浅瀬を歩む君の滑らかな脚

第零話「博士を象るアルケー」



大切な人を失いました。

それは、ある日突然のことでした。


永遠を信じていたわけではありません。
しかし、近しい未来ならばそこにも彼の姿はあるのだと信じていたのです。
ですが彼は私の元を去りました。

私は何も知りませんでした。

どうして他人から知らされなくてはならなかったのでしょう。
彼と一番近い場所に居たのは私だったはずなのに。
それともそれは私一人の思い込みだったのでしょうか。
彼に捨てられた、と思ったことと同じ様に。
それは私一人の思い込みだったのでしょうか。

だとしても、私が彼に一番近しいと信じていたことは事実であり。
彼の不在を漸く理解した私が彼に捨てられたと感じたことも事実でした。

彼は私を形作る心の欠片の一つでした。
そしてその欠片が私の心の中心だったのだと気付いたのは、彼が私の前から姿を消して、実に一年の月日が流れてからのことでした。

全ての感情を支えていた柱を失った私の心はその時既に歪んでいました。
しかし、私自身はそれを奇異だと思うことはありませんでした。
ただただ、その空白が奇妙な冷静さを齎し、虚しいほどの穏やかさを齎し。
私は衝動に突き動かされるがままに白紙を文字で埋めていくのでした。
彼が教えてくれたように。
彼の影に操られるように。

私はただ、知りたかったのです。
それこそが私を象る、




乾はポケットから携帯電話を取り出すと、手馴れた手つきで目的のアドレスを引き出して通話ボタンを押した。
「…やあ。今いいかい」
数回のコールの後、不機嫌そうな声が回線越しに聞こえてきたが乾は構わず続けた。
「まだ会場付近にいるかい?…ああ、それは丁度よかった。これからそっちに行ってもいいかな……うん、ありがとう。……ああ、いいさ。手塚には大石がついてる」
短い沈黙の後、乾は微かに笑った。
「手塚の肩なら大丈夫だよ」
しかし相手はそうじゃない、と返す。
お前の事だ、と。
「まだ、大丈夫だよ。でも…そうだね、もしかしたら手塚は駄目かもしれない」
新しいのを探さないと、と呟かれたそれに回線の向こうで数秒の沈黙が落ちる。
「残された時間も少ないことだし」
そうだな、とだけ返ってきた応えに乾は微笑さえ浮かべて頷いた。
「でも、もう次の目星はつけてあるんだ」
僅かに喜色を滲ませてそう告げると、ウチのヤツらじゃねえだろうな、と訝しげな声が返ってくる。
「さすがにお前のいる氷帝には手を出さないよ」
今度はね、と乾はもったいぶる様に一呼吸おいて告げた。
「立海大附属中」








第一話:「乾貞治と手塚国光」


「好きだよ」
微笑むわけでもなく思いつめたわけでもなく、ただその身に他の者へとは異なるものを纏い、乾は手塚にそう告げた。
「好きだよ」
それは愛を語らうと言えるようなそんなものではなく、ようやく幼子としての時期を越えたばかりのひたすら純粋な子供のそれであった。
友の一言で済むほど容易くも無く、恋人と呼べるほど難しくも無い。
陸を歩くでもなく、ならば海を泳ぐようかと言われればそうでもなく。
まるで、日差しで僅かに微温った、それでいてひんやりとした心地良い川の浅瀬を歩くような。
たとえるなら二人は、乾貞治と手塚国光は、そんな関係だった。
乾が手塚の肉体を求めることはなかった。
乾にとってそういった行為は必要不可欠なものではなく、求められない限りはする必要のないことのように思えた。
ただ唇で彼のきめ細かな肌に触れる事は好み、時折思い出したように口付けを交わすことはあった。
それは次の行為を促すものではなく、言葉を交わす事と同じくらい、何でもないことであり、自然なものだった。

声をかけたのは乾からだった。
同じテニス部で、一年でありながら二、三年を凌ぐ実力を持った者同士の親近感からだったのだろうか。今となってはどうでもよいことだったが、気付けば手塚の隣に乾がいるのは彼ら自身だけでなく、周りからもそれがあたり前の光景と認識していた。
しかし二年生へと進級し、しばらくすると部活以外で乾と手塚が顔を合わせる機会は格段に減った。
それでも、昼食を共にすることは絶やされること無く続いていた。
ただ去年までと違うのは、乾の隣には二人の共通の友である不二周助の弟、裕太の姿があるということだった。
乾は今まで手塚と過ごしていた時間のほとんどを裕太との時間へと変えていた。
テニス部へ入部しようとしない彼を説得するためか、それとも乾が個人的に彼に興味を抱いたのか。
それは判別しかねたが、だからと嫉妬の念を揺らめかすような関係でもない手塚がそれを乾に問うようなことはできなかった。
ただ、傍らに在るのがあたり前となっていた乾の不在が、手塚の心に微かな寂寥を齎した。




第二話:「乾貞治と不二裕太」


裕太は現状が不満だった。
テニスをやりたいとは思う。けれど、そこには常に兄の影が付きまとった。
不二周助の弟。
それが裕太への回りの評価だった。
そんな視線がわずらわしく、また兄を超えることのできない自分への苛立ちとなって彼を苛んだ。
苛められるのが嫌で不登校になる子供のように、不二周助の弟と扱われるのが嫌で裕太は毎日が憂鬱だった。
そんな中でも、裕太には己の足取りを軽くする存在があった。
それが二年の乾貞治だった。
春の終わり、テニスコートからは幾ばか離れた場所から練習風景を眺めていた裕太の背に声が掛かった。
君は入らないのかい、と。
逆光の所為で向こう側の見えない眼鏡。一年生ではないだろう、中学生にしては高い身長。そして背負ったテニスバッグから彼がテニス部員である事を示していた。
否、と彼の問いを返すと今度は何故、と問われる。
それに答えないでいると彼は裕太の名を当てた。
不二から聞いているよとその言葉に兄の差し金かと邪推し、彼への視線を強めた。その視線を平然と受け止めながら乾はほんの微かに首を傾げた。
「何故ここに居るんだい」
乾の言葉に裕太の目が見開かれる。比較されるのが嫌なら始めから兄と同じ所へ来るべきではない。本当に嫌なら、少しでも兄から遠ざかりたいのなら他の学校へ行けば良い。
まるで、兄離れの出来ない子供の様な謂れに裕太は唇を噛み締めた。それを真っ向から否定出来ない自分への嫌悪感が沸き上がってくる。
「柿ノ坂にテニススクールがある」
彼は徐に小脇に抱えたノートを開き、何やら書き込むとそのページを破って裕太に差し出した。そこには柿ノ坂のテニススクールへの行き方と簡易地図が記されていた。
それを困惑気味に受け取って見上げると、彼はそれじゃあ、とさっさとテニスコートへと向かっていってしまった。
彼は裕太にどうしろとは言わなかった。
どうするかは自分次第。
彼は裕太が見えていなかった足元の選択肢を照らしただけ。
「………」
裕太はそれを四つ折りにし、胸ポケットの中へと押し込んだ。
そういえば、名前すら聞いていなかった事を今更ながら気付いた。




第三話:「手塚国光」


乾と自分の距離が広がった気がする。
最近よくそう思うようになったと手塚は苦笑する。
視線の先には乾の隣で昼食を摂る不二裕太の姿があった。最近の乾は裕太に掛かりきりだ。
裕太はテニス部員ではない。だが、乾の勧めでテニススクールに通っているらしい。最近、乾の帰る方向が違うのは裕太の様子を見るためにスクールまで出向いるから
らしかった。
乾自身、青学テニス部の次代を担う一角としての実力はあるのだが、どちらかというと彼は育てる方が性に合っている様だった。
裕太を構っている時の乾は、付き合いの深い手塚辺りにしか分からない程度ではあったが本当に楽しそうだった。
そう、自分と居る時より。
だが、それは仕方ないと思う。自慢するつもりではないが、自分は誰かに指導を受けなくとも自分で自分の力を高めて行く事が出来るタイプだと思っている。
コート内での乾と手塚は好敵手であり、彼と裕太の様なものではない。
ふと、思った。
『良き仲間であり、好敵手』
では、コートの外ではどうなのだろうか。
手塚自身、友か、と問われれば即答できない。ならば親友かと言えばどうもそれも違うような気がする。
…不意に、不安になった。
付き合いを友か他人かなどとカテゴライズするのは下らないと分かっている。
だが、乾はどうだろう。
「手塚」
当の乾に呼ばれ、はっとした。何だと問えばそれはこちらのセリフだと苦笑された。
「さっきから裕太君を睨んでいたぞ」
乾に指摘されて裕太へ視線をやれば、彼は途惑った表情で何か非礼を働いてしまったのかと問うて来る。
「いや・・・そういうわけではない。ただ…」
「ただ?」
暫しの沈黙の後、手塚は乾に向き直った。
「…お前にとって俺は友か?」
「手塚?」
乾が小首を傾げる。手塚がそんなことを言い出すとは思っても見なかったのだろう。裕太に至っては目を真ん丸に見開いている。
「…いや、すまない」
手塚は己の台詞が恥かしくなり、ふいっと視線を逸らした。
「忘れてくれ」
「手塚」
視線を上げようとしない手塚に乾は小さく息を付き、己の重量のある眼鏡を外す。
かちりと眼鏡の柄が畳まれる音に手塚は視線を上げ、息を飲んだ。
そう言えば、彼の素顔を見たのはあの日以来だった。
あの時も乾は眼鏡を外していた。そして。
「好きだよ」
目の前の乾はそう言って手塚を見つめる。
そう、あの時と同じように。
微笑むわけでもなく、思いつめたわけでもなく、ただその身に他の者へとは異なる纏い…乾はそう告げる。
ああ、この眼差しだ。身震いしそうなほどのそれ。
友情でも恋情でもなく、ひたすら純粋な「愛情」。
ただそれだけで手塚の中に在った不安は霧散する。
だが、それは新たな不安を呼び起こすものでしかなかった。
その心地良い暖かさの中、時折感じるひんやりとした冷たさ。
「そうか」
そう短く返して手塚は箸を置き、空になった弁当を片付けながらふと思った。
「乾さんの眼鏡外したトコ、初めて見ました」
考え込む手塚を尻目に裕太が上擦った声を上げる。
それを眺めながら、手塚は脳裏を巡ったそれを頭の中で反芻して視線を乾だけへと移した。
危険だと、思った。
もし、本当にそれが乾の本質ならば…危険だと、思う。
乾自身はそれに気付いているのだろうか。
「手塚、そろそろ教室へ戻ろうか」
「…ああ」
乾の声に軽く頷き、立ち上った。




第四話:「不二裕太」


「好きだよ」
乾さんがそう言った時、不覚にも俺の鼓動は高鳴った。
初めて見た素顔。そして。
別に乾さんは微笑んでいたわけでもなかったのに、それはとても暖かくて、優しかった。
凄いと、キレイだと、思った。
一般的に言う綺麗と称されるモノではなく、「好きだよ」とたったその四つの音が全てを現わしている様で、それがどうしようもなくキレイだと、思った。
…同時に、苛立った。
乾さんのその眼差しは手塚先輩、ただ一人に注がれていて。
乾さんと手塚先輩は仲が良い。
どういう経緯で知り合い、信頼し合えるようになったのかは聞いた事はない。きっとテニスから始まったんだろうとは思うけれど。
ただ、二人ともあまり感情を表に出さない所為か、一見ではわからないけれどよく見ていると他のクラスメートたちとは接し方が僅かに違う。
だから仕方ないと思っている。
けれど、それでも、その視線を俺に向けて欲しいと思った。
「乾さんの眼鏡外したトコ、初めて見ました」
何だか入り込めないその雰囲気が嫌で、そう声をかける。
「普段は外すことは無いからね」
乾さんはそう言ってまた眼鏡を掛けてしまった。
そしていつもの真意の汲み取れない彼に戻る。
目は、何より感情を物語るのだと姉貴から聞いたことがある。だから、本当に伝えたい事はちゃんと視線を合わせ、自分の目の…心の色を相手に見せなさいと。
もしかして、乾さんはあの分厚い眼鏡を掛けることで自分の感情を見えない様にしているんじゃないだろうかと思った。
元々表情が小さい乾さんなら目元さえ隠してしまえば、他人が乾さんの感情の揺れを悟ることは出来ないだろう。
だからと言って、どうしてそんなことをするのかは分からないけれど。
そして、その素顔を曝す事が出来るのは……
「手塚、そろそろ教室へ戻ろうか」
手塚先輩を、凄く、羨ましいと思った。




第五話:「不二周助」


最近の裕太は機嫌が良い。
僕への態度は相変わらずだったけど、比較的仲の良い由美子姉さんには色々と話すようになっていた。
『乾さんのテニスはさ、』
専ら、乾の事だったけれど。
僕がいると裕太はむすっとして話さなくなってしまうから、隣の部屋でこっそり盗み聞き。
あんなに楽しそうな裕太の声を聞くのは久しぶりだった。きっと表情も凄く活き活きとしているんだろうね。僕に見せてくれることはないだろうけど。
それにしても乾に懐くなんて意外も良い所だよ。テニススクールに通うようになったのも乾の進言だって言うじゃないか。
乾も乾だよね。この僕に何も言わないなんて良い度胸してるよね。あ、元からか。
『でも、今日、さ……』
不意に裕太の声のトーンが下がり、聞き取れなくなる。
こんな時は集音機を使おう。結構前に玩具屋で面白そうだったから買ったんだけど(税込み525円だったし)案外使えるんだよね、コレ。
集音機を壁に当て、そこから伸びているフォンを耳に嵌めてスイッチをオンにする。
ザーッという不快音と共に裕太の声が聞えて来た。
――…づかさんが乾さんに、乾さんにとって自分は友達なのかって聞いて……
聞えてきた内容に少なからず驚いた。あの手塚がそんな事を言うなんてね。
――そしたら、乾さん、「好きだよ」って……
乾、それ答えになって無い気がするんだけど。
――その時の乾さん、凄く、優しい感じで…手塚さんは、特別なんだって思い知らされたっつーか…凄く、手塚さんが羨ましかった……
手塚と乾ってそういう関係だったっけ?確かに仲は良い方だとは思ってたけど……さっそく明日にでも問い詰めてみようっと。
それにしても裕太、ちょっと乾に懐き過ぎ、かな?




第六話:「乾貞治と不二周助」


今日はテストが近いこともあり、部活はいつもの半分程度の練習時間で終わった。
「手塚、行こう」
「ああ」
着替え終わった乾と手塚は三年や他の部員たちと軽い挨拶を交わして部室を出る。
「今日は?」
「裕太君とスクールまで行って来るよ」
昨日、何かの会話のはずみで部活が早く終わると告げたところ、裕太が指導してほしいと申し出てきた。これを断る理由を持たない乾はその場で承諾したのだ。多分そろそろ校門に裕太が待っているだろう。
「あれ?不二、どうかしたのかい?」
門へと向かう途中、先に帰ったとばかり思っていた不二が二人を待ち受けていた。
「ちょっと良いかな」
乾に歩み寄り、ちらりと手塚に視線を送る。
「………」
視線の意味を察した手塚は、幾ばか乾と言葉を交わしてその場を立ち去っていった。
「乾と手塚ってさ、付き合ってるの?」
「は?」
乾がきょとんとした声をあげる。その反応に不二もあれ?と小首を傾げる。
「違うの?」
「俺と手塚はそんな仲じゃないけど?」
どうやら嘘を吐いている雰囲気では無い。
「へえ…じゃあ、質問を変えるよ。僕や大石のことは好き?」
「好きだけど」
「手塚への「好き」と僕らへの「好き」は同じ?」
「?」
その質問の意図が掴めず、乾は眉を顰めた。
だが不二はそれに構うこと無く質問を続ける。
「ねえ乾、なら裕太と手塚ではどう?」
「…それは…?」
乾が言い淀んでいると、不二の顔から笑みが消える。
珍しく真剣な面持ちをした不二に、乾はこれまでの質問が冗談に近く、ここからの話が彼にとって重要な事であることを察する。
「乾、誰かに恋をしたことはある?」
「…突然だな」
何を問われるのかと内心身構えていただけに、質問されたその内容に乾は首を傾げた。
「よくないと思うんだ。君のその愛情は。隔てが無さ過ぎる。確かに手塚や裕太には必要な感情かもしれない。でも、やっぱり危険だよ」
それは密やかに与えられた者の心に棲み、その愛情を向けられないと不安になる。
そしてその存在を知ってしまった裕太も、それを己に向けて欲しいと願うようになった。
「裕太が手塚をどう思ってるか、知ってる?」
尊敬の陰に時折覗く嫉妬と羨望。
「乾がそうやって優しくするから勘違いされるんだよ」
「人を誑しみたいに言うなよ」
「誑しの方がマシだよ。君が優しくなるのは誰にでも、ってわけじゃない」
手塚はその整った容姿と才気溢れる実力から他から一線置かれ、手塚自身、その性分から他と一線を置いてきた。
裕太は兄を超え、自分の存在を認めさせる事に躍起になり、人との交流よりテニスに打ち込んだ。
まだ子供と称される彼らは孤独に慣れることはできても、孤独を消す事は術を知らない。
乾のその他意の無い情は、彼等の心が何より欲しているものであり。
「普通の猫より捨て猫の方が懐きが早いのと一緒だよ」
孤独を抱えた存在は暖かさに弱い。
押し付けがましい熱さでもなく、突き放されるような冷たさでも無い、ぬるま湯の暖かさに。
「どうやら手塚は自覚しているみたいだけど、裕太は違う。このままだと君に依存してしまうだろうね」
「それで、俺にどうして欲しいんだい」
相変わらずの無表情の乾に、分かってるくせに、と不二は笑った。
「裕太を突き放して欲しいんだ」




第七話:「乾貞治から不二裕太へ」


「裕太を突き放して欲しいんだ」
その言葉を聞いてしまったのは、偶然といった方が正しいのだろう。

乾と話している最中、何かの弾みで部活が早く終わると彼が告げた。その時裕太は咄嗟に今日の約束を取り付けていたのだ。
テスト前だったし勉強をしたかったのでは、と後悔に陥ったりもしたが、それでも乾が自分を優先してくれた事への嬉しさの方が勝っていた。
指定された時間より少し早めに校門へと向かう。
これでは初デートへ望む女子のようだと自分を叱咤しつつも、それでも嬉しいと思う気持ちに揺られながら門に背を預けた。
「あっ」
すっと目の前を見知った姿が通り過ぎた。
「……」
裕太の声に気付いたのか、手塚はちらりとこちらへ視線を向けると軽い会釈をして去っていく。裕太も慌てて会釈を返してから手塚の立ち去った方向とは反対側の、部室のある方へ視線を向けた。
手塚が帰ったという事は乾も部室を出たのだろう。ここからなら行き違いになる事も無い。
裕太はそう思い、校門から身を起こすと滅多に近寄らなかったテニス部の部室へと向かった。
(げっ!兄貴と一緒かよ)
遠目にその後姿を見つけた裕太は、乾の傍らに兄・周助の姿がある事に気付き、足を止めた。
そして、耳に飛び込んで来た兄の台詞。

ユウタヲツキハナシテホシインダ。

「…んだよそれ!」
「裕太?!」
怒気の篭った裕太の声に二人は背後を振り返る。そこには目を鋭く怒りに染めた裕太が不二を睨んでいた。
「裕太、いつからそこに…」
「そんな事どうだって良いだろ!それよりどういう事だよ!!」

「裕太」

「っ!」
静かな、いつもと変わらない乾の声がいつもとは違う呼び方をする。裕太はそれにびくりとして口を噤んだ。
「道中話すよ。行こうか」
きっと不二が説明しても、今の裕太には冷静にその内容を処理できないだろう。となればバス停までの時間で彼の熱を冷まし、それから説明をしてやれば良い。
乾は不二へ目配せをすると裕太の腕を取った。
「でもっ…!」
乾に引かれながらも彼と兄を交互に見る。すると不二は乾に一任する事にしたらしく、いつもの笑みを浮かべ、二人に軽く手を降っていた。




第八話:「不二裕太から乾貞治へ」


「依存なんて…!」
きりっと裕太は唇を噛み締める。依存などしていないと言い切れなかった時点で、裕太自身にも思う所があるのだと分かる。だが、それでも乾はそうだね、と裕太を肯定した。
「それで…」
裕太は口篭もった。
一番、聞きたいこと。
だからこそ、聞くのが怖い。
「乾さんは…」

乾サンハ、オレヲ突キ放スンデスカ?

一人で大丈夫だと思っていた。
けれど、年なんてたった一つしか違わない筈の、この「乾貞治」という存在に出会って、自分は大きく変わった。
この人の元で強くなりたいと願うようになった。
いつか、兄を負かす事ができた時は一番に祝って欲しいと。
そして、そう思える人を見つけれた事を誇らしく思う自分がいることにも気付いていた。

一人に戻りたくない。

これが依存なのだろうか。
この人の指導力や、人柄への信頼ではなく、自分の甘さからの依存なのだろうか。
問い掛けてしまえば、依存していると突き放されてしまうかもしれない。
「……乾さんは、オレを…」
「裕太君」
はっとして顔を上げるが、乾は前を見据えたままだった。
「乾…さん…?」
じっと次の言葉を待つと、「俺はね、」と相変わらずいつもと変わらないその声音が降ってくる。
「俺を必要としてくれる限りは見捨てたりはしないよ」
そう言って乾は裕太を見下ろしてきた。
「え……」
裕太は戸惑った。それは、遥かに優れた兄の忠告より、自分の願いを優先してくれると言うのだろうか。
「俺は、必要かい?」
きっと、そう言われた時の俺は酷く間の抜けた顔をしていたんだと思う。
「…っ…」
けど、そんな事どうでも良くなるくらい、溢れる温かさ。
「はい!」
この人に出会えて、本当に良かった。




第九話:「観月はじめ」


それから幾度となくスクールへ通った。勿論、乾は部活が早く終わる日や休みの日のみだったが。
彼はスクールへ行っても専ら指示を出したり、データを纏めたりしており、秋を迎える頃には彼はスクールのコーチたちと意見を交し合うほどこのスクールに馴染んでいた。

今日とてそうだ。部活が休みだからと彼もスクールへと来ていた。しかし乾は他のコーチとの話があるからとまだロビーに居る。裕太は先にコートへ入るとすっかり馴染みとなったコーチに声をかけ、軽く打ち合うことにした。

「ねえ君」

すると、一息ついた所で見知らぬ少年達に声を掛けられた。
「仲間が一人急に来れなくなってしまってね」
声をかけてきたのは三人のうち真中に立った少年だった。
「良かったら相手をしてくれないかな」
年上だろうか。大人びた、と言うよりは高慢な感のある少年は少し癖の入った己の髪を弄りながらそう声をかけてきた。
「喜んで」
断る理由を持たない裕太が快く申し出を受け入れると、コーチの男が「良いねえ」と横槍を入れて来る。
「こいつ、結構ウマイんだよ。ほら、あの不二周助の弟君」
「コーチ!!」
弟と言われ、つい声を荒げてしまった。だが、彼らはそれに驚いたりはしなかった。
「ああ、そうですか。そんなコトより君のライジングショット、凄いね。ビックリしたよ」
「え…」
裕太は驚きに目を見開いた。
大抵の者は「不二周助」の名に跳びついてくる。だが、この三人にはそんなこと全く気にした様子は見られない。寧ろどうでも良さそうだった。
「じゃあ、一セットお手合わせ願いますよ」
リーダー格であろう観月と名乗った少年と打ち合うことになり、裕太はよろしくお願いします、と小さく会釈を返した。


乾がやってくる頃には、裕太は三人から談笑混じりにルドルフの事を聞いていた。
「おや?」
近寄ってきた乾に先に気付いたのは観月だった。
「あ、もう良いんですか?」
「ああ。待たせてすまない」
それで、と乾の視線が観月たちに注がれ、裕太は慌てて三人を紹介した。
「あ、この人達は聖ルドルフの木更津さんと柳沢さんと…」
「観月はじめ君だね」
「え?!」
言葉尻を取られ、裕太はきょとんとする。
だが、観月のほうも乾を知っているらしかった。
「覚えていてくれたんですね」
「よく覚えているよ」
乾の返答に、観月は何故か誇らしげに笑った。
「それはそれは。光栄ですね」
「あの…」
話しの見えない裕太が控えめに声をかけると乾は裕太に向き直る。
「ああ、すまない。観月君とは小学校が同じだったんだよ」
「え!!」
心底驚いた声を上げると観月が可笑しそうに笑った。
「同じとはいえ、クラスが同じになったことは一度もありませんでしたけどね」
「それにしても、君は実家の山形に帰ったと聞いていたけれど?」
「ええ。ですが来月からルドルフへ編入する為に舞い戻ってきたんですよ。全国を目指すために」
挑発的なそれに、乾は「そう」と短く、だがどこか楽しそうにそう応じた。
「それじゃあ、僕たちはこれで失礼しますよ。裕太君、先ほどの話、考えておいて下さい」
乾を煽るかの様に、微かに声高にそう告げて観月たちはコートを出ていった。
「……あの……」
三人の姿が見えなくなってから裕太は乾を見上げた。
「ルドルフに誘われたのかい?」
「はい……」
ルドルフに惹かれているのは紛れも無い事実。
あそこなら、「不二周助の弟」という柵から逃れられそうな気がする。
だが。
「俺……」
ルドルフへの転校。
それは、乾と離れる事を意味する。

離れたくない。

「……っ……」
そう思ってぎくりとした。
そうか、これが依存なのか。

気付いてしまった。
本当はもっと早く見つめなければならなかった、恐れていたそれ。
「…そのことについてはゆっくりと考えれば良い」
「はい」
小さく頷くと、くしゃりと頭を撫でられる。それは裕太を慰め、勇気付けてくれているようでとても温かい。
そのくすぐったさに、裕太は小さく首を竦めて笑った。




第十話「さよならは永遠(とわ)の別れでなく」


それは、秋の暮れの事だった。
「乾さん」
聞き知った声に振り返ると、フェンスの向こうで裕太が自分を呼んでいた。
「裕太君?珍しいね。君がコートへ来るなんて」
いつもは兄の存在が一番強いここへ、裕太が近付く事はなかったというのに。
「あの…部活が終わったら……少し、良いですか?」
「うん、良いよ」
乾の返答にほっとした裕太は待ち合わせ場所を告げ、やはりこの場に長居はしたくないのだろう、足早にその場を立ち去った。
その後姿を見送り、コートへと視線を戻す。
何となく不二と視線がかち合った。
一瞬、不二は何か言いたげな色を浮かべたが、次の瞬間にはいつもの笑顔にかき消されてしまう。
「……なに?乾」
「いや、別に」
何となく居心地が悪く感じて、乾は手塚の元へと向かった。



「待たせたね」
部活が終わり、着替えも終えた乾が図書館へと赴くと、そこには裕太しか居なかった。
扉の開かれる音で乾の訪問に気付いた裕太は開いていたテニス雑誌から視線を上げ、いえ、と小さく笑った。
「司書も居ないなんて珍しいね」
「職員会議らしいです。さっきまで図書委員が居たんすけど放送で呼び出されて…」
「そう」
乾は裕太の向かいに腰掛けると「それで、」と切り出した。
「話って何だい?」
「……俺、ルドルフへ行きます」
裕太の決断に、乾は暫く沈黙した後「うん」と小さく頷いた。
「俺もそうする方が良いと思うよ」
「もう、手続きも済ませてきました。来週から、寮へ入ります」
同時に、聖ルドルフのテニス部員となる。

この人と、敵対する。

いつか、この人と戦いたいと思っていた。
こんな形になるなどとは思ってもみなかったけれど。
本当は、まだ離れたく無いと思っている。
それこそが依存なのだと気付いた今尚、離れるのが辛いと感じる。
「在り来たりな事しか言えなくて悪いけど、頑張って」
「ありがとう、ございます……」
無理に笑おうとし、それは失敗に終わる。
この人には快く送り出して欲しかった。
現に、この人はこうやって送り出してくれているではないか。

けれど、本当は。

「裕太君の選んだ道だ。俺は止めないよ」

引き止めて、欲しかった。
傍に居てくれと、言って欲しかった。

何故、こんなにもそれを願ってしまうのかは分からなかったけれど、そう願わずにはいられなかった。
もし、これが自分ではなく手塚だったらどうだったのだろう。
同じように、笑って見送っただろうか。
それとも。
「今まで、ありがとうございました」
席を立ち、頭を下げる。気にしないでいいよと微かに笑う乾に、それじゃあ失礼しますともう一度礼をして裕太はその場を立ち去った。

乾が追いかけてくる事は、無かった。



「おかえり、裕太」
一足早く帰宅していた周助が彼の足音に気付いて部屋を訪れた。
「何だよ」
入って来るなり裕太の顔を見て微かに笑った兄をきつく睨む。
「泣きそうな顔、してるよ」
「っ!」
裕太は咄嗟に顔を背けた。周助はそんな裕太に近寄ると、その隣に座り込む。
「乾に引き止めて欲しかった?」
「………」
「手塚だったら、とか思ったんでしょ」
何も答えない裕太に、周助は苦笑いを浮かべるとそっとその体を抱き寄せた。
「なにすっ…」
「泣いて良いんだよ」
哀しかったら、泣いて良いんだよ。
「………ぁ……」
まるでその言葉が涙腺の鍵だった様に、裕太の目尻から一筋の涙が零れ落ちる。
「……っ……」
そうなってしまえば、後はなし崩しに涙は溢れた。
「……裕太は、乾の事が本当に好きだったんだね」
労わるようなその言葉に、裕太は兄の服をきつく握り締める。
兄の言葉で、漸く気付いた。
「…ぃさん…っ……」

好きだった。

尊敬だけからでもなく、依存からでもなく。
ただ、好きだった。


俺はあの人に、恋をしてたんだ。






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