浅瀬を歩む君の滑らかな脚

第三十一話「観月はじめの苛立ち」


氷帝学園対辰巴台東戦は氷帝学園のストレート勝ちだった。
大した運動にもならなかった、とぼやきながら去っていく宍戸たちの後姿を手塚と不二が見送っていると、すい、と見慣れた長身が前を横切った。
乾、と手塚が呼び止める前に彼は去っていこうとする宍戸たちの背に声をかけた。
「宍戸、跡部」
乾の声に宍戸と跡部、そして樺地が振り返った。
「「乾じゃねーか」」
跡部と宍戸の声がハモる。
二人はお互いをちらりと見たが、すぐに視線を逸らして乾に向き直った。
「青学も順調みたいだな」
「ああ、ありがとう」
宍戸につられて乾も小さく笑って樺地を見る。
「樺地君も、久しぶり」
「…ウス」
のんびりとした空気に跡部がふん、と鼻を鳴らした。
「嬉しそうにしてんじゃねーよ。レギュラー落ちしたくせに」
彼にしては珍しくその声音に棘は無く、寧ろ真剣みを帯びていた。
「大丈夫、関東までには復帰してるから」
平然としてそう返せば、跡部は「よく言うぜ」と漸く笑って乾の胸元を拳で叩いた。
「逃がすなよ?」
「ああ、わかってる。もう少しだ」
すると、氷帝のジャージを纏った少年が駆け寄ってきた。
「跡部さん!ミーティングお願いします!」
「わかった、すぐ行く。…というわけだ。悪ぃな」
「いや、俺こそ呼び止めてすまなかったね」
「気にするな。…夜、電話する」
「ああ。…宍戸もたまには宍戸の方からメール頂戴」
「気が向いたらな」
「樺地君も、またね」
「…ウス」
じゃあ、と手を振って三人を見送った乾は、ふと視線を感じて振り返った。
「…どうしたの、二人とも」
珍しくきょとんとしている不二と、不機嫌そうな手塚の姿に乾は小首を傾げた。
「乾って、跡部たちと知り合いなんだ?」
「まあ、そうだね」
それがどうかしたのかと言外に滲ませて答えれば、不二はいつもの笑みを浮かべてそう、と頷いた。
「ちょっと意外」
その言葉に乾はひょいと肩を竦めて見せた。
「少なくとも、不二や手塚よりは付き合いは長いよ」


観月は苛立っていた。
D1は勝ったものの、それは自分のシナリオ通りではなかった。
自らのシナリオを崩される事が、一番嫌いだ。
その少しの歪がどれだけの大きな誤差を生み出す事になるのか、あの馬鹿どもはわかっちゃいない。
このままでは、D2のシナリオも狂いかねない。
「審判」
観月はベンチを立ち上がると、審判台を見上げた。


「嫌な間合いでタイムを取るな」
乾がぱたり、とノートを閉じて小脇に抱える。
「桃の士気をうまく殺がれちゃったね」
不二の言葉に頷きながら、手塚は乾を見た。
「どうやら、他にも目的があるみたいだぞ、乾…」
箒を手にした観月がフェンス越しに近づいてくる。
観月は薄い笑みを浮かべ、乾を見ていた。
「残念ですね、乾君。せめてレギュラー落ちしていなければコート内で僕と競えたのに…」
挑発的な言葉も、しかし乾には通じない。
「君の相手は不二だよ」
「そんな事は、些細な事です」
ちらとも不二を見る事無く観月は言い捨てた。
そして審判に促され、観月はベンチへと戻っていった。
「約束、忘れないでくださいね」
勝ち誇った笑みを浮かべて。


「乾、約束って?」
観月がベンチに戻ると同時に不二が問いかけてきた。
先ほどの観月の物言いなど、全く眼中に無いような素振りだった。
「ああ、ルドルフが勝ったら付き合ってくれって言われた」
ぴくりと手塚が震えた。
しかしそれをちらりと見やったのは不二だけで、乾は相変わらずコートを見ている。
「へえ、観月も引っ掛けてたんだ」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
「えー?だって事実だし。ねえ、手塚」
手塚はコートを見つめたまま微動だにしなかったが、眉間に刻まれた皺がその心情を表していた。
不二はひょいと肩を竦めて小さく呟いた。

「詰まんないの」



D2は思わぬ形で幕を閉じた。
気絶した柳沢は暫くして目を覚ましたが、観月は見向きもしなかった。
着るつもりの無かったジャージを纏い、今日何度目か判らない舌打ちをする。
役立たずどもが。
しかし幸いにも祐太はあの馬鹿どもの中で一番御しやすい。
祐太には何としてでもあの一年を潰してもらわなければならない。
そして自分が不二を倒し、青学を下してやるのだ。
彼を、手に入れるために。




第三十二話「跡部景吾」



俺たちはきっと、同じものを求めているのだ。


「跡部」
会場を出て行こうとする跡部と樺地を引き止めたのは、乾だった。
お互いジャージから制服に着替えており、帰り支度も済んでいる。
乾は辺りをちらりと見渡し、「宍戸は?」と問いかけてきた。
「知るかよ」
敗者に用は無い、と言わんばかりの口調に乾は肩を竦める。
「相手が悪かったね」
「誰であろうと負けは負けだ」
「宍戸はレギュラー落ち?」
「ああ」
「氷帝は厳しいね」
俺、氷帝行かなくてよかったよ、と笑う乾にそれで、と先を促した。
「うん、これからそっち、行ってもいいかな」
「アイツはどうした」
「手塚は今、機嫌が悪くてね。放っておくことにしたよ」
「いいのか?」
機嫌とらなくても、と言外に滲ませれば、いいんだ、と彼は笑う。
「何故自分が不機嫌なのか、それをよく考えてもらおうかと思って」
跡部は暫く乾の笑顔を見上げた後、お前にだけは捕まりたくない、と呟いて樺地を振り返った。
「樺地、携帯」
「ウス」
差し出された携帯電話を操り、耳に当てる。
すぐに出た相手に乾を連れて帰る旨だけ伝え、返事も聞かずに電話を切った。
「泊まって行くのか?」
樺地に携帯を渡しながら問えば、笑顔のまま「そうなるんじゃないのかな?」と返してきた。
「着替えもちゃんとあるよ」
「…お前、ウチが負けるってわかってたな?」
「あは、だって跡部、不動峰が無名校だからってノーマークだっただろ?だからオーダー如何では82%の確立で負けると思ったんだよ」
「で?慰めてやろうとでも思ったのか?」
まさか、と乾は肩を竦めて笑った。
「跡部は別に落ち込んでないでしょう?どうせ慰めるなら宍戸の所へ行くよ」
「止めておけ。勘違いされるぞ」
「そう?でも俺、宍戸のこと好きだよ?」
「だから駄目だっつってんだろ」
するとピルルル、と甲高い電子音が二人の間に割って入った。
「樺地、取れ」
着信音で相手を理解した跡部は自分が出る必要も無い、と言わんばかりだ。
「ウス」
二つ背負ったテニスバッグの内、跡部のバッグから携帯電話を取り出すと(先程とは違うデザインだ)通話ボタンを押して耳に当てた。
そして一言だけ返事をして、あっという間に通話は終了した。
「…車が、到着したそうです」
「そうか。なら行くぞ」
さっさと踵を返した跡部に樺地が続き、乾もその後を追って歩き出した。


それがベッドの中であっても、彼らの会話は艶とは遠いものが多かった。
テニスの事、授業の事。専ら学校に纏わる話が多かった。
跡部は部長兼生徒会長として、乾は特進クラスで珍しい体育会系部活所属者としてお互いにストレスも多い。
それらを発散する事が第一の目的だった。
そもそも彼らは恋人同士でもないのだから、会話に艶を求める方が間違っているのだろう。


跡部が乾と出会ったのは、二人がそれぞれテニススクールに通っていた頃だった。
跡部が通っていたスクールが他のスクールとの交流という名目で練習試合を行った。
そこに乾はいた。
彼の噂は、跡部も知っていた。
ダブルスのパートナーが去って、シングルスプレイヤーに転向したらしい彼は一冊のノートを手に、ひっそりと立っていた。
試合をしている同世代の少年たちをじっと眺めては時折何か呟きながらノートに書き込んでいく姿は機械的で、空虚すら感じた。


「跡部?」
はっとして顔を上げると、シャワーから上がった乾が小首を傾げてこちらを見ていた。
「珍しいね、ぼんやりするなんて」
やっぱり負けたのが悔しかった?などと言いながら乾はベッドに腰掛けた。
「そんなわけあるかよ。コンソレーションに勝てば問題ねえし、そもそも負けたのは俺じゃねえ」
結局開いただけで読まなかった洋書を閉じ、ナイトテーブルの上に放り投げた。
「それもそうだね。あ、もっとそっち寄ってくれる?」
パジャマ代わりのシャツとスウェットパンツを纏った乾がシーツを捲り上げ、もそもそとベッドの中に入ってくる。
「オイ」
客間が用意されているというのに、図々しくもここで寝るつもりらしい。
「腰痛のため歩くのを拒否します」
「さっき平然と歩いてただろうが」
「気のせい気のせい」
さっさと自分のスペースを確保して丸くなってしまった乾に、こうなってはもう駄目だと知っている跡部は溜息を吐いてナイトテーブルに設置されたスイッチを押した。
途端、暗転する室内。
背もたれ代わりにしていた枕を直し、跡部も横になる。
「おやすみ、跡部」
「ああ」
二人で寝ても十分広いベッドは、あっさりと二人を眠りの世界へと導いた。




第三十三話「海堂薫の戸惑い」


「…ああ、乾だけど。関東トーナメント表、見たよ。…ああ、それはお互い様だ。…うん、無事復帰したよ。…ははっ、ごめん、心配かけたね。…まあ、それもそうなんだけど。……そうだね、ウチはD2が弱いから。うん、いいよ。別に隠すほどの事じゃないし…それに今回はちょっと考えがあってね。ああ、やるからには勝たせて貰うよ…何が何でも、決勝まで行かないと」
自分自身の答えを、知るために。



初めてあの人の素顔を見たのは、去年の冬だった。
家の鍵を忘れて、部室に探しに戻った時。
その時初めてあの人の素顔を見た。
それと同時に、あの人と手塚部長が親密な仲だと知った。
足早に部室を後にして、次第に混乱が収まってくると自然と思った。

ああ、あの二人、そういう仲だったのか、と。

不思議と嫌悪感は無かった。
あの人は元々不思議な雰囲気を纏った人だったし、何より手塚部長があんな無防備に身体を預けて寝入ってしまえるのだ。余程あの人のことを信頼しているのだろう。だから驚きはしたけれど、さほど抵抗は無かった。
何となく、羨ましいと思ったのは気のせいだろう。あの人の思いもよらぬ素顔が印象的だっただけだ。ただ、それだけなのだと思う事にした。
なのに、あの人は手塚部長とはそんな関係ではないとわざわざ告げてきた。
それ以来、あの人は何かと俺に構った。
最初は手塚部長との事を気にしてるのかとも思ったけれど、年明けの合宿で一緒に寝ていた所を不二先輩たちに見られた時も平然としていて、隠している様子は無かった。
寧ろ優しげな笑顔さえ浮かべ、手塚部長を特別だと言い切る。
なのにその口で付き合っているわけではないとも言う。

あの人の真意が何処にあるのかがわからない。

あの人はいつもそうだった。
不二先輩とはまた違った、薄い笑みを浮かべて考えを読ませない。
結局自分はあの人の事を何も知らないのだと思うたび、何故か胸の奥が傷む。
練習メニューを組んでくれる時も、アドバイスをしてくれる時も、何処か薄氷めいたものを感じる時がある。

そう、今だって。



「海堂…俺とダブルス組んでみるか?」



この人は何を…何処を、目指しているのだろう。







第三十四話「宍戸亮」


From:乾貞治
Sub:今日、
----------------
部活が終わったら
会いたい。


狙い済ましたかのようなメールに俺は小さな画面を凝視する。
ヤツか、と跡部を窺うが、跡部は忍足と何か話してて俺の視線には気付かない。
仕方ない。小さく溜息を吐いて携帯を鞄の上に放り投げ、着替える手を進めた。
「長太郎、ワリィが先帰るわ」
「え?でも、髪揃えないと…」
ざんばらに切った俺の髪を見て眉尻を下げる長太郎に、構わねえ、と返す。
「キャップ被っちまえばわかんねえよ。ちょっと急ぎなんだ」
すると長太郎はわかりました、とあっさり引いた。こいつのこういう素直な所は好きだ。
制服に着替え終わり、放りっ放しだった携帯を取り上げる。


To:乾貞治
Sub:Re:今日、
----------------
今部活終わった。
これから帰る。


あいつにはこれだけで十分だ。
後は勝手に電車の時間だの何だのを計算して、俺が駅なり家なりに着く頃にひょっこり現れる。
あいつが来るときはいつもそんな感じだ。

俺が乾を知ったのは、一年の時だった。
他校のヤツラとは違い、堂々と偵察に来ていた。
しかも当時から有名だった跡部と気安く話していたのが興味を引いた。
跡部はあれでいて孤独だ。
常に人に囲まれ、注目を浴びていても、あいつ自身が樺地以外の人間と行動を共にしている所を見たことが無い。
誰をも跳ね除け、樺地以外の人間が自分の物に触れる事すら厭うくせに、乾にだけは自分から歩み寄り、声をかけていた。

あの跡部の友人。
それが俺の第一印象だった。


「宍戸」
電車を降り、改札口を通ると見慣れた長身がひらりと手を振った。
「よう。待たせたな」
「いや、丁度来た所だ。それに急に呼び出したのは俺だしね」
じゃあ行こうか、とまるで自分の家に行くかのように彼は歩き出した。
二人が話すのは専らテニスと学校に纏わることばかりだった。跡部ともそんな話ばかりだ、と言っていた気がする。
跡部はどうなのかは知らないが、宍戸は余り部活の話をするのは好きではなかった。
乾自身に含むところは無いのだが、仮にも敵校で、今度の関東大会では初戦で当たる。相手の手の内を探り合うような会話はしたくなかった。乾もその点は同じ思いなのだろう、テニスの話はしても、部活中の話は殆どしない。
だから宍戸がレギュラーに復帰した事も、鳳とダブルスを組む事も言っていない。
ただ、と宍戸は乾を見上げる。
この髪に気付いているはずだ。
なのに乾は何も言わない。
やはり跡部が洩らしたのか、そう思いながら見ていると、視線に気付いた乾が小首を傾げて見下ろしてきた。
「どうかしたかい?」
「…いや、何でもねえ」
「あ、もしかして手土産にグランディールのチーズサンド買ってきたの、気付いた?」
全然見当違いだ。
が、グランディールのチーズサンドは好物なので黙っておくことにした。


「おかえり、亮…ってあなたどうしたのその髪!」
帰宅するなり、出迎えた母に悲鳴を上げられた。
説明するのが面倒で、適当に誤魔化していると乾がすっと間に割って入った。
「お久しぶりです」
「あら、乾君、お久しぶりね。また身長伸びたんじゃない?」
「ええ、184センチになりました。今日は用が済んだらすぐお暇しますのでお構いなく」
それじゃあ、と乾はさっさと宍戸を促して宍戸の部屋に向かった。
「さて」
部屋に二人きりになるなり乾は鞄から新聞紙の束を取り出し、唖然としている宍戸の目の前で床に敷いたかと思えば勉強机から椅子を引っ張りだして部屋の中央に据えた。
「宍戸、座って」
「はあ?」
意図が理解できずにいると、いいから、と無理やり椅子に座らされた。
「おい、乾?」
「いいから、じっとしてて」
問いかける間にも宍戸の首周りにタオルが巻かれ、その上にナイロン製のケープが巻かれた。
ここに至って漸く宍戸は乾の意図を悟った。
「……腕に自信あってのことだろうな?」
シュ、と水らしきスプレーを髪に吹きかけられ、一瞬目を閉じる。
「手先は器用な方だよ。それにさっきネットで切り方とか読んだから」
ぶっつけ本番かよ!
しかしそんな突っ込みも、しゃきしゃきと鋏を通される音がして飲み込んだ。
暫くの間、鋏が通る音だけが室内に響く。
櫛を通される感触に目を細めていると、「跡部に聞いたよ」と乾が呟いた。
「普通の鋏で切ったんだって?」
やはり跡部か、と思いながら、だからどうした、と返せば嘆かれた。
「折角の綺麗な髪なのに」
しかしこれは宍戸なりのけじめなのだ。
乾もそれを分かっているのだろう、それ以上は何も言わなかった。

「…はい、終わったよ」

それから暫くして、鋏の音が止んだ。
乾の手が髪を払うようにさっさと動いた後、ケープとタオルが外された。
「どう?」
手鏡が渡され、ざっと見てみる。
「…悪くねえんじゃねえ?」
プロほどとは行かないものの、十分見れるようになっている。
手鏡を返しながらそう言うと、良かった、と乾は笑った。
「宍戸」
「あ?」
彼はすいっと宍戸の前に回りこむと、切り立ての髪をくしゃりと撫でて笑った。

「レギュラー復帰、おめでとう」

宍戸は目を見開いて言葉を失った。

反則だろ、それ。





第三十五話「乾貞治の甘言」



唇を貪りあいながら豪奢なベッドに倒れこんだ時、メールの着信を知らせる音が室内に響いた。
「ん…ごめん、跡部、手塚だ」
専用の着信音に乾は覆いかぶさってきた跡部を押し止めた。
ちっと舌打ちする彼の下からするりと抜け出し、テニスバッグの上に放りっ放しだったクラムシェル型の携帯電話を手に取る。
そしてその内容に目を通した乾は、微かに唇の端を歪めて笑った。
すぐさま返事を打ち、送信する。
「悪い、跡部。手塚からのラブコールだ。今日は帰らせてもらうよ」
冗談めいて言うと、跡部はベッドの上で寝そべりながら鼻を鳴らして笑った。
「とうとう手塚もお終いか」
跡部の言い様に乾はくつくつと笑う。
「なあ、跡部。俺はね、ジレンマに悩んで打ちのめされて粉々に砕け散っても尚、俺の名前を呼ぶ手塚の姿が見たい。ぼろぼろになって這いずりながら俺の脚に縋りつく手塚の姿が見たい」
緩やかに両手を広げ、心底楽しそうに言う男に跡部は視線を伏せる。
「…哀れだな」
「手塚が?それとも俺が?だとしたら、跡部も同じだよね。相手や過程は違えど、最終的に欲しいものは一緒なんだから」
そして乾はテニスバッグを背負い、ドアへ向かって歩き出した。
「跡部もいい加減素直にならないと、俺が貰っちゃうよ?」
「ばーか、樺地が俺様以外を見るわけねえだろ」
それもそうだ、と笑って乾は跡部の部屋を後にした。


手塚の家を訪れると、いつもならこの時間帯は彩菜が夕食の支度をしている音が聞こえてくるというのに、今日はしんと静まり返っていた。
すると、母親は友人と泊まりで旅行に行っていると手塚が説明した。父親も残業で遅くなると連絡があったし、祖父も寄り合いで遅くなるとの事だった。
手塚の自室に通され、部屋の中央に置かれた折りたたみ式の小さな円卓の前に腰を下ろした。
暫くして手塚もやってきて、乾と自分の前に冷茶の注がれたグラスを置いた。
それを早速一口飲んで、ウーロン茶である事に気づく。偶然かもしれないが、もしかしたら以前乾が麦茶よりウーロン茶の方が好きだといった事を覚えていたのかもしれない。
ことり、とグラスを置いて乾は手塚を見た。
「それで、話って何?」
「…その、先日の…ルドルフの、観月のことなのだが…」
言いにくそうに視線を逸らしながら告げた手塚に、観月君がどうかした?と返す。
「その、もし、ルドルフが勝ったら乾と…その…」
「ああ、付き合ってくれってヤツ?」
「…どうなったのかと…」
どう、と繰り返して乾は小首を傾げた。
「どうって言われても、ウチが勝ったんだから、無効でいいんじゃないのかな?」
「あれから、彼は、何か…」
「別に?あれ以来会ってないし」
「…そう、か」
明らかに安堵と分かる息を吐いた手塚を見ながら乾はまた一口、グラスから茶を飲んだ。
「それで。まだあるんでしょ?」
「……氷帝戦でのオーダーの件だが…」
「海堂とダブルスを組んだ事?」
図星なのだろう、気まずげに手塚は視線を逸らす。
「別に深い意味は無いよ。ただ、ウチはD2が弱い。俺なら海堂のサポートも出来るし、ダブルスコートなら海堂のブーメランスネイクも使える」
「それだけ、なのか?」
「何が言いたいの、手塚」
「……最近のお前は、随分と海堂に入れ込んでいるように思える」
「海堂は飲み込みが早いからね。俺のメニューにも付いてこれてるし」
「…それだけ、なのか」
「手塚、それさっきも言った。…ねえ、手塚」
すいっと円卓を廻ると手塚の真横に擦り寄り、びくりと身を強張らせるその耳元で低く囁いた。
「何を、言って欲しいの?」
「…っ…」
「ねえ、手塚…俺は手塚が好きだよ。手塚の望むようにしてあげる。だから、言ってみてよ…」
「…っ乾!」
身を捩って退こうとする手塚の身体に腕を回し、ぐいっと抱き寄せる。
手塚の身体はいとも簡単に乾の腕の中に落ちてきた。
「ねえ、手塚…俺が他の人と付き合ったりしたら、イヤ?」
「……」
短い沈黙の後、こくり、と腕の中で小さく頷いた。
「だったら、ねえ、手塚…ちゃんと言ってくれないとわかんないよ?」
「………」
戸惑うように乾の腰元に当てられていた掌がそろりと背に回される。
「…俺、は…」
「うん」
「……」
再び黙り込んでしまった手塚に、それでも乾は根気よく付き合った。
ぎゅ、と背に回された手が乾のシャツを掴む。
「………乾が、好きだ」
「うん」
「お前が、俺をそういう風に思ってないことは分かってる…だが、俺は、お前が好きだ」
「うん」
「お前が他の誰かと親しくしているだけで、無性に苛立って…もし親密な付き合いを、と思うと居ても立ってもいられなくなる」
すまない、としがみ付く手塚の髪を撫で、そこに口付けを落とした。
ねえ手塚、と乾は柔らかく笑う。
「祐太君が転校した時のこと、覚えてる?」
「?…ああ」
「あの時部室で言ってくれたこと、もう一度言ってキスして?」

「…お前が望むなら、望むだけ傍に居るから…」

手塚は逡巡した後、そう告げて乾に口付けた。
「んっ」
触れるだけのはずだった口付けは、乾の手により頭を固定されてしまい、より深いものへと変わっていった。
「っ…ん、ん…」
唇を割って入ってきたぬるりとした熱い舌に手塚の身体が震えた。
それはゆるゆると口内を這い回り、舌を絡めてくる。
それに応える様に舌を絡ませれば、たどたどしいそれを導くように乾の舌が蠢く。
「……っは…ぃ、ぬい…」
濡れた唇を乾の舌先が這い、ちゅ、と音を立てて唇の端にも口付けられる。
「ねえ、手塚。俺はね、手塚が一番好きだよ。一番大切。だから、ね」
手塚の顎を指先で持ち上げ、ノンフレームの眼鏡を取り上げて円卓に置き、そして己の重量のある眼鏡も同じ様に置いた。
途端に視界がぼやけたが、これだけ近づいていればさして問題は無い。
手塚の薄らと朱の射した頬も、とろりと潤んだ瞳も、濡れた唇もはっきりと見ることが出来た。
「手塚は俺の好きな手塚でいて。そうすれば、俺はずっと手塚の傍にいるから」
乾は優しい微笑みを浮かべてもう一度口付けた。
そしてそのまま床に押し倒しても、手塚は抵抗しなかった。

余りに可笑しくて、笑い出したい衝動を抑えるのに苦労した。





第三十六話「乾貞治の見る夢」



あれは、一年生の夏の事だった。

「乾君。手塚君の事は好きですか?」

不意に大和部長がそう聞いてきた事があった。
情事の後だったか、俺はベッドで寝転んでいて、彼はベッドサイドに座っていた。
「はい、好きです」
俺は特に考えることも無く答えた。
この際、どう答えたって同じなのだ。ならば障りの無い答えを言っておくのが妥当だと判断した。
「なら、手塚君を支えてあげてくれませんか。彼はいずれ部長の座に着く子です。その傍らを、あなたが支えてあげてください」
大和部長の言葉に少し考え込んで、それは、と返した。
「副部長の座を目指せ、ということですか?」
「そう取ってもらっても構いません」
「お断りします」
考えるより先に応えが口をついていた。
「俺にはそういう責任のある役職は向きませんし、面倒事は真っ平御免です。大石君あたりの方が適任でしょう」
第一、と続ける。
「俺はきっと、手塚を壊します」
俺の予定通りに進めば、手塚は俺の私利私欲の為に壊れるだろう。
俺の求める条件の全てを満たしているのは、今のところ手塚だけなのだから。
「それでも構いません」
しかし彼はあっさりとそれを認めた。
この人は俺が手塚に何を求めているか、きっと知っている。
それでも尚、俺を手塚の傍に置こうというのか。
「良いんですか」
構いません、と彼はもう一度言った。
「君一人に壊されるようなら、手塚君もそれまでなのでしょう」
ですが、と彼は笑った。
「ボクが思うに、手塚君はそれほど弱くは無いですよ」

途端、大和部長の声が遠くなる。


――ねえ、乾君。

君は、手塚君が欲しいんでしょうか。それとも……を……のかな?


大和部長?よく聞こえません。
大和部長?


――…どっちなんでしょうね?



「……」
眼を開けてから暫く、ぼんやりとしていた。
懐かしい夢を見た。
最近は彼の事などすっかり忘れていたというのに。

乾にセックスを教えたのは大和だった。
知識でしかなかったそれを、大和は一つ一つ丁寧に乾の体に刻み込んだ。キスの仕方も、身体の開き方も、誘い方も全て彼との付き合いで学んだといえるだろう。
抱かれる事に差して抵抗は無かったし、何より大和は乾を愛してはいなかったが優しかったので丁度良かった。
しかし大和との関係は彼の卒業と同時に自然と終わり、その後好奇心で女と付き合ったこともあったが、どれも長続きしなかった。
そもそも乾は女の体に知的好奇心はあっても、性的興味を抱けなかった。
あの女独特の柔らかい体が苦手だった。
あの肉の柔らかさが嫌だ。
簡単に折れそうな骨格が嫌だ。
きゃあきゃあとはしゃぐ甲高い声が嫌だ。
それらは乾に性的衝動よりも破壊衝動を湧き上がらせた。
その細い手首がどれ位の圧力でへし折れるか試してみたかったし、あの括れた腰をどの程度の脚力で蹴りつけたら壊れるか知りたかった。
大人の女性の化粧は見ていて楽しめたが、中学生や高校生の肌を痛めるだけのそれは見ているだけでタワシで擦り落としてやりたくなる。
だから女は、主に同世代の女子は苦手だった。
「……」
そこまで思いを廻らせ、徐に暗闇の中で身を起こした。
布団が重力に従ってずるずると腰元に落ちる。
何故か無性に苛立っている自分に気づいた。
時間を確認しようとして、ここが自室ではないことを思い出す。
ここは手塚の部屋だ。
夜明けにはまだ早いのだろう、傍らのベッドでは手塚が寝息を立てている。
身を乗り出して腕を伸ばせば、簡単に手塚に届いた。
そして手塚の頬に触れる直前でその手を止める。

ああ、そうだ、手塚を抱いたんだった。

然したる感慨も無く、ただそう思う。
今度こそ、自分は手に入れる事が出来るだろうか。
愛情でも信頼でもない。真摯なものでもない。
ただ一つの事実を。

「…手塚」

小さく囁いてその頬に触れる。
指を滑らせてその細い神にもぐらせれば、気配が動いた。
「……いぬい?」
ぼんやりとした声に、ごめん、と謝る。
「起こしちゃったね」
髪を梳きながら言うと、いや、と小さな応えが返ってくる。
「体、大丈夫?」
「…大丈夫だ」
「そう、良かった。ねえ、手塚、そっち行っても良い?」
甘えを含んだ声で囁けば、暫くの沈黙の後、了承を得た。
シングルサイズのベッドに男二人は狭かったが、構わず潜り込んで手塚の体を抱きしめる。
「…夢みたいだ」
不意に呟かれた声に、何が?と返す。
「乾が、傍にいてくれることが」
「一年の時からずっと傍にいたじゃない」
そうじゃなくて、と手塚は乾の胸に額をすり寄せながら呟く。
「お前は糸の切れた凧みたいに気まぐれだから」
「あは、それって俺がふらふらしてるって事?」
否定はしないけど、と笑えば、手塚の腕が背に回された。
「…もう、何処にも行かないでくれ」
悲壮ささえ含んだその低い声に突き動かされ、手塚の上に圧し掛かるようにしてその体を組み敷いた。
「いぬ、んっ…ぅ…」
衝動のままにその唇を貪り、舌で口内を侵せば手塚の手が乾のシャツを握り締める。
「んっ…」
手塚の脚を割るように己の体を滑り込ませると、びくりと手塚の体が震えた。
「ぁっ、い、ぬいっ…」
ぐい、と己の中心を手塚のそこに擦り付け、刺激を加える。
「だったら、俺を離しちゃダメだよ」
次第に形の変わってきたそこに指を滑らせ、パジャマ越しに撫で上げれば手塚の体は面白いほどに跳ねた。
「俺をちゃんと捕まえておいて。独りにしないで。じゃないと俺、また何処かへ行っちゃうよ?」
「や、ぁ、いぬいっ…」
ふるふると首を横に振る手塚の耳元で乾は低く囁く。
「何?ちゃんと言って?」
「ぁっ…いる、から…乾の傍に、ずっと…」
だから、と続ける手塚の唇を己の唇で塞ぎ、続く言葉を飲み込んだ。
「…ねえ、手塚。もう一回、抱いてもいい?」
短い逡巡の後、小さく頷いた手塚の目尻に唇を落とした。

夜明けには、まだ遠い。





第三十七話「真田弦一郎」


傍らで起き上がる気配に手塚は目を覚ました。
睡眠時間が足りてないせいか、少々頭が重い。
いや、それよりも全身の倦怠感の方が強い。
しかしその倦怠感は自ら望んだ結果であり、寧ろ幸福感すら齎すものだった。
「…乾?」
そしてその甘い痛みを齎した当人である乾は、静かにベッドを降りながら振り返った。
「あ、おはよう。まだ寝てても大丈夫だよ」
床に敷かれた布団の上に散らばった衣類の中から下着を取りあげると、それを穿きながら乾は言った。
時計に視線を向けると、確かにいつもよりかなり早い時間だ。
「…何処かへ、行くのか?」
手早く服を纏う乾にそう問いかけると、うん、と短い応えが返ってきた。
「昨日、夜のロードに行けなかったから。ちょっと早めに朝ロード行こうかと思って。…ああ、手塚は寝てなさい。無理はダメだよ」
起き上がろうとして押し戻されてしまい、手塚はむっとしながら乾を見上げた。
「そんな顔してもダメ。出来れば今日の部活も大人しくしてて。無理して熱でも出したら大変だから」
しかし、と言い募ると軽い口付けが落とされて黙り込む。
「いいから」
ね、と微笑まれては何も言えなくなる。
着替えの入った小さな鞄とテニスバッグを提げる乾を恨みがましく見上げていると、くしゃりと髪を撫でられた。
「また後でね」
ギリギリまで体を休めておくんだよ、と念を押して乾は部屋を出て行った。
「……」
一人残されたベッドの中で、手塚はくるりと小さく丸まった。
乾の残した温もりが、まだ残っているようだった。


手塚の家を後にした乾は、一旦マンションに戻り、ジャージに着替えてロードワークに出た。
未だ夜明けの冷気を残したままの空を見上げ、今日も晴れるな、と思いながら走り出す。
今日はいつもより時間があるから少し遠出しようか。
ルートを何パターンも組み立てながらとりあえずいつもどおりのルートを走る。
そしてそのままいつもならインターバルに入る箇所で歩調を緩め、しかし復路につく事無くそのまま再び駆け出した。
「うん、今日はこのルートにしよう」
独り言を呟きながら脳内地図を広げる。
このまま行けば神奈川だ。
神奈川には余り足を踏み入れたくは無かったが、この時間帯だ。まず大丈夫だろう。
一人そう納得しながらそのまま県境を軽々と越えて神奈川へと突入する。
「…ん?」
川沿いに暫く走っていると、こちらに向かって走ってくる人影に気付いた。
少しずつ近づいてくるその人物は、乾と同じ様にジャージを着込み、ジャージと同じ黒の帽子を目深に被っている。
加えてその体格から導き出された該当人物に、乾は微かに目を見開いた。
さすがに彼の行動パターンまではデータに無かった。
タッタッタ、と自分の走る足音を聞きながら、アレはちゃんと前が見えているのだろうか、と思う。
そしてすれ違うまであと少し、という所に来て悪戯心が湧いた。
このまますれ違って終わりのはずだったその瞬間、乾は口を開いていた。
「やあ、真田」
すれ違い様にそう言って振り返ると、彼も足を止めてこちらを振り返っていた。
「こんな早朝からご苦労様」
俺も人の事言えないけど、と笑うが、彼は変わらず訝しげな顔で乾を見ている。
「…誰だ」
「最もな質問だね。俺は乾。今日は偶々こっち方面に走ってきただけだったんだけど、真田はいつもこのルートなの?」
「…そうだが」
「あ、何故自分を知っている、って顔してるね。だって真田、有名じゃない」
「立海の生徒か?」
「ううん、違うけど俺もテニスしてるから」
「そうか。…それで、何か用か」
「いや、ただ一方的ではあるものの知った顔を見つけたので挨拶をしてみただけ。ごめんね、引き止めちゃって」
「…いや」
それじゃ、と軽く手を上げて再び走り出すと、暫くして背後でも走り出す気配がした。
復路でも会えるだろうかと思いながらその確立を算出してみるが、そもそも彼のルートが不明である以上、正しい確立を導き出すことは出来なかった。
「…幸村に聞いてみようかな」
乾は楽しそうに呟くと、走るスピードを上げた。




第三十八話「幸村精市」


いつもの様に受付だけを済ませて乾は病棟へと向かった。その足取りは馴れたもので、迷う事無く進んでいく。
やがて一室の病室の前に立ち止まり、軽くノックをした。
「どうぞ」
室内から響いた声に遠慮なく扉を開く。
「やあ、調子はどうだい。幸村」
そこにはベッドの上で身を起こした幸村精市の姿があった。
「乾」
「これ、差し入れ」
はい、と提げていた小さな紙袋を幸村に差し出す。
幸村は受け取るなり早速その中身を覗き、嬉しそうな声を上げた。
「この前言ってた本だね?ありがとう」
ベッドサイドのテーブルにそれを置き、乾に椅子を勧める。
「明後日だな。関東大会」
椅子に座りながらそう言うと、そうだね、と穏やかな声が返ってきた。
「うちと青学はブロックが違うから、戦う時は決勝だね」
「ああ、そうだな」
ふと二人の間に沈黙が落ちる。お互い笑顔のままだったが、何処と無く気の詰まった空間に、幸村がそれより、と声を上げた。
「今日はどうしたの?いつもは午前中に来るのに」
「うん、今日は簡単な視力検査だけなんだ。手帳の更新が近いから、診断書を出してもらおうと思って」
「ああ、そうだったんだ。何かあったのかと思っちゃった」
安堵の笑みを浮かべる幸村に、「何かあるかと言えばあるよ」と乾は笑った。
「真田に会ったよ」
「真田に?」
「うん、朝ロードで走ってたら、ばったり」
へえ、と返してから幸村はあれ?と考え込む。
「ロード途中って…乾、こっちまで走ってきたの?」
「ああ。ちょっと走り足りなくてね」
「相変わらず凄いね、乾は」
「これくらいしないと置いていかれちゃうからね」
するとノックの音が間に割って入った。二人は一瞬顔を見合わせたが、乾が小さく頷くと幸村も同じ様に頷いて扉へ向かって声をかけた。
「どうぞ」
すると扉はするりと横に滑り、そこから乾とさほど変わらぬ長身の青年が入ってきた。
「真田」
噂をすれば、ってヤツだね、と幸村が笑う。
「む、来客中だったか。すまない…ん?お前は…」
訝しげな顔をする真田に乾はやあ、と片手を挙げて笑った。
「確か、乾といったな。幸村と知り合いだったのか」
「病院仲間って所かな」
「お前がか?」
「真田」
幸村の咎めるような声音に真田がはっとして「すまない」と軽く頭を下げた。
「いいよ、気にしてない。いつも定期検査に来るついでに幸村に会いに来てるんだ。それより、この時間帯はまだ授業中じゃないのかな?」
「職員会議のため五時間目終了と同時に強制下校させられた。全く、明後日は関東大会だというのに、教師の都合で部活もさせんとは何たることだ」
「でもみんなの姿が見えないって事はスクールに行ったんだろう?」
「ああ。赤也辺りが煩かったが、先に行かせた」
「…それじゃあ、俺は行くよ」
お邪魔しちゃ悪いし、と席を立つと幸村が乾、と呼び止めた。
しかし乾はいいから、と手をひらりと振って真田の傍らをすり抜けて扉に向かう。
「どっちにしろそろそろ時間だろうから。それじゃ、また来るよ。真田も、またね」
「…ああ」
「気をつけてね」
心配げな幸村の声に乾は笑って病室を後にした。
「…何と言うか、不可思議なものを纏った男だな」
乾の出て行った扉を見つめながら真田が呟くように言う。
「…そうだね…乾は……あれ?」
ふと視線を落とした幸村は、椅子の陰に何か落ちている事に気づいた。
「俺が拾おう」
ベッドを降りようとした幸村を制し、真田がそれを拾い上げた。
青のビニル地に、金の文字で押された「身体障害者手帳」の文字。
「それ、乾のだよ」
裏返すと、確かに乾の名と、証明写真が貼られている。
届けないと、と慌ててベッドを降りる幸村を真田は引きとめ、再びベッドに座らせた。ぺて、と音を立ててスリッパが落ちる。
「俺が行く。今ならさほど遠くへ行ってないだろう」
そのまま踵を返して出て行く真田の背に幸村の声が被さった。
「眼科に行くはずだから」


病室を出て辺りを見回すが、あの長身は見当たらない。
真田は幸村の言っていた通り外来へと向かって歩き出した。
外来へ向かうにはエレベーターを使うのが一番早いのだが、エレベーターの前には既に何人か人が待っていたので真田は階段で行く事にした。
外来エリアに入ると一気に人が多くなる。
真田は辺りを見回しながら足早に人混みを通り抜けていく。
…いた。
眼科に向かって歩く長身。
「乾」
その背に声をかけると、振り返った男は真田の姿を認めるなり、あれ、と小首を傾げた。
「真田、どうしたの?」
「忘れ物だ」
手にしていた手帳を差し出すと、ああ、と乾は得心がいったような顔をした。
「すぐ出せるようにポケットに入れておいたのが良くなかったな」
「こんな大切なものを落とすなど、たるんどる」
「あは、気をつけるよ」
長い指がついっとそれを摘み上げ、鞄にしっかりと仕舞うのを見届けた真田が踵を返そうとすると、今度は乾が呼び止めた。
「真田」
「何だ」
「ありがとう」
穏やかな笑顔を浮かべ、ひらりと手を振って乾は背を向けた。
そのまま眼科の外来受付に向かうその後ろ姿を、真田はじっと見送った。
「……」
そして漸く踵を返し、幸村の病室へと向かう。
脳裏には、先程の乾の笑顔が張り付いたように離れなかった。

あんな空っぽの笑みは、初めて見た。





第三十九話「博士を象るアペイロン」



大切な人を失いました。

それは、ある日突然のことでした。


永遠を信じていたわけではありません。
しかしながら近しい未来ならばそこにも彼の姿はあるのだと信じていたのです。



愚かにも、無邪気に信じていたのです。





関東大会一回戦、対氷帝戦は青学の勝利で幕を閉じた。
「あれ?乾は?」
不二の声に、帰りのバスを待っていた一同はそういえばと辺りを見回す。
しかしあの不可視眼鏡をかけた長身は見当たらない。
「…乾先輩は用があるって先、帰りました」
「えー?さっきまで一緒に居たのににゃー」
「乾の事だから、新しいノートでも買いに行ったんじゃない?」
各々好き勝手な事を言っていると、目の前を明らかにそれと分かる高級車が通り過ぎていった。
「…あれ?」
「ん?どうした、越前」
「いえ…」
今、通り過ぎていった高級車に乾が乗っていた気がしたのだが。
「…何でも無いッス」
気のせいだろう。


「それで、手塚はどうなる」
自邸へと向かう車中、跡部はそう切り出した。
傍らで緊張感も無く座っている乾は「そうだね」と短く返す。
「手塚は九州に行ってもらう事になるだろうね」
「九州?」
「宮崎に青学大附属の病院があってね。あそこは整体が進んでるから」
「またお前の差し金か」
呆れたような声音に、乾はまさか、と小さく笑った。
「俺はただ竜崎先生に聞かれたからデータを提供しただけだよ」
決めたのは竜崎先生と手塚自身さ。
他人事の様な言い方に跡部は肩を竦める。
「で、自分から仕向けたくせに、いざそうなると手塚を捨てるのか」
「手塚には肩治して貰わないと困るし。まあ、勿体無いとは思うけど、俺、待つのって嫌いだから」
面倒臭そうに言い、乾は天井を見上げる。
「それに、面白そうなのも見つけたし」
「立海か」
「うん。幸村には悪いと思うけど」
「で?誰だ。真田とか言うんじゃねえだろうな」
すると乾は悪戯っ子のような笑みを浮かべ、人差し指を唇に当てた。
「ビンゴ、って言ったら?」
跡部は数秒の間、唖然としていたがやがて大きな溜息を吐いて窓の外へと視線を向けた。
「いい加減、お前の趣味がわかんねえ」


跡部邸につくと、二人はまずシャワーを浴びた。
今日は着替えを持ってきていなかったので、乾は跡部のシャツとスウェットを借りてソファでルーペを弄っていた。
「新しいのに変えたのか」
「うん、やっぱりエッシェンバッハ社の物が一番良いね」
ほら、とグリップ付け根のレバーを弄る。
「ダブルレンズだからここをこうすると中央部の倍率が上がるんだ。しかも脚部付きだからグリップの位置をレンズ本体の高さに合わせてぐらつきのないように調整できるんだよ」
「弱視眼鏡はどうした」
「あれは持たなくて良いから楽なんだけどね、うっかり掛けたまま外に出たら嫌だし」
それにまだこの眼鏡で間に合ってるからね、と乾はいつも掛けている黒縁眼鏡を指先でくいっと持ち上げた。
「幸い、等級も上がらずにすんだし」
「ああ、手帳の更新がどうたらつってたな」
「最近は視野の方にも支障が出てきてるから…ギリギリだったよ」
まあ、今更なんだけどね、と乾は笑う。
「……」
跡部は乾のこの笑い方が余り好きではない。
乾自身は気付いていないようだが、眼の話をしている時の乾はいっそ穏やかなほどの笑みを浮かべる。
しかし跡部から言わせればそれはとても薄っぺらで、簡単に剥がせそうな張り付いた笑顔だ。
しかし剥がしたその先で乾がどれほどの絶望を抱いているのか、それを知ってはならない気がして跡部は何も言わない。
乾は、出会った時にはもう既に諦めることを知っている子供だった。
冷静に情報を分析し、そこから導き出した答えが否と言うのなら仕方ない。そうあっさりと切り捨てる。
逆に、と数刻前の会話を思い出す。
真田に手を出すという事は、真田を落とす自信があっての事だという事だ。
跡部は乾の横顔を見つめながら思う。
どうやってあの堅物に近づくつもりなのかは知らないが、手塚の時の様に時間を掛けたりはしないだろう。もう一度始めからやり直すだけの時間はもう、彼には無い。
何より、真田に近づくということは、アイツへのあてつけもあるのだろう。
「ん?どうした?」
「…いや。お前、明日はオフか?」
「うん。明後日はみんなで慰労を兼ねてボーリングへ行くけど、明日は完全にオフだよ」
「なら、何処か行くか」
ごろりとソファの上で横になり、当然のように乾の膝に頭を乗せると乾が小さく笑って跡部の髪を梳いた。
「何処へ行くんだい」
「そうだな…この前は宮城だったな」
「石ノ森萬画館で跡部はしゃいでたよね」
「お前が行きたいっつったんだろが!」
「えー?だって跡部も好きデショ?サイボーグ009」
「うっせえよ。暑ぃから北海道でも涼みに行くか」
「じゃあ小樽行こうよ。流氷凍れ館。氷の滑り台滑りたい」
「お前、俗っぽいのが好きだよな」
「年相応でいいと思うけど」
へらりと笑うと、跡部はやれやれ、と溜息を吐いて起き上がった。
「よし、ならこれから小樽行くぞ」
部屋に設置された内線で電話する跡部を尻目に、乾はルーペを片付ける。
跡部がこういう行動に出るのはいつもの事だ。
乾は鞄から携帯を取り出し、自宅の番号を呼び出して耳に当てた。
「…ああ、母さん。貞治だけど…」




第四十話「真田弦一郎と乾貞治」


手塚の居ないメンバーで不動峰と練習試合を行った翌日、今度はルドルフとの練習試合となった。
初めて訪れた青学に興味津々と言った面持ちの柳沢と野村を尻目に、裕太はそわそわとコートを見回していた。
「やあ、今日は無理を聞いてもらってありがとう」
「いえ、こちらこそ我がルドルフを選んでいただけて光栄です」
大石が観月と言葉を交わしている間も裕太は辺りを見回し、しかしそこに求める姿がない事にしゅんと肩を落としていた。

「裕太君」

途端、背後から聞こえた声に裕太はばっと振り返る。
そこには、ランニングにでも行っていたのか、海堂を連れて漸くコートに入ってきた乾の姿があった。
「乾さん!」
ぴょこっと飛び上がりそうな勢いで探し人の名を呼ぶと、乾は穏やかに笑っておいで、と言わんばかりに両手を緩く開いた。
「乾さん!…あっ」
勢い余ってその腕の中に飛び込み、次の瞬間はっとして離れようとするが、既に乾の腕にホールドされてそれはかなわない。
「いいい乾さん!」
あわあわと唯一自由な両手をてふてふしていると、耳元でくつくつと笑う声がして思わず首を竦めた。
「久しぶりだね」
「は、はいっ」
するとカシャ、とシャッター音がして裕太と乾は同時にそちらを向いた。
「浮気現場激写ー」
そこには携帯を構えた不二が立っていた。
「あ、兄貴っ」
「不二、ただのスキンシップだって」
乾が笑いながらすっと体を離し、不二に向き直るがしかし不二はそんな事お構い無しにカチカチとメールを打つ。
「手塚に送っちゃえ。えい」
「こら、後でフォローするこっちの身にもなってくれ」
「フォローする気なんて無いくせにー」
ぶーぶーと文句を垂れる不二を笑って誤魔化し、乾は裕太に向き直った。
「まあともかく、よく来たね」
「あ、はい、今日はお誘いありがとう御座いますっ」
「提案者は乾じゃなくて大石だけどねー」
そのまま三人でわいわい話していると、打ち合わせが終わったらしい大石と観月がそれぞれに集合を掛けた。
「それじゃ、今日一日よろしく」
「はい!」


練習試合が終わり、裕太は乾を探していた。
「あ、乾さん!」
水飲み場に居た乾に駆け寄りると、乾は水を止めて裕太を振り返った。
「うん?どうしたんだい?」
「あの、今日俺家に帰るんですけど、良かったら途中まで一緒に帰りませんか?」
すると乾はうーん、と少し考え込んだ。
「今日はちょっと行く所があってね。だからバス停までなら良いよ」
「あ、はい、それでも良いです!…あ、偵察ですか?」
首から提げたタオルで口元を拭きながら「内緒」と乾は笑った。
「さあ、着替えに行こうか」
「あ、はいっ」
部室に向かう乾の後を裕太は小走りで追った。
結局、二人で帰るはずだったバス停までの道のりは不二の邪魔が入り、裕太はいつも以上に兄を邪険にした。


「……」
立海を出て暫くして、道の向こうから見覚えのある長身が歩いてくるのに気付いた真田は足を止めた。
すると向こうも気づいたらしく、ひらりと片手を挙げた。
「やあ、真田」
「…乾か」
そしてふと乾の制服姿を上から下まで見回す。
「…この辺の学校ではないようだな」
「うん、俺、青学だから」
青学、と聞いて訝しげな顔をする。
「青学の人間が何故こんな所にいる」
「真田に用があったから」
「俺に?」
「そ。真田、少し時間貰っていいかな」
「…構わんが」
コレのお礼、させてよ、と乾がひらりと振って見せたのは、見覚えのある青いビニルに包まれた手帳だった。
「礼をされるようなことはしていない」
「拾ってくれたじゃない」
「見つけたのは幸村だ」
「うん、だから見つけてくれた幸村にはまた別個でお礼するとして、今日は届けてくれた真田にお礼をしようと思って」
コレが無いと色々と不便だから、本当に助かったよと乾は笑う。
「良ければ近くの公園でお茶でも奢らせて頂けませんか?」
にこっと笑う乾を暫く見つめた後、真田はこくりと頷いた。


公園には散歩中の人や時間を潰すサラリーマンの姿があった。
真田は乾に促されるがまま手近のベンチに座り、お茶でいい?と聞いてくる乾に無言で頷くと乾は設置されている自動販売機へと向かった。
「はい、お待たせ。生茶とウーロン茶、どっちがいい?」
「生茶」
どうぞ、と差し出されたペットボトルを受け取り、乾が隣に座るのを待ってからキャップを外した。
「…テニス部なのだな」
乾の傍らに立てかけられているテニスバッグを見ながら言うと、何故か乾は可笑しそうに笑った。
「何が可笑しい」
「だって、最初に会った時言ったじゃない、テニスしてるって」
「…そうだったか」
「真田って興味のある選手しか覚えない性質デショ」
「……」
図星を指されて黙り込んでしまった真田に、いいよ、と乾は笑う。
「俺は別に真田や手塚ほど強くないし、真田が知らないのも当然だと思う」
「…その、不便ではないのか?」
「ああ、眼の事?今の所は大丈夫だよ。調子が悪いときもあるけど、そういう時はデータで補ってる」
「データテニスをするのか」
「この眼の遠近感は当てにならないからね。だから何処にどうボールが飛んでくるのか分かってないと打てるものも打ち返せない」
くい、と中指で眼鏡を直す仕草を見ながら、その指が思いの他細い事に気づいて思わず真田は視線を逸らす。
「そこまでして、何故テニスをする」
すると乾はきょとんとして(といっても彼の不透過眼鏡のせいでよく分からないが)真田を見た。
「…真田はどうしてテニスをしているの?」
質問を質問で返され、一瞬黙り込むと「好きだからだよね?」と問われてこくりと頷く。
「俺もだよ。テニスをするのが楽しいから、やれるうちにやれるだけやっておきたいんだ」
「…角膜移植とやらでは治らんのか」
知識は無かったが、とりあえず聞いたことのあるそれを口に出すと、乾は「治らないねえ」と苦笑した。
「俺の場合、遺伝子の欠陥による視神経の問題だから角膜を変えたって意味は無いよ」
「そうなのか」
「うちは元々そういう欠陥遺伝子を持った家系みたいでさ。母さんも祖父さんも全盲なんだ」
「…大変だな」
「そうでもないよ。コレのおかげで色々助かってるし」
乾は手帳を胸ポケットからちらりと出して再び仕舞った。
「コレがあると国から色々と助けていただけますし」
小さく笑う乾の表情に、またあの笑顔だと真田は思う。
「…イヤなのか」
「……」
思わず口をついて出た言葉に乾が黙り込んでしまい、真田は慌てて言葉を捜す。
「その、前も思ったのだが、この話をするときのお前は…何と言うか、妙な感じがするというか…」
視線を彷徨わせながら説明すると、乾が小さく噴き出して笑った。
「あ、ごめん。そんなに顔に出てたかなあ」
気をつけないと、と乾は己の頬をさすりながら言う。
「…そうだね、イヤだよ」
その声は先程までとは比べ物にならないほど低いものだった。
「俺が眼に欠陥を持ってることは部活仲間は結構知ってるし、別に隠してるつもりじゃない。でも彼らの前で弱視専用の眼鏡やルーペを使いたくないし白杖…あ、弱視の人が持ってる白い杖ね。あれも出来れば持ちたくない。国からの援助も有難いけれど、自分が欠陥を持った人間なんだって思い知らされるから好きじゃない」
そこまで言い切ると乾はふう、と溜息を吐いてウーロン茶を一口飲んだ。
「…ごめんね。何か愚痴っぽくなっちゃった。今までこんなこと言った事無かったのになあ。うーん」
乾は形のよい顎に手を当て、小首を傾げる。
「テニスの技術は努力すればいいんだけど、こればっかりはどうしようもないから納得してるつもりなんだけどね」
真田だからかな、と乾はにこりと笑った。
「…何故、俺なんだ」
「何となく、真田ってそういうのを黙って受け止めてくれそうな感じだから」
その言葉に何と返していいのか分からず黙り込んでいると、不意に乾が薄暗い空を見上げて「あ」と声を洩らした。
「どうした」
「雨が降るね」
言われて空を見上げると、確かに空には暗雲が立ち込めている。
通りで日が沈むにしては早いと思った。
「わ、言ったそばから」
頬に雨粒を受けたのか、そこを撫でながら乾はテニスバッグを持ち上げて立ち上がった。
「雲の流れから見て通り雨だね」
同じ様にテニスバッグを担いで立ち上がった真田はもう一度空を見上げる。
すると顔にぱたぱたと決して小さくない水滴が落ちてきた。
通り雨だとしても、それなりの雨量が予想できる。
「真田、家が近いなら帰ったほうがいいよ。俺はその辺で雨宿りしてから帰るから。…お礼のつもりが長々とつき合わせちゃってゴメンね」
それじゃあ、と踵を返そうとする乾の手を真田は咄嗟に掴んでいた。
「真田?」
「…俺の家はそんなに遠くはない」
「うん」
そうこうしている間にも、雨粒はあっという間にその量を増していく。
「…うちへ、来るか?」
ばたばたと雨の落ちる音が、やけに耳についた。




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