浅瀬を歩む君の滑らかな脚

第二十一話「海堂薫、その視線の先」


「英二、起きて。エージ」
「……ん〜…」
揺り起こされ、菊丸は眠りから強制的に脱退させられた事に不満げな声を上げながらもうっすらと瞼を開いた。
「おはよう、英二」
「ちゅーっす、エージ先輩」
「…あれ?何で不二と桃が俺らの部屋にいるワケ?」
菊丸はがばっと起き上がると首をかしげ、未だ霞の掛かった思考を覚ますように大きく伸びをした。
時計を見るとまだ起床時間までに一時間近くある。
外も漸く日が上がり掛けている頃だ。左隣に大石、右隣には海堂が未だ寝息を立てている。
「これから手塚と乾の部屋に忍び込もうと思って」
「部長の寝顔とか乾先輩の眼鏡外した素顔とか、興味ありません?」
不二と桃城の言葉に菊丸の脳が完全に覚醒する。
好奇心の塊に等しい菊丸にその企画は美味し過ぎた。
「見たい見たい!!」
大きな目を輝かせ、菊丸は子供のようにきゃっきゃとはしゃぐ。
「ぢゃあ、そぉっと行ってみようか」
三人ともが寝巻き姿に上着を羽織った姿で部屋を出て行こうとすると、そこに制止の声が上がった。
「三人とも、何処へ行く気だい」
「あれ、大石起きちゃったよ」
むくりと起き上がった大石に、菊丸はぴらぴらと手を振る。
「おっはよ〜、大石」
平然としている三人を大石は胡乱げな目で見回す。
「おはよう、三人とも。随分早いみたいだけど、また何か企んでるんだろ」
菊丸が蒲団から這い出した辺りから眼が覚めたらしく、彼は事情を知らない様だ。
桃城が「手塚部長&乾先輩のおはようドッキリ企画」を説明すると、そんな事だろうと思ったと、大石は寝起き早々に大きな溜息を付く羽目になった。
「鍵が掛かってるだろう」
そう言ってからふと気付いた。不二と桃城はどうやってこの部屋に入ってきたのだろう。
菊丸が開けたのかと見ると、菊丸もそう言えばと不二と桃城を振り返る。
「ああ、そんなの簡単な事だよ。ピッキングしたんだ」
そういって不二はにこやかに一本の捻じ曲がったピンを差し出した。
不二、それ犯罪行為だから…。
大石の嘆きも、菊丸の「不二、凄い!」という嬉々とした声にかき消されてしまう。
「ぢゃあ、そう言う事で行ってくるヨ」
「ちょ、三人とも…!」
不二がにこやかに笑い、三人は部屋を出て行く。
「ああもうっ…」
大石は上着を取るとその後を追った。
被害をこれ以上拡大させない為に。


「「「「………」」」」
大石一人に彼らを止められる筈も無く、結局彼らの後に付いて手塚たちの部屋へとやってきていた。
「………どう思う?コレ」
声と言うには掠れ掛けた小さな声で問う不二に、一同はあははっと意味の無い笑いを漏らすしか出来なかった。
「……何で一緒の蒲団で寝てんスかね」
「ねえ不二、二人ってそーゆー関係なワケ?」
「違うハズだけど……」
「………」
やってきた四人を迎えたのは、同じ蒲団で眠る手塚と乾の姿だった。
御丁寧にも手塚は乾の腕枕で寝ている。
「服は?」
不二の言葉に菊丸と桃城は顔を見合わせる。
確かに乾は着ているようだが手塚は首から下はすっぽりと蒲団に潜ってしまっていてわからない。
「………」
菊丸がそっと蒲団の端を持ち上げ、なんだ、と気の抜けた顔をした。
「着てるよ〜」
何故か残念そうに呟く菊丸。
「…ん……」
もぞりと手塚が動いた。四人は体を強張らせたが、どうやら蒲団を捲られて寒かったらしい。
「……ぃ…」
寒い、とでも言ったのだろうか。言葉と言うより、うめく様に小さく声を発すると近くの温もり、つまり乾の体に擦り寄った。
「……ラブラブ?」
「桃、それ死語だから」
「……何してんの?」
思わぬ声に一同が声のしたほうを見る。
手塚に気が行っていて気付かなかったが、乾が目を覚ましていた。
しっかりと眼鏡を着用して。
「あ、乾おはよう」
「おはよう、不二」
バレても一人平気な顔をしている不二がひらひらと軽く手を振った挨拶にも、乾は律儀に返してくる。
「あっ!手塚に気を取られてて乾の素顔見てにゃい!」
「……?」
くそぅっと菊丸悔しそうに声を上げるが、その声で手塚までもが目を覚ましてしまった。
「……何の騒ぎだ」
よもや自分たちが原因だとは思わない手塚が未だ寝惚けた声を上げると、乾の視線とぶつかった。
「おはよう、手塚」
「おはよう……」
緩慢な声音でそう返し、漸く思考が動き始めた手塚は状況を把握する。
「ど、どうやって入ってきた?!」
自らの置かれた状況に、手塚は慌てて体を起こすと乾の蒲団から出た。
その顔は見事に朱に染まり、耳まで真っ赤だ。
「コレ」
不二の取りだした一本のピンに手塚は脱力する。
そうだ、こいつはこういうヤツだった。
そんな事よりまずは自分だと手塚は慌てて鞄の中から上着を取りだし、それを寝巻きの上から羽織う。
「手塚、顔真っ赤」
「煩い」
恥ずかしさ紛れに手塚は菊丸のにやけた声を切り捨てる。
後でグランド20周だ、と。


「………そうッスか」
何故か余分に走っている菊丸、不二、大石、桃城の四人の姿を乾に問うと、彼は苦笑半分に今朝の顛末を話してくれた。
「ホント、部長と乾先輩って仲良いっすね」
皮肉を込めてそう呟くが、乾はそれに気付いているのかいないのか、「そうだね」と彼は笑う。
「手塚は、特別だから」
「………」
「ああ、しつこい様だけど、手塚とそう言う関係な訳じゃあないから」
沈黙した海堂に乾はそう苦笑する。
その言葉を聞くのは二度目だ。
「別に、どうでもいいっすから……」

あなたはそれを恋じゃないと言う。
けれど。

ずきりと痛む胸元。
無意識にそこへ手を当て、真新しいジャージを握り締める。

「海堂?」

誰かを特別と思うその気持ち。

人はそれを、恋と呼ぶのではないのでしょうか。





第二十二話「越前リョーマ」


少年はオープンカーの助手席で流れゆく景色を眺めていた。
春とはいえ、さすがにオープンカーは少々肌寒い。だが、運転する男から強引に借りた上着のおかげで、さほど寒さを感じさせなかった。
「ねえ」
信号の赤に車を止めると、少年が景色を眺めたままハンドルを握る男に話し掛ける。
「今日はあの五月蝿い人たち、居ないんだね」
誰、とは言わなかったが男にはそれで十分だったらしい。彼は二人の間に置かれたラジカセに手を伸ばし、きゅるきゅると早送りを押す。
『二人とも仕事に出ている』
再生ボタンを押せば、男の声で少年の問いへの答えが紡ぎ出される。
「へえ。ウチの親父以外に依頼するやつ、居るんだ。あ、これ頂戴」
その可笑しな返答の仕方に少年は慣れているのか、勝手に備え付けのボックスからアーモンドの入った袋を取り出すと返事もまたず、勝手に一つ齧る。
カリリと耳触りの良い音が響き、同時に車は再び走り出す。
「でもウチみたいな依頼って結構あるワケ?」
『俺が長期間一人に付くのは基本的に無い』
片手でハンドルを握り、再生ボタンを押す指を見ながら「へえ、」と少年は小さく笑った。
「じゃあ俺は範疇外なんだ」
『そういう事だ』
それから暫く沈黙が続いたが、少年の見覚えのある景色になって来た頃、
「止めて」
男を仰ぎ見る。
「この辺で良いよ。校門に乗り付けると目立つからさ」
少年の言葉に、男は無言で車を道路脇に付けた。
完全に停車するのを見計らって少年は車を降り、借りていた上着を助手席に落してテニスバックを担ぐ。
「帰りもこの辺で待っててよ」
お気に入りの帽子を被ってそう言うと、男は小さく頷いて車を発進させた。
「青春学園、ね」
走り去るオープンカーの後姿を見送り、小さな溜息を吐く。
「恥かしい名前」
帽子を目深に被り、少年は歩み始めた。


「よお。お前んち、どっちだ?」
部活見学を終え、さっさと帰ろうと校門を潜ると、背後から髪を逆立てた二年が気さくに声をかけて来た。
桃城武。今日知り合ったばかりの「部活のセンパイ」。
「……あっち」
恐らく自宅があるであろう方向を指差すと、そのアバウトさに桃城は苦笑した。
「つーと…寺の近くか?俺、自転車なんだけどよ、乗せてってやっても良いぜ」
「今日は迎えが来てるんで遠慮するッス」
「へーえ?親御さんか?夕飯でも食いに行くのか?」
「別に」
ちゃっかり隣りを歩く桃城に、何で付いて来るんだと視線を上げる。
「こっちに駐輪所があるんだよ」
「へえ」
自転車登校をしない自分には関係ないと言わんばかりの気の抜けた返答を返し、視線の先に目的のオープンカーの存在を認める。
車はリョーマがやって来た事に気付き、エンジンの音を唸らせてこちらへやって来た。
運転している男は父親というには若く、兄と言うのも何か違う、目付きの悪い男だった。
乗れ、と無言でリョーマに顎で示すと一筋だけ垂らした長い前髪が揺れる。
「それじゃ」
ぽかんとしている桃城に会釈をし、リョーマは車に乗り込む。
車は少年を乗せると、エンジン音を響かせて桃城の視界から遠ざかっていった。
「…ミステリアス系?」
既に角を曲がり、見えなくなった車の後姿に桃城は首を傾げて呟いた。




第二十三話「遠い昔の話(越前リョーマ)」


出る杭は打たれる。
生まれ故郷の諺だとオヤジが言っていた。
生まれ故郷、ねえ。
実際、日本にいたのは記憶に無いくらい小さな頃。
だから俺の一番古い記憶は既にこの地のものだった。
まあとにかく、テニス界で俺は「出る杭」だったってワケ。
最年少で彼方此方の大会で優勝を奪い取り続ける俺の存在は、妬みの対象になり易かった。
ロッカーに置いておいた物が無くなったり隠されたり壊されたり。
そんなのは日常茶飯事で、買い替えが面倒だったからいつも持ち歩いていた。
となると今度は実力行使に出てくる奴が結構いて。
俺は確かにテニスは強いけど、正直な話喧嘩は強くないんだよね。
だからそうなると面倒だな、と思ってた。
それと、更に面倒な事に俺って結構誘拐され易いんだよね。
ここで「美しいって罪」とか言うと俺自身が総毛立って倒れそうだから言わないけど(実際この時点でかなりの寒気がする)一般的に言うと俺の顔は可愛い部類に入るらしい。認めたくはないが、身長も関係しているのかもしれない。
何にしても、俺自身にとっては嬉しくも無い評価だけどね。
だからスクールの帰りとか、知らないオッサンやオネエサンに声を掛けられる。
悪いけど、そこであんたらについていくほどバカじゃないんでね。
いつも無視して遣り過ごしてた。
たまにこっちも実力行使に出ようとする奴がいたけど、取り敢えず今の所難を逃れている。
これに関してはオヤジも結構悩んだらしくてさ。
悪いね、無い頭悩ませて。
そこに、あの人が現れた。
「リョーマ、コイツがこれからお前のボディガードをやる事になった」
休日の午後、部屋で雑誌を読んでいた俺の前に、オヤジが一人の男を連れて来た。
呼び名は「COOL」。
つーか子供にボディガード。
ここはメキシコか。まあ、今までのことを考えればやり過ぎとは言わないけれど。
ともかく、俺のボディーガードとなったそいつの本名は知らない。
俺やオヤジと話す時はいつも日本語。
んで、最大の特徴は、ラジカセで喋る事。
変な奴。ていうか気に留めてないオヤジも十分変。あ、今更か。
普通に喋れば良いのにとか思ったけど、馴れた。
けどあの人の生の声、聞いた事が無いってのが何か癪に障ってさ。
一度あの人の上着の中に仕込んであるカセットテープを全部捨ててみた。
怒った怒った。
何も言わなかったけどあれはかなり怒ってたね。
結局拳骨が一発落ちたけど、それだけだった。
子供は嫌いだの苦手だの鬱陶しいだの。
ならこんな仕事受けなきゃ良かったのに。
スクールからの帰り、そう言ってみた。
「…『越前』の頼みだからな」
この時、初めてこの人の肉声を聞いた。
「越前の頼みを断るな。祖父さんの遺言だ」
「何それ。アンタの祖父さん、ウチの祖父さんの知り合い?」
「……祖父さんはお前の祖父さんの兄だ」
冗談はよせ。
つまりそれはアレか。
この人と俺は親戚か。
何でウチの家系ってこうも灰汁の強いキャラばっか生き残ってんだよ。
「アンタも大変だね。ウチの頼みだからってこんな子供のお守りさせられるなんてさ」
「……」
何時の間にか家の前。
いつもの無言になった人にそれじゃあね、と門を潜ろうとすると頭に何か乗せられた。
「……何?」
乗せられていたのはあの人の手で、ぽんぽん、と撫でたいのか叩きたいのか分からない動作をして手を離した。
「……」
そして無言で立ち去っていく。
コラ、説明しなよ。
でも立ち止まる気も説明する気も無い背中に俺は小さく肩を竦めて玄関へ向かう。
…まあ、悪い奴じゃない。
でもさあ、普通、俺にボディガードがついたら周りのバカどもの格好のネタになるってわかんないかな?あのクソ親父。
「あのサムライ南次郎の息子だからってお高く留まりやがって」
そういう事は俺から一本でも取ってから言って欲しいんだけど。
年下に惨敗してるアンタに言われたくないね。
「守ってもらわねえと何にも出来ねえくせに」
それ、あんただって同じだろ?
アンタ自分一人で生きてると思ってるわけ?
バカじゃないの?
第一、親は子供を守り育てる為の存在なんだから当たり前だろ。
親は子供の踏み台なんだから、利用して何が悪い。
もう少し、お勉強しなおしてきたらどう?
「機嫌が悪いな」
そりゃもう頗る悪いね。
どうしてああもバカばっかりなワケ?俺より歳食ってるくせに。
「歳を食ってるからだ。長く生きた分、良くなる部分もあれば悪くなる部分もある」
ああじゃあアイツらはバカな部分しか育たなかったんだ。
「そう言ってやるな。子供などそういう生物だと流せば良い」
…それを子供である俺に言うんだ?
「お前は歳不相応だからな」
そりゃどーも。誉め言葉として受け取っておくよ。
「そうしておけ」
それにしても珍しいね。アンタが生で話すなんて。
「……」
……?
…あれ?もしかして、俺が「ムカツク」って言ったから?
「…お前の前だけだ」
へーえ。そりゃ面白い特権を手に入れたってカンジかな?
「……」
怒らないでよ。ていうか拗ねるな、良い歳こいて。
「悪かったな」
良いよ。アンタのそういうトコ、好きだよ。
「……」
あー照れた照れた。面白い。
それにしても。
「…何だ」
いつまでアンタは俺の傍にいてくれるんだろうね。
別に事件に巻き込まれてるとかそんなんじゃないし。
オヤジも過保護だよね。
「……」
でもさ、結構気に入ってるんだ、この生活。
続けば良いと、思ってる。
アンタには悪いけどね。


その時はあっさりやってくるもので。
「おいリョーマ、来月から日本に帰るぞ」
記憶に無い土地へ「帰る」、というのが何だか妙な感じだった。
そっか、もうアンタともお別れなんだね。
「そうだな」
清々しただろ、お守りが終わって。
「リョーマ」
……何。アンタが俺の名前呼ぶなんて珍しいじゃん。
「これは俺の意志だ」
は?何言って…あ!航空券!しかもウチと同じ便!
ちょっとアンタ本気?
「向こうでのお前の家の近くに知り合いの店がある。そこへ行く」
契約は終わったんじゃなかったの?
「言っただろう。これは俺の意志だと」
……バカだね、アンタ。
「お前が良く知っているだろう」
…ああもう全く。
仕方ないから、これからも雇ってやるよ。




第二十四話「越前リョーマとCOOL」


他の部員たちは粗方帰り、手塚も書き終った部誌と荷物を手に立ち上った。
「それじゃあ、行こうか」
向かいに座っていた乾も席を立ち、並んで部室を後にする。
「ねえ」
部室を出てすぐ声が掛かった。
幾ばか離れた場所に見覚えのある少年が立っている。
確か、部活見学に来ている一年だ。
「アンタが、クニミツ・テヅカ?」
まるで日本の名前に馴れていないような、僅かにイントネーションのずれた呼び方に手塚は微かに眉を寄せる。
「そうだが」
「写真で見た時は似てないって思ったけど、実際に見てみると案外似てるモンだね」
「?」
腑に落ちない表情の手塚に、彼は「知らない?」と首を傾げた。
「クニカゼ・テヅカ。従兄弟なんでしょ?」
思いも寄らぬ所で出された従兄弟の名に、手塚は微かに目を見開いた。
「知っているが…」
「宜しく伝えておいて、って」
それだけ、と踵を返して去っていく少年の後姿を手塚は困惑げな表情で見送った。
「知り合い?」
「…あいつは知らんな」
すると乾は鞄からいつも持ち歩いているノートを取り出すと、一番新しいページを開いた。
「えーっと、越前リョーマ、一年二組。帰国子女との噂あり。三月に行われた柿ノ坂ジュニアテニストーナメント十六歳の部に登録するも遅刻のため失格」
「……」
昨日出会ったばかりの相手を既にチェックしている所が乾らしい。
「その内、暇ができたらまた『JAM』へ行こうか」
『JAM』というのは国風が経営する喫茶店の名だ。
手塚はこくりと小さく頷き返し、二人は並んで職員室へと歩き出した。


カラン、と店の扉が開かれる音にその喫茶店の若きマスターは顔を上げた。
「やあ、いらっしゃい」
入って来た見知った少年に、彼はグラスを拭く手を止める。
「クニカゼ、クニミツに会ったよ」
そう言って彼の目の前のカウンター席に座った少年に、コトリとファンタグレープの入ったグラスとストローを置く。
少年がファンタが好きだと知った彼が、少年の為だけに置いているものだ。
「へえ、どうだった?元気そうだったかい」
「それなり」
細身のストローから一口、二口と中身を吸い上げ、ばたばたと聞えて来た足音に少年は嫌そうな顔をした。
「ッリョーォォッマ!!」
ばたーんと軽快な音を立ててスタッフルームから一人の男が飛び出してくる。

思わず他人の振りをしたくなる極彩色且つびらびらとした服を纏い、左目の下には泣き黒子のように赤いハートマークが描かれている長髪の男。
「マイスウィート、良く来てくれたね!ああそんな顔をしないで!俺がすぐ君の元へ来なかったのが不満なのかい?!」
何と嬉しい…!と大袈裟によろめく男に「違うし」と短く切り捨ててリョーマは溜息を吐く。
「そんなに照れなくてもいいんだよ!大丈夫、わかってるから!」
「…KAL、煩い…」
「KALだなんて他人行儀な!!さぁ、呼んでご覧、藤・一・郎、と!」
「……」
いい加減バカらしくなってきたリョーマは、一人喋り続ける男を無視してファンタを飲み干した。
「ねえ、今日はアイツ、いないの?」
「そう、レンタル中」
にっこり笑う国風に、リョーマはふうん、と微かに詰らなそうな色を称えた。
「こんにちはー!あ、リョーマ君とKALも居る〜!」
ベルがカララン、と少々騒々しい音を立ててながら扉が開いた。
「おや、笑子ちゃん、それにCOOLも」
入って来たのは明るい印象を与える女子高校生と、むっつりとした長身の男だった。
「そこの交差点でCOOLの車見掛けたから、走ってきちゃった」
僅かに頬を紅潮させた笑子はそう笑う。
「首尾はどうでした」
「……」
国風の問いに、男はこくりと頷くだけでスタッフルームへと消えてしまった。
「ハン、相変わらず愛想の無い男だね」
ちゃっかりリョーマの隣りの席に座っているKALがひょいと肩を竦める。
「今日はKALも居るんだね。DONちゃんはレンタル中?」
「ええ。明日には帰って来ると思いますよ」
バイト開始まで時間が有るから、と笑子は紅茶を注文する。
「リョーマ君は青学、どうだった?」
笑子は近くの公立高校に通う二年だ。距離的には青春学園の方が近いのだが、私立か公立か、と言われ、特に青春学園でしか学べない!というものを目指しているわけではない笑子は即座に公立を選んでいた。
「別に。恥かしい学園名だと思ったくらい」
「あー、青春学園だしねー」
確かにあれは恥かしい、と笑子もうんうんと肯いた。
「でもこの辺では一番の学校だからねえ〜。それくらいは見逃してあげなよ」
だがバイトや就職の面接、親戚、知人との交流の中で何度も「青春学園に通ってます(ました)」等といわなくてはならないと言うのは正直な話、恥かしい。
「あ」
不意にリョーマが視線を上げた。笑子たちがそれにつられて視線を向けると、スタッフルームからCOOLが出て来た所だった。
「御馳走様」
「またね」
明らかに社交辞令といった声音で立ち上るリョーマに気を概した様子も無く、国風がにっこりと笑う。
「リョーマ、また俺に逢いに来ておくれ!」
「リョーマ君バイバーイ!」
KALと笑子の声を背にリョーマが出ていき、それに続いてCOOLも出ていった。
「ああ…あんなむっつりなんかより俺の方が楽しい帰路に就けるのに!」
リョーマの身辺警護は契約を交わしたCOOLの仕事だ。
口惜しそうに言うKALの言葉に、笑子はねえ、と国風に視線を向ける。
「マスター、ずっと気になってたんだけど、リョーマ君とCOOLって、どういう関係?」
「そうですねえ…COOLにとって、リョーマ君は大切な王子様って所かな?」
にっこり笑ってそう答えた国風に、KALはチチチ、と舌を鳴らして人差し指を振った。
「『俺たちの』大切な王子様だ」



その日、桃城武はいつもとは違ったルートで自宅への帰路に就いていた。
友人から最近発売されたばかりのゲームソフトを借りに行っていた為だ。
「あれ?」
しゃかしゃかとペダルを踏む足を弛め、桃城は見覚えのあるオープンカーに視線を向ける。
「やっぱ越前だよな」
反対車線の路肩に止められたその車に、やはり見知った顔を見出して更に減速していく。
リョーマは車から降り、目の前の一軒家への門を潜った所だった。そこが彼の家なのだろう。
やがて、止まっていた車は再び動き出して車線へと戻っていく。
運転しているのはやはりあの時の不愛想な男だ。
家族かと思っていたが、少なくとも一緒には住んでいない様だ。
「わっかんねえなあ、わっかんねえよ」
ぽつりとそう呟いて、桃城は再びペダルを漕ぎ出した。
「やっぱりミステリアス系だよな」






第二十五話「乾春江」


一度だけ、聞いたことがある。
辛くはないのかと。
自分たちが当たり前に持っているものを失うのは、辛くはないのかと。
けれど彼はいつものように笑って、そうでもない、と答えた。
仕方のないことだから、と続けたその言葉に諦めの色や悲しみの色は見受けられなかった。
本当に何事でもないように、当たり前のようにそう告げた彼の姿。
その時、この想いは確かな形を得ていたのかもしれない。
彼の傍に居たいと願う、この想いは。


その週末、乾は部活を休んだ。
授業が終わるなり、乾は部室に顔を出すこともなく帰ってしまった。
手塚を初めとする三年生はそれを承知しているのか、誰一人として乾の不在を問うものは居なかった。
それは海堂が入部したときには既に暗黙の了解とされていて、理由を知っているらしい部長クラスの面々は、時折週末や休日の部活で乾がその姿を現さなくとも不問とされていた。一部ではそれを訝しむ声も上がっていたが、当時の部長は乾の家の事情だから、とだけ答えたらしい。
「あれ、乾先輩じゃん」
桃城の声に海堂ははっとして視線を上げた。
フェンスの向こうからこちらに手を振っているのは、確かに乾だ。
乾の元へと駆け寄る桃城たちの後を追うように海堂は歩みを速める。
「乾、おっかえりー!」
コートに入ってくる乾の元に逸早く辿り着いた菊丸がその長身に飛び付いた。
「ただいま。はい、お土産」
差し出された菓子折りに菊丸が歓喜の声を上げる。
「今度は何処に行ってきたの?」
不二の問いに乾は「長野」と笑う。
「空気が綺麗だったよ」
そんなやりとりに、何だ旅行か、と海堂は息を吐いた。
だが、不意に自分と同じように人の輪から外れている人物に気づいた。
手塚だ。
彼は練習を放り投げた事を咎めることなく、ただじっと乾を見ていた。
何処か辛そうに目を細めて。
やがて視線を伏せ、何かを振り切るように踵を返した。


数日後、海堂は乾と共に帰路に就いていた。
乾が海堂の帰り道にあるスポーツ店に用があったためだ。
「あれ」
不意に乾が声を上げた。
目的の店の手前で盲導犬を連れた女性が何人かの高校生に囲まれていた。
聞こえてくる男たちの声は、盲導犬を珍しがっていた。
そして自分もそのハーネスを引いてみたい、と女性に強請っている。
その光景に海堂は少なからず不快感を覚えた。
彼らにとっては珍しい玩具でも、きっとあの女性には無くてはならない存在だ。
あの犬が居なければ彼女は右も左もわからないのだろう。
それがどれだけ心細く、恐ろしいことか彼らは全く気づかずにそれを強請る。
「困るなあ、ああいうの」
乾はやれやれ、と溜め息を吐くと足早に彼らの元へと向かう。
すると今まで大人しく座っていた犬が乾に気づいて尻尾を僅かに揺らしたようだった。
「ハリィ、ジャンプ!」
乾の声に反応して盲導犬が突然跳び上がる。
「うわ?!」
突然のことに男たちが慌てた声を上げた。
犬が歯を剥き唸りを上げて威嚇すると彼らはばつが悪そうにその場を去っていった。
「よくやった。グッドボーイ、ハリィ」
犬に近付き、その顎を撫でてやる乾の声に女性がほっとした表情を浮かべた。
「ハル君?ありがとう」
「いいよ。それにしても、どうしたの、こんな所まで一人で来て」
「美和子さんの所へ行っていたの。旅行のお土産を渡しに」
ふわりとウェーブした髪を背中に流し、少女のように笑うその女性。
何処か割り込めない二人の雰囲気に海堂がぽかんとしていると、乾がそれに気づいた。
「あ、ごめん海堂。この人は乾春江さん。俺の母親。母さん、部活の後輩の海堂」
「えっ、あ、ど、どうも…はじめまして」
慌てて頭を下げる海堂に、春江は「まあ」と相好を崩す。
「ご丁寧にどうも。いつも息子がお世話になってます」
春江は海堂の方に身体を向けて頭を下げた。
そのしっかりとした動作に、盲目なのでは、と海堂は思う。
するとそれを察したのか、乾がくすりと笑った。
「見えなくてもね、少しは分かるんだよ。気配とか空気とかの動きで」
「スミマセン…」
思わず謝罪する海堂に、乾は謝る必要はないよと一層笑みを深めた。
「うちの家系は昔から視力が弱くてね。幼い頃からいつ盲目になっても困らないように訓練されてるんだ」
「じゃあ、先輩の眼も…」
「うん、眼が悪いのは先天的なものなんだ。二十歳くらいまでなら何とか見えるそうだよ」
二十歳。
あと五年もすれば、この人は視力を失ってしまう。
なのに何故こんなに平気な顔をして告げるのか。
「…辛く、ないんスか…」
すると彼は母親と顔を見合わせ、(春江のその動作は盲目だと思えないほど自然だった)くすりと笑った。
「そうでもないよ」
「我が家では、それが当たり前だったから」
「そういうものなんだって思ってたしね」
「でも…」
「それに、悪いことばかりじゃないのよ。ハリィという大切なパートナーと出会えたんですもの」
春江の細い手が柔らかくハリィと呼ばれた盲導犬の頭を撫でる。
「盲導犬協会にお願いしても、自分の所に盲導犬がやってくるまでに何年も待たないといけないの。だから試しに自分たちで育ててみようって事になって。それがこの子なの。正規の盲導犬ほどじゃないけど、私の眼の変わりをしてもらうには十分すぎるほど良い子なのよ」
ただ、未登録の盲導犬だから店に連れて入ったりはできないけれど、と彼女は笑う。
「俺もそろそろ自分のパートナーを探さないとね」
「そうねえ。高校卒業するまでには見つけたいわね」
「そうだね」
ああそういえば、と乾が海堂を見た。
「昔、手塚も海堂と同じ事を言っていたよ」
みんな心配性だね、と乾は笑う。
「そう、スか…」
手塚も同じ事を…。
あの人は、知っていたのだ。
だからあんな眼で乾を見ていたのだ。
あんな、今にも叫び出しそうな眼で。




第二十六話「手塚国光の苛立ち」


今年度初のランキング戦、乾はレギュラーから落ちた。
一年ルーキーと、今まで全勝を収めてきた海堂に敗退しての事だった。
しかし、当の乾は然程悔しがるでも無く、寧ろ喜色すら浮かべて自身に打ち勝った者たちを見つめていた。
そんな乾を、手塚は複雑な面持ちで見つめていた。
乾がレギュラーから落ちる事は今までに何度かあった。
特にレギュラーになりたての頃は波が激しく、酷い時は毎回ジャージが変わっていた。
だがここ半年ほどは安定しており、青学三強の一人と囁かれる程になった乾がレギュラー落ちするとは殆ど予想外だった。
乾のブロックに越前を入れたのは手塚だ。
今回のランキング戦は都大会のレギュラー決めと同義であったから、振り分けには気を使った。
まず黄金ペアは固めておきたかったし、ダブルスにも転向できる不二、河村も抑えておきたかった。それに、自身と越前が対戦するには時期尚早だと思えたし、理詰めのデータテニスをする乾なら越前の実力を引き出せるだろうと踏んだ。
乾と越前の対戦結果がどうであれ、乾がレギュラー落ちすることはないと思っていた。
海堂が乾を負かすまでは。


ランキング戦が終わった翌朝、乾は練習に出てこなかった。
様々な憶測が飛び交い、大石がフォローするように乾は竜崎顧問に呼ばれていると説明したが、返って飛び交う憶測を増やしただけだった。
そしてその放課後の練習で乾は現れた。レギュラー陣のコーチ役として。
手塚は何も聞かされていなかった。竜崎からも、そして、乾からも。
それからの乾は当然のようにコーチ役を続けた。
彼が部活でやることと言えばレギュラー陣のサポートばかりで、彼自身の練習はほぼしていないも同然だった。
そんな姿に、乾はレギュラーに戻る気が無いのでは、という声さえ上がるようになっていた。
それに一番苛立ちを感じていたのは乾ではなく、手塚だった。


「どういうつもりだ」
部活を終え、帰路の最中手塚はそう切り出した。
「何が?」
きょとんと返された応えすら腹立たしい。
「コーチ役の件だ。あれではお前自身の練習が出来ないだろう」
「練習はしてるよ。今日だってこれからロードに出るつもりだし」
「コーチ役などせず一緒に練習すればいいだろう」
「でも竜崎先生と決めたことだし」
「先生には俺が掛け合う」
「俺が好きでやってることだから」
ぴたり、と手塚の足が止まる。数歩進んで乾の足も止まった。
「手塚?」
俯いて何か考え込んでる態の手塚に、乾が小首を傾げて見る。
心なしか握り締めた拳が震えている、と思った瞬間、乾は反射的に飛んできたそれを受け止めていた。
「…吃驚した」
手塚が学生鞄を投げ付けたのだ。
「どうしたの、珍しいね」
テニスバッグを投げてこないだけさすがと言うべきだろうか。しかし彼らしくない行動であることに違いは無い。
手塚はきっと乾を睨みつけてうるさい、と怒鳴った。
「周りにあんなこと言われて悔しくないのか!」
「?…ああ、レギュラーに戻る気が無いとか諦めたとかそういうの?別に、言いたい奴には言わせておけばいいよ」
「そうではない!」
「じゃあ何?戻る気があるかどうかって事?勿論あるよ」
はい、と鞄を差し出せばべしっとその手を叩かれる。
乾はやれやれと溜息を吐くと、手塚の鞄も背負って踵を返した。
「もうこの話はお終い。さ、行くよ、手塚」
無言で睨みつけてくる手塚を無視して歩み出せば、暫くして背後で動く気配がした。
足音荒く追いついてきたかと思えば、乾の肩から自分の鞄を奪い、足早に乾を追い越していく。
「やれやれ、短気は相変わらずか」
ひょいと肩を竦めながら、乾は手塚の後を追った。




第二十七話「乾貞治の苛立ち」


地区大会、対玉林戦を勝ち抜いた青学メンバーは思い思いの場所に集まって昼食を食べていた。
「あ、手塚、不二、何処行ってたんだい?」
姿の見えなかった二人が帰ってきて、大石はほっとしたように肩を下ろした。
「うん、ちょっと柿ノ木を見てきたんだ」
「ああ、九鬼君の。どうだった?」
「五勝0敗で柿ノ木の勝ちだったよ」
「まあ、概ね予想通りって所だね…手塚?」
二人の会話に加わらず、視線だけを彷徨わせている手塚に大石が気付いた。
「どうかしたのかい」
「……乾はどうした」
あれ?と振り返ってみれば、さっきまですぐ傍らにいたはずの乾の姿が無い。
「さっきまで一緒だったんだけど…」
「乾のことだから、また偵察に出てるんじゃない?」
「……そうか」
頷きながらも、手塚の視線は乾を探して彷徨い続けていた。


九鬼が会場に設置された公衆トイレへから出ると、目の前に人が立っていて思わずつんのめるように立ち止まった。
「じゃ…」
邪魔だ、と睨んだ先には、自分より頭一個分背の高い、不可視の眼鏡を掛けた男がじっと自分を見下ろしていた。
「なっ、何だよっ」
その威圧感に思わず一歩退きながら、それでも睨みつけると男は唇に笑みを掃き、「九鬼貴一君だね」と柔らかな低音で囁いた。
「だったら、何だっ」
不意に右腕を掴まれてびくりとする。
「なっ…」
咄嗟に振り払おうとするが、やんわりと掴んできたくせにびくともしない。
「手塚の腕を、掴んだね」
尋ねる形をとっていたが、しかしその声音は確証を得て響いていた。
「だっ、だから何だってんだ!」
きゅ、と腕を掴む手に力が篭る。
「しかも、利き腕だ」
ここに至って、漸く九鬼は気付いた。
優しささえ滲ませるその唇と、暖かささえ感じるその声音。
しかしその薄いヴェールの向こうには、全く正反対の酷薄さを孕んでいる事に。
「ひっ…」
腕を掴む手はまるで万力で締めるように緩やかに、しかし確実に悪意を以ってその力を増していく。
「は、放…いっ…!」
必死でその手から逃れようと腕を引くが、やはりびくともしない。
ならばと右腕を振り、目の前の恐怖を殴り倒そうとするがあっさりとそれも受け止められてしまう。
「あれは今のところ最高傑作なんだ。勝手に触らないでくれるかな」
のっぺりとしたその声も、しかし暴れる九鬼の耳には入らない。
「放せ!放せえええ!!」
みしり、とまるで腕が軋む音が聞こえてきそうなほどの痛みに九鬼は半狂乱になって暴れた。

「その辺にしておいてあげなよ」

ふわっと割って入った声に腕を締め付けていた力が消え、九鬼は思わず尻餅をついてしまった。
「ぅわ、あああっ」
そのまま後ずさるように這い、慌てて立ち上がりながら逃げ出していった。
「……不二か」
「ちょっとやりすぎなんじゃないかな、乾」
不二の言葉にもそうかな、と乾は軽く返す。
「でもまあ、彼もちょっと調子に乗ってたみたいだから、丁度いい薬かな」
そう笑いながら不二は乾の傍らに立った。
ねえ、と見上げる表情はいつものアルカイックスマイル。

「祐太は手塚を捕らえるための餌だったの?」

しかし、その声音は鋭いものを備えている。
だが乾はいつも通りの無表情で、短く「違うよ」とだけ答えた。
「祐太のこと、大事だった?」
「ああ。好きだったよ」
不意に落ちる沈黙。
二人は無言のままじっと見つめあう。
「……そう」
最初に動いたのは不二だった。
「なら、いいんだ」
くるっと踵を返し、来た道を戻っていく。
そして不意に足を止め、「ああ、そうだ」と少しだけ身体を傾けて乾を振り返った。
「手塚が探してたよ」
「そうか」
言うだけ言うと、不二はまた向こうを向いて歩き出す。乾も不二の後を追って歩き出した。
「……」
背を向けた不二が小さく呟いた言葉は、乾の耳に届くことは無かった。

「だから乾って嫌いなんだ」





第二十八話「乾貞治の楽しみ」


「あら、お帰りなさい。貞治君来てるわよ」
帰宅するなりの母親の第一声に手塚は訝しげな顔をした。
今日は特に乾と会う約束はしていなかったはずだ。
部屋に上がってもらっているから、という母親の言葉に頷き返し、自室へ向かう。
「乾」
自室の扉を開けると、本棚の前でこちらに背を向けて立っている乾の姿が飛び込んできた。
「やあ、お帰り」
くるりと振り返った乾は読んでいた本をぱたりと閉じて笑った。
「今日は特に会う予定は無かったはずだが」
後ろ手に扉を閉めながら問いかけると、そうだね、と短い応えが返ってきた。
「ちょっと味見して欲しくてね」
本を棚に戻しながらの言葉に手塚は眉を顰める。
「味見?」
「そう、これ」
と彼が足元の鞄から取り出したのは、部活でも使っているドリンクボトル。
「ちょっと飲んでみて」
キャップを外して差し出されたそれ。
「……中身は何だ」
「いいから」
ちっとも良くない。
「断る」
本能的に怪しげな気配を察した手塚がきっぱりと断ると、乾は「そういえば」とボトルを差し出したまま笑みを深めた。
「どうだった?越前との試合は」
「?!」
目を見開いて目の前の男を見る。
乾は相変わらずの笑みを浮かべてボトルを差し出している。
「大石も、一緒だったんだろ?」
何故、と思う。
今日の越前との試合は、当の越前と自分、そして付き添った大石とそれを許可した竜崎スミレ以外は知らないはず。
「何故って顔をしてるね。だけど、残念ながら教えてあげないよ」
柔らかな声音に隠されたそれに手塚はぎくりとする。
乾が、怒っている。
何に対して。
越前と試合をした事に対して?(だがあれは必要な事だった)
同伴者に大石を選んだことに対して?(大石は副部長だ。人選に問題は無い)
それとも、この腕のことも知っているのか?(まさか。大石と竜崎先生以外は知らないはずだし二人が言うとも思えない)
何が乾の癪に触れたのだろう。
視線を落とす手塚に、更にボトルが突きつけられる。
「そんな事より、飲んでくれるよね?」
「……」
そろりとそれを受け取ると、乾は満足そうに「さあ、どうぞ」と笑った。
その声音は先ほどとは違い、純粋に楽しそうだった。
ストローに口を付けながら思う。

いつから乾の機嫌を損ねることが怖くなったのだろう。

少なくとも手塚は他人に対してそういった思いを抱いたことが無かったし、乾に対してだって、出会った頃はそうでもなかったはずだ。
なのに、気付けば乾の声音一つにこんなにも身を竦めている。
自分らしくないとも思う。
だが、どうしても身体が反応してしまうのだ。
「…っ…」
口内に広がった味に思考が奪われる。
口に含んでしまった分だけは何とか飲み下し、ボトルを乾に突っ返した。
「どう?」
「…何だこれは」
口内に残る、何とも言えない青臭さに手塚は顔を顰めた。
「乾特製野菜汁試作品その一」
今度の練習のペナルティに使おうと思って。とにこやかに笑う男に無性に腹が立ってくる。
何で自分がコイツの機嫌を窺わなくてはいけないのか。そんな気すらしてくる。
「で、どう?」
「不味い」
「美味しかったらペナルティにならないよ」
でも改良の余地有りだね、とボトルを鞄にしまう。
「普通に我慢できる程度じゃ詰まらないし」
ペナルティ作りを楽しむな、と言いたい所だったがまた飲まされては敵わないので黙っておくことにした。
この瞬間、青学メンバーが地獄を見ることになる事が決定した事を手塚は知らない。
むすっととしていると、鞄を肩から提げて立ち上がった乾がそれを見て可笑しそうに笑った。
「手塚、表情、硬いよ」
「悪かったな」
くくっと喉を鳴らして笑いながら乾はひょいと手塚に口付けた。
「口直し。それじゃあ、また明日」
「乾っ」
そのまま手塚の傍らを通り過ぎ、部屋を出て行こうとする乾の背に咄嗟に声をかける。
しかし乾は少しだけ振り返ると、ひらりと手を振って部屋を出て行った。
「味見、ありがとう」
その笑顔に、不穏な色はもう無かった。








第二十九話「観月はじめの楽しみ」


彼がパートナーに捨てられた、という話は有名だった。
彼らはこのスクールの金字塔そのものだったから。
そして憶測は憶測を呼んだ。
それは大抵が彼に原因があると捕らえられるものだった。
何しろ、誰より親密だと思われていた彼は、引っ越したこと自体を知らなかったのだから。
それから暫く、彼はコートには立たなかった。
そんな彼を再びコートに立たせたのは、彼らの専属コーチだった男だ。
片割れを無くしたとしても彼が金字塔の一翼であることに違いは無い。
失うにはスクールとしても惜しかったのだろう。
半ば強引に宛がわれた新しいパートナーとコートに立った彼の姿は哀れだった。
少し前まで本当に楽しそうにボールを追いかけていた彼とは全く想像もつかないほど淡々と、機械的にボールを追っていた。
新しいパートナーと息が合わなくてもお構いなし。
勝ちも負けも興味が無い。
そんな感じだった。
それからすぐに観月は父親の都合で山形に帰る事になり、スクールを辞めた。当然、学校も変わった。

実家に帰り、新しい学校、新しいスクールに通うようになってからも彼の事が頭を離れなかった。

もう一度、彼のあの笑顔が見たかった。
心の底からテニスを楽しんでいる、あの笑顔を。


都大会四回戦、青学は秋山三中と戦っていた。
圧勝ではあったが、何処と無く梃子摺っている仲間の姿に、乾は違和感を覚えていた。
彼らに、ではなく、秋山三中のメンバーに。
彼らもそれだけ必死だと言ってしまえばそれだけなのだが、しかし何かが引っかかる。
そして越前がコートインする時になってその謎は解けた。
越前に向かって話しかけている相手。
観月はじめだった。

「いいデータ、とれました?」
越前の試合をじっと見つめている背中に声をかけると、彼はゆったりと乾を振り返った。
「…ええ、乾君」
少し癖の入った、けれど艶やかな黒髪を指先で弄りながら、観月は小さく笑った。
「丁度良かった。あなたとお話したいことがあったんです」
「何かな」
つい、と乾に近寄ると、テニスをしているにしては白い腕を伸ばして乾の胸元に手を当てた。
「準々決勝でウチが青学に勝ったら、あなたを下さい」
艶やかな笑みに、しかし乾は相変わらずの無表情でそれを見下ろしている。
「ルドルフに来い、という事かい?」
しかし観月はいいえ、と楽しそうに笑う。
「僕に、です」
「…端的に言えば?」
「僕の恋人になってください」
「突然だね」
全く動揺の見られない乾の胸元を観月の手が滑る。
「いいえ。僕はこの時を待っていた」
知らなかったでしょう、僕が同じスクールにいたことなんて。
あなたの視線は、いつも彼に注がれていたから。
クラスも違う、ダブルスプレーヤーでもない僕の事なんて。
知らなかったでしょう。
「ずっと、待っていたんです」
「別に、身体だけならあげてもいいけど?」
「それでは意味が無いんですよ。僕はあなたの全てが欲しい」
観月の右手が胸元から肩、腕へと滑っていく。
「…物好きだね」
そしてその手は乾の手を取り上げ、持ち上げられた手の甲に観月が恭しく口付けを落とした。
「あなただからですよ」
それでも尚、乾は無抵抗だった。




第三十話「遠い昔の話(乾貞治)」



約束が不確かなものだと思い知ったのは、もう随分昔の話だ。
約束など所詮その時の勢いだけだ。後で取り消すことなんて造作も無い。
そんなもの、信じるだけ無駄なのだ。
泣きを見るのは、自分なのだから。



「考え事ですか?」
つい、と膝を指先で擽られて我に返る。
「…少し」
正直に答えると、彼はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「あなたのそういうところは嫌いではありませんが、今はボクに集中してもらえませんか」
「極力そうします」
するとその応えすらも可笑しかったらしく、男は更に喉を鳴らして笑う。
笑いながら、先ほど指を滑らせていた乾の膝頭に唇を寄せ、歯を立てた。
「…っ…」
微かな痛みが膝を走る。僅かに眉根を寄せると、彼は丸眼鏡の向こうからこちらを窺っていた。
恐らく歯型が付いたのだろう、それをなぞる様に舌が這うと今度は痛みとは違った、むず痒い様な感覚が下肢を緩やかに支配する。
生暖かい舌先は次第に脚を伝って下っていき、やがて足の甲に辿りついた。
きゅ、と強く吸われる感覚にぴくりと身体を揺らす。
この男は、こういう気障ったらしい事が好きだ。
誰もいない部室で手の甲に口付けられた事など、数えるだけ馬鹿馬鹿しい。
行為が終わった後も丁寧に乾の体を清めたし、服も着せてくれる。
特に靴下を履かせている時などは本当に楽しそうで、その顎を蹴り上げてやろうかと思った事は一回や二回ではない。
そして今、この時も乾の脚に靴下を履かせている最中だった。
彼が服を着せる順番はいつも同じだ。
まずシャツを羽織らせて、次に靴下。下着はその次だ。
そして乾が裾の長いシャツを着ていると彼は喜ぶ。
だから時折乾は裾の長いシャツを着て彼の家を訪れる。
別に恋人同士でもなければ、恋愛感情があるわけでもない(少なくとも乾はそうだった)のだから、彼がどんなフェティシズムを抱いていようと乾には関係なかった。
ただ、機嫌はとっておくに越したことは無い。それだけだ。
「それより、今日、手塚にちょっかいを出していましたね」
足首を這っていた舌の動きが止まる。
男は顔と上げると、見ていたんですか、と笑った。
「委員会じゃなかったんですか?」
確かに今日、乾は委員会の会議で遅刻した。彼が部活に訪れたのは殆ど部活の終わりに近い頃だったはずだ。
「窓から見てました。大石君もいましたね」
「大丈夫ですよ。部に関することをお話しただけですから」
乾は暫くの沈黙の後、そうですか、とだけ呟いた。
「信じてますよ、大和部長」
我ながら空虚な言葉だ、と乾は思った。




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