浅瀬を歩む君の滑らかな脚
| 第十一話「乾貞治の告白」 「忘れ物、無い?書類は?」 「持った」 正式に青学を辞めた翌日の夕方、裕太は家を出た。 「週末くらいは、帰ってきなさいよ?」 姉の言葉に裕太は生返事を返す。 「いってらっしゃい、裕太」 いつもの様ににっこりと笑う兄に、昨日の事もあって気恥ずかしい思いをしながら小さく「行って来マス」。 外まで見送ろうとする二人を恥かしいからやめてくれと押し留め、裕太は道路へ出る。 「……ふぅ…」 自宅から見えなくなる辺りまで来て、漸く裕太は肩の力を抜いた。 「あ」 自分の行く先によく知った姿があった。 「乾さん……」 学校の帰りなのだろう。制服姿でいつもの鞄を背負っている。 「……」 裕太は何を言って良いのか分からず、止まっていた足を再び前へと動かす。 そのまま通り過ぎようとした時、乾の手が裕太の髪をくしゃりと撫でた。 「!」 その温もりに足を止めそうになる。 だが、髪に残るその温もりは一瞬にして風に奪われてしまった。 背後では、遠ざかる乾の足音。 振り返り、呼び止める事ができたらどれだけ。 「……」 それでも前へと進んだ。 振り返る事無くその場を立ち去る。 残るのは、秋の終わりと冬の訪れを感じさせる、冷たい大気のみ。 あの温もりに、さようなら。 辺りは既に薄暗い。校内に残っている生徒も数えるほどだ。 そんな中、男子テニス部の部室には未だ明りが灯っていた。 「こっちは終わったよ。そっちは?」 「もう終わる」 手塚の応えに乾は机上に散乱したプリントをかき集める。 「じゃあこっちは片付けておくよ」 一枚一枚を確認しながら順に並べて行く。 秋の暮れ、三年が正式に引退した。 そして当然の様に部長の座に据えられた手塚は、ただ自分のためにテニスをやっていた今までの様には行かなくなった。 全員の実力を把握し、見合ったメニューを組まなければならない。更には今までのメニューも考慮に入れるなど、やる事だらけだった。 「…いつも付き合せてしまってすまない」 同じく作業を終えた手塚がファイルを閉じながらそうぽつりと漏らす。 乾はいつも遅くまで残っている手塚に付き合っていた。 乾の情報処理能力は高い。お陰で作業は各段と早まり、助かっている。だが、それは乾の時間を奪っているという事であり、それが罪悪感となって手塚を苛んだ。 「手塚、頼ることは悪いことじゃあない」 手塚の気質を知っている乾はそう言って苦笑する。 「だが……」 「俺が好きで手伝っているんだから、手塚は気にしなくて良いんだよ」 そう言って笑うと、まだすまなそうな色ではあったが、それでもほっとした様に手塚も苦笑した。 「それにしても、この二人…」 乾が名簿を差し出し、その名列の二箇所を指差す。 「ああ、海堂と桃城か。最近は更に力を付けて来ているな」 「今の所この二人かな。レギュラーとなり得そうなのは」 「そうだな……」 そこで不意に会話が途切れた。 「……」 明日の練習はどうするとか、このファイルがどうとか、お互い、まだ話したいことがあったはずだった。 けれど、訪れるのは沈黙ばかりで。 「…前に、ね」 先に口を開いたのは乾だった。 「不二に言われたんだ」 紡がれたのは、今話し合うべき部活の事ではなく、彼自身の事だった。だが、手塚にはそれは無駄に思えず、むしろ彼が自らのことを語ってくれる事が喜ばしかった。 乾が自分の事を話すのは珍しい。 彼に一番近しいといわれる手塚ですら、よく考えてみれば彼の事を何も知らない。 彼の趣味も、食の好みも、家族の事も。 趣味ならデータ収集だと誰もが口を揃えて答えるだろう。だが、それは彼自身がそうだと述べたのではなく、彼の行動からそうなのだと思われているだけで、実際、それが本当に彼の趣味であるかどうかは分からない。 菊丸ら好奇心旺盛な面々が何度か問い尋ねた事があったが、その都度乾は巧みに逸らかしていた。 だからと言って、聞かれたくないのかと問えば、そういうわけじゃあないけどね、と彼は笑う。 「面倒臭いだけだよ」 そう笑いながら彼は多くを語らなかった。 その乾が今、自らの事を語ろうとしている。 この自分に。 そう思うと、どこか誇らしく感じた。 「危険だと、言われたんだ」 「危険?」 「俺はね、手塚や裕太君に優しくし過ぎなんだって」 不二も気付いていたのかと、手塚は知らず視線を伏せる。 「俺の優しさは相手を依存させてしまうとさ。だから裕太君から離れるように言われてたんだけど、俺はそれを受け入れなかった」 そんな事、言われるまでも無く疾うに知っていた。乾は淡々と告げる。 「裕太君の意見を尊重した、と言えば聞こえは良いけど、本当は全て自分のためだったんだよ」 「自分の?」 そう、と彼は自嘲げに小さく笑った。 「なあ手塚、手塚は裕太君が俺に依存していると思ったかい?」 「……ああ」 「なら、俺は?」 問われた意図が掴めず、眉を寄せる。 「俺が裕太君に依存していると感じたことは?」 「は?」 我ながら、間の抜けた声を上げてしまったと手塚は思う。 「裕太君が必要だった。だから俺から離れて行かないよう、俺に依存するよう仕向けた」 手塚が乾の言葉を理解するに数秒の時間を要した。 「…わざと…?」 何故か、息苦しい。 乾がそれを肯定すると同時に、それは増してゆく。 「そう。裕太君の望みを優先したのは、その方が俺にとっても都合が良かったからだ」 「彼が、必要だったからか?」 「…いや、正確には違う、な。俺は、俺を必要としてくれる相手なら誰だって良かった」 誰より依存していたのは自分だと乾は告げる。 「俺は周りから思われるほど出来ちゃいない」 いつも手塚たちが見ていた余裕綽々な彼は微塵も無い。 「裕太君には悪いことをした」 最初は、他へ転校するべきだと勧めるつもりだった。 それが彼にとって最良の方法であり、その才能を伸ばすことができると乾自身、確信を得ていた。 ――乾さん! だが、自分に懐き、自分を必要としてくれ、その信頼を寄せられるうちに手放すのが怖くなった。 孤独を抱えた存在は暖かいものに弱い。 そう言ったのは不二だったろうか。 確かにそうだと思った。 乾のその無償の情が、手塚や裕太にとって心地良い微温湯であると同様に、裕太の好意は乾にとって手放し難いものだった。 何より独りになるのを恐れていたのは、裕太ではなく。 「俺の方なんだよ」 才能の芽を摘んでまで手元に置こうと思うほど鬼じゃあないけれど。 「身勝手に変わりは無いし」 「……」 ずるいよねと寂しげに笑った。 手塚はカタリと席を立つと、乾の傍らに立った。 「乾…」 「うん?」 乾の見かけ以上に重量のある眼鏡を奪って机に置くと、彼はどこかピントのずれた目で見上げてきた。 「手塚?」 訝しげな表情の乾に覆い被さり、そっとその唇の端に口付ける。 「……手塚?」 顔を上げると、そこには驚きに目を見開いた乾の顔があった。 その行為自体に驚いているわけではない。彼らにとってそれは慰めたり、または励ましたりするそれと同じであり、性欲や恋情が絡むモノではなかった。 ただ、今までと違ったのは、それが手塚からだということだ。 常日頃からそれは乾から仕掛けるものだった。 手塚はそれを受け入れる専門で、自ら行動を起こしたのはこれが始めてのことだった。 「…俺が、いる」 そう呟いてそっと乾の頭を抱え込んだ。 お前の傍に、いるから。 第十二話「手塚国光の告白」 「…俺が、いる」 「てづ…」 乾が顔を上げようとするが、手塚は己の表情を見られたく無いらしく、乾を開放しようとはしない。 「お前が誰を選んでも、お前が俺を必要としてくれる限り、お前の傍に居る」 端から見れば、自分たちは異常に映るのだと分かっている。 自分たちとて、他の友達と口付けを交わしたりなどしないし、女同士ならまだしも、男同士で抱き締めあったりなどはまず無いだろう。けれど、自分たちのそれは言葉を交わす必要を殆ど持たず、言葉を紡ぐ事が苦手な手塚には乾のその触れ合いが有り難かった。 言うなれば、これは、乾と手塚だからこその関係だった。 そして、乾は手塚をそういう対象として扱うことは無かったし、手塚も今日この瞬間まで、自分が乾を恋愛の対象として見てはいないと思っていた。 だから今までこの均衡が崩れる事が無かったのだ。 「乾……」 しかし手塚は気付いてしまった。 自分が乾の全てを求めていることに。 だが、それを乾に伝えてしまえば、彼はきっと今までのように自分に触れてきてはくれないだろう。 だから、せめてこれくらいのポジションを得る事くらいは許して欲しかった。 乾の、最大の理解者の地位を。 自分が彼の恋情の対象にならない事を、手塚は知っているのだから。 「お前が望むなら、望むだけ傍に居るから」 乾の固めの髪に頬を寄せると、乾の腕が腰に回され、抱き返される。 「手塚…」 「何だ」 「手塚」 「…お前はそれしか言えないのか?」 呆れたような声音でそう言うと、腕の中で乾が小さく笑う。 「だってさ、何か、感動モノ」 「そうか」 「甘やかしたら駄目だろう、手塚」 「そうだな」 手塚の応えに、今度は乾が呆れたように顔を上げる。 「わかってないだろ」 「わかってるさ。でかい子供がいるって事だろうが」 「それを言うなら手塚も子供だろう」 その言葉に手塚は憮然として言い返した。 「お前よりはマシだ」 「それもそうだね」 二人は顔を見合わせ、柔らかに微笑いあった。 第十三話「不二周助の告白」 最近の二人は仲が良い。 いや、仲が良いのは前からなんだけど、最近は得にそんな感じがする。 さして二人の態度が変わったわけでもなければ、二人から何か聞いたわけでもない。 何かあったな、とは思ってるけど。 ただ、唯一変わったな、と思ったのは二人の視線。 例えば手塚。 「菊丸、今のショットだけど…」 「えー?」 手塚がちらっと声のした方を見る。 何だか、乾を見ている時間が増えたような気がする。 何より、その視線が不安定。 和らいだと思えば不意に固くなる。 まるで、幸せと不安を行ったり来たりしている様なその視線。 そして乾。 「じゃあ、大石、ちょっとボール出ししてくれるか?」 「よし、じゃあ菊丸、行くよ」 「オッケー」 ほら、また手塚が乾を見てる。端から見ればコート全体を見ているようだけど、僕の目は誤魔化せられないよ。 「?」 あ、乾が手塚の視線に気付いた。 乾はすぐに視線を逸らして菊丸の方へ視線を戻してしまった。手塚も自分の練習に戻っている。 何なワケ? 何だか、違うんだよね。 ただふいっと逸らしただけなのに、何か、違うんだよね。 ムカツクなあ。 「ねえ、眼鏡、外してみてよ」 休憩中、乾に歩み寄るなりそう言うと予想通り、「何で」と返してきた。 「僕が見たいから」 「ヤだね」 「けち。見せてくれたって良いぢゃないか」 これまた予想通りの応えに、僕は詰まらなくてどっかと乾の背に抱きついた。 「不二、重いんだけど」 「そりゃあ態とだし、当り前ぢゃあないの?」 「……まあ、良いけどね」 ふうっとため息をつきながらも邪険にしない乾。 「乾のそう言うとこ、好きだよ」 同時に、大嫌い。 「…そりゃどうも」 「御褒美」 ちょっと調子に乗って、乾の背中に抱きついた姿勢のまま、乾の頬に小さなキスを落としてみる。 「オイ」 さすがにこれには呆れたらしく、さっきより大きなため息。 それでも突き放さないんだね、君は。 だから、危険なんだよ。 「不二、乾が困ってるだろう」 おっと、やっぱり来たね、手塚。 「えー?乾、困ってる?」 「いや。まあ強いて言えば重いかな」 ほら、そうやって君は大抵の事は何だかんだと言いつつも、さらっと受け入れる。 無条件の愛情と優しさ。 僕ですら、心地良いと思ってしまう。 残酷だよ。君は。 本当なら突き放さなくてはならない所でも、君はそれを受け止める。 君に多大な好意を寄せられていると、勘違いしてしまう。 実際、好意を寄せているのは自分だけだと気付かずに。 寄せられているつもりで、知らず寄せてしまう好意。 真実に気づいた時どれだけ失意に陥るか、君はわかっているんだろうか。 「…不二、聞いているのか」 「えー?ゴメン、聞いて無かったよ」 「…だから、余り乾に迷惑をかけるなと言っているんだ」 わずかに苛立った口調に、納得する。 ああ、やっぱりそうなんだ。 手塚、君も気付いてしまった一人デショ? だから、そんなに傷ついているんだ。 与えられる愛情が嬉しくて、乾に好意を寄せてしまう。 そして気付く。 乾のその愛情は恋情でもなければ自らにだけ向けられるものでも無いのだと。 「ねえ乾、ちょっと放課後、手塚借りていいかな?」 裕太は気付かなかった。ただ乾への恋心を秘めたまま、乾との別離を選んだ。 知らなくて良かったね、裕太。 けれど、手塚は気付いて尚、乾の傍に在る事を選んだ。 「本人に聞けば?」 「だって手塚に聞くと『忙しい』とか言いそうだから」 今の手塚には、乾しかいないから。 自分でも気づかぬほど微かに、もしかしたら、想い続ければいつかは乾も自分を求めてくれるかもしれないと期待して。 「つまり、俺は手塚が帰ってくるまで代わりに部誌を書いておけば良いわけね」 「さすが乾。よく分かってるぢゃない」 「と、言うことでいってらっしゃい、手塚」 「……今じゃ駄目なのか?」 しかめっ面の手塚。 「うん、ごめんね。ここぢゃあ駄目なんだ」 「……十分だけだぞ」 「余り長話して乾に迷惑かけると手塚が怒るしね」 今みたいにね、と付け加えるとますます手塚の表情が苦くなった。 ちょっと面白い。 「それぢゃあ、また後でね」 乾から体を起こし、英二の所へ行く。 ちらりと振り返れば、予想通り、メニューを話し合う二人の姿があった。 第十四話:「あなたの愛は私のものじゃあないけれど」 「手塚は言わないんだ?」 約束通り部活が終ると手塚は不二に連れられ、器具庫に居た。 二人ともすでに着替えを済ませ、学生服を着込んでいる。 不二に至ってはこのまま帰る積もりらしく、鞄も手にしている。 「何をだ」 「乾に好きだって」 「……」 手塚の表情が僅かに険しくなる。 「言わないんだ?」 「……言う必要など、ないだろう」 しばしの沈黙の後呟かれたそれに不二はそうだね、と微笑んだ。 「君は乾の恋愛対象ぢゃあないものね」 「!」 ぎっと手塚が不二を睨み付ける。だが、不二は悪びれた様子も無く言ってのけた。 「手塚が乾に愛されることはないんだもの。言っても無駄だよね」 「……要件がそれだけなら戻らせてもらうぞ」 踵を返し、器具庫を出ていこうとするとその腕を捕らわれる。 「いい加減…!?」 掴まれた腕はそのまま引き寄せられ、唇に軟らかな感触が当たった。 「…見ていられないんだ。僕は手塚が好きだよ。だから、そんな君は見ていたくない」 手塚はその切れ長の眼を大きく見開き、不二を見ている。 「手塚が、好きなんだ」 もう一度口付けようとすると、それは手塚の手に遮られた。 「…済まないが、受け入れる事は、できない」 「どうして?愛してくれない乾より、僕のほうが手塚を満たしてあげられるぢゃあないか」 それは違う、と手塚は首を振った。 「手塚?」 手塚は、微笑んでいた。 「俺は乾に愛されている」 今まで乾を恋愛対象と見たことは無かった。 だが、想いは疾うに彼を見ていて。 それに気付いたのは、つい最近のこと。 たとえ、乾が与えてくれるそれが恋でなくとも。 「愛されていることに、変わりはない」 微かなりとも、愛されたいと願ってしまったことは真実だけど。 「乾は最大のポジションを俺に与えてくれた」 心の内側に、迎え入れてくれた。 「それ以上を望むのは、欲張りだと思う」 「……ホントに、それで良いワケ?」 「…まだ、不安で潰されそうになる。だが、」 それも、悪くはないと思える。 こんな感情は、初めてだから。 「乾を、支えてやれたら良いと思う」 そう言うと、手塚は機具庫を出ていった。 済まないと、もう一度だけ告げて。 乾の待つ部室へ、戻っていった。 第十五話「海堂薫」 「………あ」 ズボンのポケットに手を突っ込み、そこに在るべき物が無いことに海堂は立ち止まった。 (……鍵落とした……) ポケットに穴が開いていないければ、外へ出した覚えも無い。 となると部室だ。着替えた時に滑り落ちたのだろう。 「……チッ…」 海堂は小さく舌打ちすると踵を返し、学校へと戻って行った。 「あれ、早かったね」 部室へ戻ってきた手塚を乾はそう迎え入れた。 「ああ…任せて済まない」 「気にする必要はないよ。もう部誌が書き終わるから」 「相変わらず早いな」 壁からパイプ椅子を取り、乾の向かいに座る。 「そういえば不二は?」 書き上がった部誌を手渡しながら問うと、手塚は部誌に目を通しながら「帰った」とだけ告げた。 「…申し分無い。やはりこういう事はお前の方が長けているな」 「そう?」 「ああ」 確認の終えた部誌を机に置くと、手塚は座ったばかりの椅子から立ちあがった。 「不二と何を話してたんだい?」 乾の傍らに立つなりそう問われ、手塚は苦笑する。 「珍しいな。お前がそういう質問をするのは」 「手塚が『話したいけど話せない』って顔してたから」 「……」 手塚は無言で乾の眼鏡を外す。そこには優しげに細められた眼が手塚を見上げていた。 どうしてこうもこの男は察しが良いのだろうか。 乾の言葉に手塚は苦笑するしかない。 「どうする?」 言うのであれば聞くし、言いたく無ければ言わなくて良い。 「止めておく」 手塚が小さく首を振る。 「そう。じゃあ、おいで」 椅子から体をずらし、手塚の腰を引き寄せると抵抗無く手塚の体は乾の膝の上に納まった。 「……これではどっちが子供なのかわからないな」 「それもそうだね」 乾の可笑しそうな声に手塚は体の力を抜き、乾の首筋に腕を絡める。 「手塚、気づいてる?」 「何が」 「不安になったりすると、俺の眼鏡外す癖」 俺の素顔が安定剤? そう微笑う声に手塚は言い返せず押し黙る。 乾はむっつりと口を閉ざした手塚の眼鏡を取り上げ、自分の眼鏡の隣に置いた。 「何だ」 「だって俺一人だけ眼鏡取られてるのってなんだか癪じゃない」 「そういう物か?」 「そういう物だって」 釈然としない手塚の背後で小さく笑う声がする。何か文句を言ってやろうとするが、彼の手が自分の髪を梳き始めたので手塚は再び口を閉ざして彼の首筋に顔を埋めた。 「……」 乾の大きな手が一定の間隔で髪を梳いてゆくその心地良い感覚に、ふわりふわりと睡魔が湧き上がってくる。 寝てはならないと思いつつも、部活で疲れた体は睡眠欲に忠実で。 「……手塚?」 暫く梳いていた乾がそっと呼びかける頃には、腕の中の主は小さな寝息を立てるだけだった。 さてどうしたものかと思案していると、こちらへ向かう足音が聞こえてきた。 「手塚」 呼びかけても手塚が起きる気配は無い。 どちらにせよ足音は既に部室の近くまで来ている。今更起きた所で見られることに変わりは無いだろう。 さてどうしたものかと考えあぐねている内にカチャリとノブが回される。 …手塚、あとで怒るだろうなァ。 第十六話「乾貞治と海堂薫」 トンネルを抜ければ、そこは別世界でした。 そんなようなキャッチフレーズの映画CMを見た覚えがある。 見知った部室の扉を開いたら、色々な意味で信じられない光景が目の前に広がっていた。 「やあ。…海堂?」 「……乾、先輩?」 あの手塚部長が寝てるとか、それが男に抱きつきながらという事だとか、その男がどうやら乾先輩らしい事だとか、最早何から驚いて良いのか分からなくなっている海堂はその目をただ見開くしかできなかった。 「海堂、だよね?今ちょっと眼鏡掛けてないからいまいち判別できないんだけど」 初めて見た乾の素顔を、何故か気恥ずかしさからか直視できず海堂は視線を床へ落とした。 「海堂、っす…」 眼鏡一つの有無でここまで印象の変わる人も珍しい。 この状況を全く気に止めていない乾の態度に、海堂はもしかして本当はそこに手塚は居なくて、己の幻なのかと疑ってしまう。 だが視線の先、乾に抱きかかえられた手塚が寝こけているのは現実で。 「良かった。で、忘れ物?」 淡々と述べる乾に、何でこの人はこんなに冷静なんだと海堂は内心嘆息した。 「あの…家の鍵を……」 思い当たるのか、乾は「ああ、」と机上の一点を指差した。 「それじゃないかな。海堂のロッカーの下に落ちてたヤツ」 指先を視線で追うと、確かにそこには見なれた鍵があった。 「それでしょ?」 「…っす…失礼しました」 頷いてそれを手にすると、海堂は小さく会釈をして足早にその場を走り去っていってしまった。 「……さて」 海堂が去ってから暫らく経っても手塚は未だ寝続けていた。 余程疲れているのだろう。起こすのは忍びないが、これ以上校内に残るのはさすがに咎められてしまう。 「手塚」 声をかけて軽く頬を叩いてみると、薄らとその切れ長の目が開かれた。 「おはよう、手塚」 「…?…あっ!」 はっとして手塚は乾の上から立ちあがった。 「すまない、寝てしまって…」 きっと親以外に寝顔をさらしたことなど無かったのだろう。 口元を片手で覆い、赤くなった手塚に乾は小さく笑った。 「やっぱ手塚もまだ子供だね」 その言葉に憮然としてみても、乾に抱かれて爆睡してしまったのは事実なのだから何も言えるはずも無い。 「それじゃ、帰ろうか。早くしないと校門、閉められるよ」 「……ああ」 コートを着込むと、はい、と自分の荷物を差し出され、手塚は俯き加減でそれを受け取る。 「やっぱ冬だね。もう真っ暗だ」 部室を出て、鍵を閉める。 外気に晒されていたドアノブは氷のように冷たい。ちゃんと鍵が掛かったのか確認するためにノブを回すが、それだけで手のひらの温度は急速に奪われてしまう。 「手塚」 乾の声に顔を上げると、ぬっと目の前に彼の手のひらが差し出された。 「何だ」 「手。冷たいデショ」 だからほら、と差し出された手に、手塚は苦笑して己の右手を彼の手に重ねた。 繋がれた手はそのまま乾のコートのポケット内へと導かれる。 「じゃあ、行こうか」 乾の手の温もりが自分の冷えた手を温めていく。 「ああ」 彼から自分へと体温が移っていくその感覚がとても嬉しくて、手塚は小さく微笑んだ。 嗚呼、今が、一番幸せなのかも知れない。 手塚は空を仰ぐ。 空は雲に覆われ星は無く、ただ暗い夜空が広がっていた。 第十七話「手塚国光と大石秀一郎」 「………?」 本日何度目かの視線を感じ、手塚はコートを振り返った。 「!」 視線の主と目が合うと彼は慌てて視線を逸らしてしまう。 「?」 何なのだろうか、一体。 「乾、先ほどから海堂の視線を感じるのだが…」 隣に居た乾にそう言うと、彼はそういえばと手塚を見下ろす。 「言い忘れてたけど、昨日手塚が寝てる時、海堂、部室に戻ってきたんだよね」 怒鳴られるのを覚悟でさらっと告げると、意外にも眉間の皺が増えた程度だった。 「……………」 「あれ、怒らないんだ」 「呆れているんだ」 「ああ、そっちね」 怒りも通り過ぎちゃったんだ? 乾の言葉に手塚は視線を伏せる。 「…そうだ」 視線を伏せ、合わせようとしない手塚に乾はその顔を覗き込む。だがすぐさま顔を逸らされてしまい、彼の顔を覗き込む事は適わなかった。 「手塚?」 「休憩終了だ。レギュラーにはいつものメニューを」 それだけ告げると手塚は足早に大石の元へと向かってしまった。 「こりゃ拗ねたかな?」 手にしたラケットで肩を軽く叩きながら乾は小さく苦笑した。 「うん、だから菊丸や不二にはこの方が…」 大石の説明を聞きながらも手塚の意識は先程の乾との会話が離れなかった。 ――あれ、怒らないんだ さすがの乾も気付かなかっただろう。 海堂に見られたと聞いた時、不意に浮かんだ思い。 ……もし、本人に関係無しに、周りが二人を「友人」でなく、「恋人」だと認めたら。 乾は、自分をそういう対象として考えてくれるのではないだろうか。 そう思ってしまった自分に手塚は恥じ入った。 呆れたのは乾にではなく、自分への呆れ。 これ以上は、望まないと決めたのに。 「手塚?」 不思議そうな大石の声にはっとする。 「珍しいな、手塚がぼーっとするなんて」 「ああ…すまない」 「乾と何かあったのか?」 「いや……」 他人からの口から紡がれる彼の名に、知らず手塚の顔が綻ぶ。 「大丈夫だ」 大石は驚きに目を見開いたが、すぐに「そうか」と笑った。 手塚がこんな風に笑うのは始めてだったから。 誰からも一線を置いて過ごしてきた手塚に、大切な何かが出来る事が、ただ嬉しかった。 大丈夫。 俺は乾の傍にいる。 乾はそれを受け入れてくれた。 それだけで、俺は…。 それだけ、で…… 第十八話「浅瀬を歩む君の皇かな脚」 「海堂、一緒に帰らないかい?」 海堂の着替える手がぴたりと止まる。 「……良いっすけど…」 ちらりと手塚を伺うと、彼はすでに着替え終え、部誌を書いていた。昨日の件を知らないのだろうか。手塚に反応は見られない。 「有り難う」 小さく笑ったその口元。 いつも通りの分厚い眼鏡。 その奥にはあの優しい眼差しがあるのだろうか。 「海堂?」 「な、何でもないッス…」 ついじっと乾の顔を見つめてしまった海堂は慌てて顔を伏せ、中断していた着替える手を慌しく動かした。 「昨日の事だけど」 校門を出て暫くすると乾はそう切り出した。 「…別に言いふらしたりしませんよ」 やはりと思いそう告げると乾は「有り難う」とまた小さく笑った。 「変な噂が立って大切な親友とギクシャクしたくないしね」 「親友?恋人じゃないんスか?」 つい口を滑ってそんな問いかけをしてしまい、海堂は慌てて口を噤んだ。 だが、乾は苦笑して違うよと否定した。 「確かに過剰なスキンシップだとは思うけど、手塚にはその方が伝わりやすいから」 「恋人じゃ、無かったんスか……」 「うん、親友だよ」 そう言い切る彼の苦笑にどこかほっとしている自分に海堂は驚く。 「それと、レギュラー入り、おめでとう」 橋に差し掛かったとき、不意にそう言われ、海堂は軽く頭を下げた。 「あ、有り難う御座います」 三年が抜けて初めてのランキング戦では手塚を初めとするいつものメンバーと、そこに海堂と桃城が新たに加わったのだ。 ――レギュラー入り、おめでとう 他の先輩にも言われたはずなのに、何故かこの人に言われるとくすぐったい気がする。 海堂は照れくささから視線を川へ落とし、はっと目を見開いた。 「あっ…!」 「海堂?どうかしたのかい」 海堂は鞄をその場に投げ出したかと思えば、橋を回りこんで土手を駆け下りながら慌てて上着を脱ぎ捨てると川へと飛び込んだ。 「海堂?!」 乾は海堂の荷物を拾い上げると下流の土手へと走った。 「海堂!」 土手沿いに下りると、ちょうど海堂が小さなダンボール箱を抱えて浅瀬に上がって来た所だった。 ぴしゃりと彼の濡れた靴が浅瀬を踏む。 その冬の水音は玲々と乾の耳に響き、彼を見つめる。 髪から、服から、全身から冷水を滴らせた少年は、そんなことなど気に止めていないかのように手にした濡れ箱を覗き込んでいた。 その様は、さしてどうというものでも無い筈だった。 「……海堂」 けれど、何故か乾は打たれたかのように立ち竦み、彼の名を小さく呼ぶのが精一杯だった。 「あの、すみません…つい……」 そんな乾の心情を知らぬ海堂は、己の突然の行為に呆れているのだろうかと視線を箱の中へと落とす。 ミャア、と箱の中から細く甲高い鳴き声が乾の耳にも届いた。 「猫?」 その鳴き声に漸くいつもの自分を取り戻した乾は、彼の抱える段ボール箱を覗き込んだ。 「はい…」 そこには真っ白のふわふわとした子猫が大きな瞳で乾たちを見上げていた。 「捨て猫か…今時川流しなんてベタな事する奴もいるんだな」 子猫の傍らには僅かなキャットフードが散っていた。 「これまた、見事な自己満足だね」 乾は自分の鞄からタオルを取り出し、海堂に渡す。 捨てた者が流したにしろ捨ててあったのを誰かが悪戯で流したにしろ、川に流されれば水が染み込み、または転覆して猫は溺れ死ぬしかない。 流される身としては餌があった所で有り難くもないだろう。 「……最低だ…!」 タオルで髪を拭きながら憎々しげに海堂が呟く。 「優しいんだね、海堂は」 ふと微笑してそう言うと、海堂はかぁっと赤くなった。 水に熱を奪われ、蒼白だった顔は今や真っ赤になっている。 「な、なな…っ」 赤くなって口をパクパクさせている海堂の反応が可笑しくて、乾はくつくつと小さく笑った。 「何言ってんスか!」 怒鳴る海堂からひょいと子猫を摘み上げて片手で抱くと、川原に置いた鞄を担ぐ。もちろん海堂の鞄も一緒に。 「早く温まらないと風邪を引く」 「あの、鞄…」 自分の分は自分で持つからと言う海堂に、「良いから」とやんわりと笑う。 「それより猫、どうするの?俺のマンションはペットオーケーだけど、ウチには犬がいるからなあ」 「あ、ウチに連れて行きます…すぐそこなんで」 橋を渡り、そこを右です、と海堂が指を指した。 海堂は玄関手前まで送ってくれた乾から荷物を受け取り、最後に子猫をそっと受け取った。 「早く風呂で温まって来い」 「あのっ」 それじゃ、と踵を返すと海堂に呼びとめられた。 「うん?」 「ありがとうございます」 振り返った先でほんの微かに笑った海堂のその笑顔に乾の目が丸く見開かれる。 この子はこんな風に笑うんだな、と遠くで思う。 「風邪、ひくなよ」 乾は小さく笑って彼に背を向けた。 背後でぱたりと扉の締まる音がし、耳を澄ませば家の中でぱたぱたと走る音が微かに聞こえてくる。 乾は海堂が慌てて風呂に向かう様子を思い浮かべ、小さく吹き出した。 「海堂薫、か」 乾の中で、何かが変わった気がした。 第十九話「海堂葉末」 「…ただいま」 珍しく部活の無い日曜。 コンビニから帰った海堂は片手に下げたビニル袋を揺らしながら居間へと向かった。 「やあ、お邪魔してるよ」 予想だにしなかった人物がソファに座っており、海堂はその口をあんぐりと開けた。 「い、乾先輩?!」 「遅いですよ、兄さん」 驚く兄とは正反対に、落ち着き払った弟の葉末が小さく溜息を吐いた。 「折角部活の先輩が尋ねて来て下さったというのに、一体何処まで行っているやらと思いましたよ」 やれやれと肩を竦める葉末に、乾はいや、と苦笑する。 「突然尋ねたのはこっちなんだから構わないよ」 「乾さんがそう言うのなら仕方ないですね」 「ところで海堂、いつまでそこに立っている積もりだい?」 乾に指摘され、漸く正気に戻った海堂は、未だ事情が飲み込めず、困惑した表情で乾の向かいに腰を下ろす。 「近くに寄ったついでに猫の様子を見に来たんだけど、元気そうで良かったよ」 猫、と言われ、海堂は漸く乾がここへ来た理由を悟った。 「里親、見つかったんだってね」 「あ、ハイ」 母が買い物がてら言い触らしたらしく、つい昨日引き取り手が見つかったのだ。 「良かった」 そう笑った乾に、海堂はどうも落ち着きが無くなり、曖昧に頷いた。 「それじゃあ、そろそろ暇させてもらうよ」 「え、もう帰るんですか?」 ソファから立ち上がった乾に海堂はそう問い掛ける。 何故だか、とても寂しい気がしたので。 「うん、猫も見させてもらったし、海堂にも会えたし」 葉末が彼の着て来たコートを差し出しすと、ありがとうと彼が笑いかけた。 「いえ、また是非いらして下さい」 満更でもなく嬉しそうな弟に、海堂は何故かむっとする。 「じゃあ、また明日学校で」 玄関口で靴を履いた乾がそう海堂に微笑み、またね、と葉末にはにっこりと笑いかけた。 小さな子に対するそれと分かっていても、乾が自分より葉末に対して愛想が良いのがどこか気に入らない。 何故と己に問う前に乾が扉を開け、海堂は慌てて小さく頭を下げた。 「…乾さんって父さんより背が高いんじゃないでしょうか」 静かに扉が閉まり、不意に葉末がそんなことを呟いた。 「そうだな」 そう短く返してリビングに戻ろうとすると、そういえば、と葉末の声が上がる。 「乾さんに『それだけ背が高いと視界はどんな感じなんですか』って聞いたんです」 「は?」 足を止め、葉末を振りかえると自分に良く似た弟は珍しくにっこりと笑った。 「そうしたら、「見てみれば分かるよ」って抱き上げて下さいました」 視点が変わるだけで、見なれたリビングが違って見えるとは思いませんでした、と彼は続けたが、海堂の耳には届いてはいなかった。 「……フン、ガキ」 海堂はそう吐き捨てると、リビングに向いた足を自室へ変え、足早にその場を立ち去った。 どうしようもない不快感だけが、彼の後を追いかけた。 第二十話「手塚国光、その視線の先」 「何で冬にまで、しかも年明け早々から合宿があるんだよ〜!」 朝早く、待ち合わせていた停留所にやってきた菊丸の第一声がこれだった。 「仕方ないよ。先輩たちも行ってきたんだし」 大石が苦笑すると、菊丸はだってだって!と唇を尖らせる。 「寒いし冷たいし寒いし寒いし寒いし!」 寒さに弱い菊丸は怒鳴り終えるとマフラーの中に顔を埋め、だって、と更に言い募ろうとするが、バスの排気音にころりと喜色を浮かべてぴょんと一飛びした。 「俺いっちばーん!」 菊丸がさっさと暖かいバスの中へと駆け込むと、後ろの方に見慣れたメンバーが座っているのが目に入った。 「ちーっす!」 「おはよう、桃」 「おっはよ〜!」 一番手前に座っていた桃城がひらひらと手を振り、それを皮切りにそれぞれのメンバーと挨拶を交わすと、二人は桃城とは反対通路の座席に座った。 「はい、これ今日からのメニュー」 声と共に、にゅっと目の前に何枚かのルーズリーフが現れる。 すぐ後ろに座っていた乾だ。大石はそれを受け取ると早速目を通す。 「うん、良いんじゃないかな」 一通り見たそれを返すと、そう、良かったと落ち着いた声が聞こえる。 「部屋割りは到着してから配る」 今度は斜め後ろ、乾の隣から声が届く。手塚だ。 席の空いている時は大抵一人で座る手塚にしては珍しい光景だ。 大石が何と無しにそれを指摘すると、手塚は決まり悪げに黙り込み、隣では乾がくすくすと笑った。 最近の手塚は柔らかくなったと大石は思う。ピリピリとした雰囲気が消え、接しやすくなった。 乾に感化したと言うべきだろうか。口調や態度が変わったわけではないのだが、何処か、暖か味が出てきた。 良い事だと思う。変わる事を拒んでいる様な感があっただけに、彼の変化は喜ばしかった。 良い事だと、思ったのだ。 少なくとも、この時は。 「………」 ふと意識が浮上し、手塚は薄っすらと目を開けた。 室内はまだ暗い。枕元に置いた腕時計を見ようと体を捩った。 微かに突っ張るような筋肉の軋みに逆らい、腕時計を手繰り寄せて夜光塗料の塗られた盤面に視線を落とす。 黄緑色に仄かに光を放つ盤面上の針は二時。消灯から三時間しか経っていない。 腕時計を元の位置に戻し、隣へ視線を移すともう一組の蒲団の中で乾が寝息を立てている。 手塚は室内の冷気に蒲団の中で暖まった体温を奪われるのも構わず、蒲団を静かに抜け出して乾の傍らに座った。 見るのは初めてではなかったが、こういう時でないと見られない乾の寝顔をじっと見下ろす。 当然眼鏡は掛けておらず、いつもは柔らかな色を湛えたその眼も今は閉じられている。 「………」 その額に掛かった髪にそっと触れてみる。自分の髪より遥かに硬質のそれは手塚の指を受け入れ、そろそろと梳くと指の間を擦り抜けていく。 自分の髪とは違った感触がどこか可笑しくて、ゆっくりと髪を梳く手を往復させてみた。 「……てづか?」 不意に乾が目を覚まし、手塚は慌てて手を引っ込めた。 乾は寝起きでぼうっとしながらも起き上がると「どうしたの」と手塚を見た。 「すまない、起こす積もりはなかったんだが…」 髪を撫でていた事が知られた手塚は視線を落とし、しどろもどろにそう答える。 暗がりのためその表情は窺い知れないが、恐らく赤面しているのだろう。 「良いよ、気にしてない」 それより、と乾はにっこり笑う。 「一緒に寝るかい?」 そう言って乾は自分の蒲団の端を持ち上げ、手塚を誘う。 「ば、バカを言うなっ」 手塚が咄嗟にそう反論したが、乾が蒲団を下げる気配はない。 「ほら、早く入らないと蒲団が冷える」 小さく笑いながらそう誘う乾に、手塚は押し黙り、結局渋々と乾の蒲団の中へ入っていった。 「いつから座ってたんだい。身体、冷え切っているじゃないか」 そう言いながら乾は手塚を抱き締める。染み込んで来るような乾の温もりに、手塚は言い表せないほどの幸福感に満たされ、眼を細めた。 「こら手塚、聞いてる?」 多少諌める色を含んだ乾の声にはっとして視線を上げる。 「肩や腕は特に冷やさないよう気を付けないと駄目だろう」 「済まない…」 間近で見つめてくる視線に、見馴れている筈なのにどうも直視できず、手塚は視線を目の前の乾の胸元に落とす。 すると小さく嘆息した乾が腕を伸ばし、手塚の頭下に宛がった。 「枕、今更取りに出ると寒いからこれで我慢してよ」 この男は自分を幸福感で殺す積もりだろうか。 手塚は小さく笑う。 「御休み、手塚」 「ああ…御休み」 眠れるだろうかと思いながらも眼を閉じ、乾の首筋に耳を寄せる。 規則正しく響く心音が耳に心地良く、手塚はじっとその音に耳を澄ませた。 その音に聞き入っている内に、手塚の意識は降下していった。 |