぬ風景のはずだった。 しかし確実にいつもとは違う空気が室内を満たしている。 「い、ぬい…?」 漸く搾り出すようにしてその名を呼ぶ。 いつもならそこで乾は柔らかく微笑み、手塚、とあの心地の良い声で手塚を迎え入れてくれるはずだった。 しかし、乾はただ無言で椅子に凭れ掛かっている。 「いぬ…」 「ねえ、手塚」 手塚の声を遮って乾の低音が室内に響いた途端、またあの痛みが頬に走った気がした。 思わずそこに指先を滑らせてみる。 しかし何もない。 そうしている内に乾はゆっくりと立ち上がり、漸く手塚へと顔を向けた。 「…っ…」 その瞳は相変わらず閉ざされたままだったけれど、まるで射抜かれたように手塚の体は強張り、そして先ほどから感じていた微電流のような痛みの正体を知った。 乾は、怒っている。 不機嫌だとか、拗ねている乾の姿は少ないながらもこれまでに何度も見てきた。 しかしそれとは明らかに違っている。 どうかしたのかと、たった一言すら口にすることが出来ない。 これ以上彼に近づけば、彼の発する怒気でこの身は切り裂かれるだろう。 それ程の苛烈とも言える、しかしその表情はいつもどおりの無表情で乾は手塚を見下ろしていた。 「聞いてる?手塚」 淡々とした声音にはっとする。 「ああ」 短い応えに、乾は「それならいいんだ」と唇の端だけを微かに持ち上げて笑みの形を象った。 しかし目元は笑っていない。 そうして口元だけの笑みを浮かべた乾はまるで子供に言い聞かせるように、ゆったりと丁寧に手塚に告げた。 「さっきね、大和先輩が来たよ」 部活を終え、身支度を整えた大石がテニスバッグを提げて部室を出ると、こちらに向かって歩いてくる大和の姿を見つけた。 大和は大石の姿に気づくと、ちょいちょいと手でこちらに来るよう示した。 大石はそれに小さく頷くと、傍らにいた不二に一言謝ってその場を駆け出す。 「……」 その後姿とその先で相変わらずの薄い笑みを浮かべている大和の姿を、不二はその形の良い柳眉を歪めて見送った。 「大和先輩!」 駆け寄ると、彼は軽く片手を上げて挨拶とした。 「やあ。早速ですが乾君の所に行って来ましたよ」 もうですか、の言葉は何とか飲み込んだ。 この人は一見のんびりしている様に見えるが、仕事は早いのだ。 「それで、どうでしたか」 「そうですねえ…」 大石は大和の事は奇特な人だとは思えど尊敬の念も抱いていた。 それはきっと乾とて同じだと思う。 だからこそ、その大和の問いならば例え手塚が乾に何か口止めをしていたとしても何かしら収穫があるだろうと期待していた。 しかし、大和の口から出たのは予想外のものだった。 「問題は解明されましたが解決はされませんでした」 「え?」 大石が思わず首を傾げるが、しかし大和はお構いなしに言葉を続けていく。 「そしてそれは私が介入していいことではありません」 「はあ」 「だから放置してきました」 「はあ?」 昔からそうだが、たまにこの人の言うことが理解できなくなる。 「ええと、大和先輩は、乾から何か聞き出せたんですね?でも大和先輩ではどうしようもなかった、とそういうことですか?」 何とか自分なりに噛み砕いて聞き返せば、大和はそうですねえと無精髭を指先でこすりながらあらぬ方向を見た。 「どちらかといえば、傷を抉っただけなのかもしれません」 またわけがわからない。 「手塚の、ですか?」 傷、と言われて咄嗟に浮かんだのは手塚の体に散ったあの無数の痣だった。 しかし大和はそれをあっさりと否定した。 「いいえ、乾君です」 「乾の?」 ますます分からない。 正直な話、この人と話していると自分の使っている言語とこの人の使っている言語が本当に同じなのだろうかとすら思う時がある。 しかし大和は大石のそんな複雑な心境を知ってか知らずか、のんびりとした声で「うーん」と茜色の空を見上げた。 「そうですね、それがいい」 「はあ」 何がそうでそれなのかさっぱりだったが、この人の思考を理解することは多分無理だろうことを察している大石はもう曖昧に頷くだけだった。 「大石君」 「はい」 「手塚君はもう帰りましたか?」 「はい、多分乾を迎えに行ったんだと思います」 そうですか、とだけ返して彼はまた何やら考え込んでしまった。 大石が忍耐強くそれを見守っていると、やがて大和は顎を弄っていた手を下ろし、腕を組んで大石を見た。 「知りたいのであれば手塚君を追いなさい」 「え?」 「ただしその答えが君の意に沿わないからと、理解そして許容できないからといって否定してはいけません。彼らとて、そうなりたかったわけではないのです。けれどそうすることでしか保てないでいるのです」 「?はあ」 先ほどまでは何とか理解できていた大和の言葉も、ここに到ってさっぱり分からなくなっていた。 けれど大和が大切な事を言っているのだということは何となく理解できた。 彼は相変わらず胡散臭い笑みを浮かべていたけれど、しかしサングラス越しのその目は、何処か憂いを帯びていたから。 「…はい」 だから、例え今は理解できなくともきっと答えが見つかった時にその言葉の意味も分かるのだろう。 すると大和は満足そうに笑って頷いた。 「さあ、行きなさい」 「ありがとうございました!」 大石は大和に一礼してその場を駆け出した。 「…さて」 その後姿が見えなくなると、大和は木陰に視線をやる。 「キミは行かないのですか?」 かさりと枯葉を踏み分けて太い幹の影から現れたのは不二だった。 「…僕は、貴方が嫌いです」 大和は一瞬きょとんとしたが、しかしすぐにいつもの笑みを浮かべて頷いた。 「そうでしょうね」 「……」 不二は数秒の間、じっと大和を睨む様に見ていたが、しかし不意に視線を逸らして歩き出した。 「…さようなら、大和先輩」 先ほどまでの険を含んだ視線など無かったかのようないつもどおりの柔和な笑みを浮かべ、不二は大和の傍らを過ぎていく。 その足は、校舎へと向かった大石とは別方向、校門へと向かっていた。 |