浅瀬を歩む君の滑らかな脚

第四十一話「真田弦一郎の戸惑い」


結局雨は瞬く間に雷雨と化し、真田邸にたどり着く頃には二人ともずぶ濡れだった。
出迎えた真田の母親は二人の姿を見るなりまあまあと声を上げてタオルを取りに奥へと向かった。
「結局濡れちゃったね」
玄関先で突っ立ったまま乾がそう苦笑する。
「そうだな…」
何気なく乾を見て、不意に息を詰まらせた。
水を吸ったカッターシャツが肌に張り付き、その身長の割りに細い身体が透けて見えている。
何故か見てはいけないものを見たような気がして、真田は咄嗟に視線を逸らした。
「はい、弦一郎。お客様もどうぞ」
やがてタオルを手に戻ってきた母親の姿に真田は内心でほっとした。
「お風呂沸いてるから入ってらっしゃい」
「乾、先に使え」
「え!いや、真田こそ先に入りなよ。そもそも濡れちゃったのは俺の所為なんだし」
いや乾が、いや真田が、と繰り返していると、母親の可笑しそうな声が割って入った。
「なら二人一緒に入ってしまえばいいじゃない」
「は」
「二人くらいなら大丈夫だと思うわ」
いや、そうじゃなく。
真田が言葉を捜している傍らで、乾はぽん、と手を打った。
「そうですね。それがいい」
「は」
今度は乾を見る。いい提案だ、と言わんばかりに彼は頷いていた。
「さ、決まったならさっさと入ってらっしゃいな」
床は拭いておくから気になさらないで、と乾に笑いかける母親と、すみません、と頭を下げる乾を交互に見る。
「真田、どうしたんだい?」
「弦一郎、さっさとしなさい」
お互い何の疑問も持っていない様子に、自分がおかしいのだろうか、と自問しながら真田は乾を連れて風呂場へと向かった。
「わあ、広いね」
脱衣所に着くなり乾は風呂場を覗き込んだ。
きょろきょろと見回すその仕草に、何か珍しいものでもあるのかと問えば、いや、と苦笑が帰ってきた。
「風呂に入るとなると眼鏡を外すだろ?だから先に何処に何があるか把握しておかないとうっかり転んだりするから」
「…すまん」
「へ?別に真田が謝るようなことじゃないよ?」
「そうか。…分からないことがあったら聞いてくれ」
「ありがとう」
そう笑って漸く服を脱ぎだした乾の一挙一挙を無意識に見つめる。
濡れたカッターシャツの下から現れた裸体は、先程は細いとだけ感じたが、こうして見ると筋肉はしっかりとついており、しなやかさを感じさせた。
栄養が全て身長にいったタイプだろう、無駄な贅肉は全く見当たらない。
肌もテニスをしているとは思えない白さを保っており、傷跡一つ見当たらない。
「真田?」
視線に気付いた乾がこちらを見て小首を傾げる。
あの分厚い眼鏡を外した乾の視線は、何処か焦点が合ってない様に見えた。
しかしその澄んだ瞳と小首を傾げる仕草は、真田より身長が高いくせにどこか小動物めいたものを感じた。
眼鏡を外しただけで人の印象はこれ程までに変わるものなのだろうか。
「真田?どうかしたか?」
「…いや」
我に帰った真田は視線を外して己の服を脱いだ。


風呂から上がると、母親はすっかり乾を夕餉に招くつもりらしく、いつもより一人分多い食事が用意されていた。
乾は最初こそ恐縮していたが、真田とその母親に構うものかと丸め込まれ、結局夕食を共にする事になった。
夕食後、服が乾くまで居ればいいと冷茶の注がれたグラスを二つ載せたお盆を片手に乾を自室に通したところ、畳の部屋に彼は驚いていた。というより、はしゃいでいた。
着替えに用意された居た浴衣にも喜んでいたし、その今までに無い子供っぽい仕草に思わず真田は笑みを零してしまう。
「あ、真田が笑った」
それを見た乾が嬉しそうに笑う。
「俺と一緒の時はいつも眉間に皺寄せてるから、嬉しい」
「……」
むっとすると乾はほら、また皺寄ってると真田の眉間を指差して笑った。
真田が盆を置き、その傍らに座ると乾は当然のように真田の隣に座った。
正面に座るものだとばかり思っていた真田は思わず眼を見開いたが、乾にどうしたの?と不思議そうに見上げられ、これが普通なのだろうか、と思う。
「あ、ありがと」
グラスを差し出すと乾は嬉しそうに笑ってそれを一口飲んだ。
こくり、と上下する喉につい目が行ってしまい、慌てて逸らす。
何か、先程からこんなことの繰返しをしている気がする。
そもそも、何故乾を家に招いたのだろう。
部の仲間であってもそうそう自ら呼んだりはしないのに、出会って間もない彼を何故。

…不意に、彼のあの空っぽの笑みが脳裏に浮かぶ。

あの笑みの所為なのだろうか、と思う。
穏やかに笑うくせに空っぽで、手を差し伸べなければ何処までも沈んでいってしまいそうなそれ。

乾を、もっと知りたいと思っているというのか。
それとも、手を差し伸べたいと思っているとでもいうのか。

「真田?」
はっとすると至近距離に乾の顔があってぎょっとした。
しかもいつの間に外したのか、乾は眼鏡をかけていなかった。
底の見えない漆黒の瞳で、下から覗き込むように真田を見ている乾の浴衣は合わせが緩かったのか、胸元が覗いている。
胸の先に色づくそれ。
見てはならないと思うのに、目が離せない。
不意に下肢に熱が集まり始め、内心で動揺する。
乾は男だぞ。
そう言い聞かせるが、しかし乾には男女関係無い何かを感じるのもまた事実。
「さっきからぼうっとしてるけど、やっぱり風邪引いたのかな」
すっと手を伸ばされ、反射的に身体を逸らした。
「な、何だっ」
内心の動揺を隠すように思わず大きな声を出してしまう。
「熱測ろうと思ったんだけど」
「だ、大丈夫だ。そんな軟な鍛え方しておらんっ」
それもそうか、と乾が身を引き、真田は内心でほっと息を吐いた。
「あ、そういえば」
鞄に、と立ち上がろうとした所で乾は自分の裾を踏んづけてつんのめった。
「わっ」
「乾っ」
倒れこんだ乾を咄嗟に抱きとめると、勢い余って二人はそのまま後ろに倒れこんだ。
「あー真田ゴメン、大丈夫?」
「……」
暢気な声を上げる乾とは裏腹に、真田は返事どころではなかった。
ぴたりと密着した体。嗅ぎ慣れたはずのシャンプーの香り。倒れた拍子に乱れた浴衣。
そして、覗き込んでくる深い色の瞳。
「真田、顔赤いよ?やっぱり熱あるんじゃ…」
抱え込んだ腕の中で乾がもぞりと動き、彼の手が真田の首筋にひたりと添えられた。
ぐるぐると回る思考の中、「あれ?それほどでもない?」と小首を傾げる乾の声が通り過ぎて行く。
「…真田?」
柔らかな囁きが聴覚を擽る。
その瞳が優しく細められる。
その不可思議な色合いの瞳が真田を捕らえ、逸らすことを許さない。
「…イヤなら、突き飛ばしてね」

何が、と思うより早く乾の顔が近づいてきた。

そっと唇に触れた柔らかさに、思わず眼を見開いた。
不思議と嫌悪感は無い。

雨が疾うに止んでいることなど、気付くはずも無かった。





第四十二話「乾貞治の誘惑」


真田には何故自分たちがこんな事になっているのか分からなかった。
ただ分かるのは、乾が自分に口付けてきたということ、そしてそれが不思議と嫌悪感を齎さなかったということだけだった。
そしてそっと唇が離れると、彼は柔らかく微笑んだ。
何故、と問うより早く彼が「イヤじゃなかった?」と聞いてきた。
「…イヤでは、なかったが…」
「じゃあもう一回、してもいいかい?」
「それは、困る」
ようやっとの事で視線を逸らすが、しかし乾はそれを追いかけるように真田の顔を覗き込む。
「何が困るんだい?」
この眼を見てはいけないと思う。けれど逸らすことができない。
「それは…」
下肢が反応してしまいそうで困る、などとは言えず、言い淀んでいると「答えられないならしちゃうよ?」と微笑んで口付けてきた。
「いぬ…っ…」
先程の触れるだけの口付けとは違い、熱を孕んだ舌が真田の歯列を割り、口内に侵入してくる。
ぬるりとしたそれは真田の上顎を擽っては絡めてくる。背筋を走る微電流のような快感に、どう対応して良いのか分からない真田は乾の舌の動きに翻弄されるばかりだ。
「…っい、ぬい、これ以上は…っ…」
拙い、と続けようとしたそれも乾によって飲み込まれてしまう。
くちゅ、と唾液の絡み合う音に真田は強く目を閉じるが、否が応でも耳に届いてしまい身を捩って逃れようとする。
しかし乾の口付けは執拗で、その舌先の愛撫は真田の下肢に熱を持たせた。
己の変化に気付いた真田は咄嗟に身を引こうとするが、それを阻むように乾が一層身体を密着させてくる。
「大丈夫だから…」
舌先で濡れた唇を舐められ、漸く口付けから解放されたかと思えば乾の手が裾の合わせ目からするりと入り込み、形を変えつつある真田の中心をやんわりと撫で擦った。
「!乾っ」
咄嗟に引き剥がそうと乾の方に手をやるが、するりとその手を取られて指先をちろりと舐められる。上手く力が入らない。
乾はそんな真田の手の甲に口付けを落としながら、艶やかに微笑った。

「俺から逃げないで…真田」





…泣き声が聞こえた。




子供の泣き声だ。




必死に何かを探しながら泣いている。
いつまで経っても泣き声は治まらない。
俺はそれをただじっと見ているだけだ。


その泣き声を止める術を、俺は知らないのだから。






翌日の練習は散々だった。
いくら集中しようとしても乾の艶姿が脳裏に焼きついて離れない。
灯りを反射する白い肌に映える胸元。
薄らと上気した桃色の目尻。
真田自身をそのしなやかな身体の最奥で受け入れた時の、苦悶と快楽に歪んだ表情。
彼が自分の上で腰を揺らすたび走る強い快感。
下から突き上げるたびに上がる嬌声。
さなだ、と甘えるように何度も呼ぶ声。
絶頂を迎えたときの反り返った首筋のラインの美しさ。
その全てが真田の脳裏を何度も巡り、ミスをしては我に返る、その繰り返しだった。
「弦一郎」
静かな声に振り返れば、いつの間にかすぐそこに柳蓮ニが立っていた。
「どうしたんだ。らしくないな」
「蓮ニか…」
「心此処に在らずといった感じだが、何かあったのか」
「……」
真田はラケットを下ろし、視線を彷徨わせた。
他人にこういったことを相談するのは躊躇われる。
しかし艶事や人の感情の機微に疎い自分では、思考が空回りするだけでどうしようもない。
その点、蓮ニならば何か良いアドバイスをくれるかもしれない。
長い沈黙の後、真田は重い口を開いた。
「…少し、相談したいことがあるのだが」




第四十三話「柳蓮ニ」


その日の放課後、真田と蓮ニは部室に居残り、他の部員たちが帰るのを見計らって蓮ニから切り出してきた。
「それで、何があった」
「うむ…」
腕を組んで黙り込んでしまった真田に、彼の扱い方を心得ている蓮ニは黙って次の言葉を待った。
そうして長い沈黙の後、真田が意を決したように口を開いた。
「…恋仲でもない相手と肉体関係を結んでしまった場合、どうすればいいのだろうか」
「………」
今度は蓮ニの方が黙り込む番だった。
一見しただけではいつもと変わらぬ静かな面持ちだったが、内心ではそこそこに動揺していた。
何しろ、真田弦一郎という男は堅物と書いてイコールで結べるような男なのだ。
今まで女子とキスどころか手を握ったことすら、いや、交際したことすらない男が。
女子であろうと迂闊に近づけば平気で怒鳴りつける男が。
「…データが足りないな。どういう経緯でそうなったのか説明してくれ」
「う、うむ…」
真田は彼にしては珍しく、しどろもどろに説明し始めた。
曰く、相手の落し物を届けたところ、昨日になってその礼をするために相手がやってきたらしい。そして公園で話をしている最中に雨が降ってきたので相手を雨宿りさせるために家に連れ帰ったらしい。で、部屋で話している最中に相手が何かを取ろうと立ち上がろうとし、その際に浴衣の裾を踏んづけて真田諸共倒れこんでしまい、何故かキスされてそのまま以下略、というわけらしい。
「………」
蓮ニは暫く考え込んだ後、弦一郎、と真田を見据えた。
「相手が何を考えていたかはともかく、面識の少ない者を易々と部屋に上げるのはどうかと思うぞ」
「それは分かってはいたのだが…もう暫く、話がしてみたかったのだ。何というか、考えを覚らせないくせに眼を惹きつけて離さない、そんな不可思議なものを纏っている奴なのだ。大人びているかと思えば子供…否、寧ろ小動物のようにちょこまかしたりと見ていて飽きない」
「ふむ。ともあれ、向こうから仕掛けてきたのだろう?その理由を問わなかったのか?」
「それは…」
真田の視線が左右に揺れ、次第に俯いていったかと思えば口元を手で押さえて赤面した。
「照れてないでとっとと言え」
ごすっと真田の座っているパイプ椅子の足を蹴る。
気心知れた仲、と言えば聞こえは良いが、待つ必要の無い沈黙だと判断すれば蓮ニは真田に対して容赦は無い。
「その…………か、可愛かったから、と…」
「………」
蓮ニはついっとホワイトボードの上に掲げられた「確乎不抜」の文字を見上げ、もう一度真田を見た。
「……」
「……」
蓮ニは「可愛い」という言葉の一般的な定義を反芻しながら真田の帽子の先から爪先まで見る。
この男を捕まえてよくもまあ「可愛い」等と言えたものだ。
蓮ニは名も知らぬ相手を違う方向性で褒め称えながら「それで」と先を促す。
「それで、とは?」
「弦一郎としてはどうなのだ」
「どう、というと?」
「本末転倒ではあるが、その人と付き合いたいと思っているのか?」
「付きっ…?!」
「何を驚く。お前はその人の事が好きなのだろう?」
「な、何故そう思う!?」
「お前の性格からして帰ろうとする相手を引き止めた時点でかなりの興味を抱いていると統計は言う。そもそもそうでなければお前ともあろうものが流されるがまま相手を抱いてしまうというのも有り得ない話だ」
淡々と返され、真田はぐっと言葉を詰まらせ、やがて吐き出すように告げた。
「……そう、なのかもしれん」
「それで、相手の連絡先は知っているのか?」
「……」
「……」
「……」
「…知らないんだな」
やれやれ、と溜息を吐くと真田は「幸村なら、知っているかもしれん」と小さく呟いた。
「精市の知り合いなのか?」
「よく幸村の病室を訪れているような事を言っていた」
「ならば精市に聞いてみる事だ。精市も知らないようならば精市に聞いてもらえ」
「うむ…しかし、もう一度会ったとして、何を言って良いのかわからん」
「相手の真意を問うも、お前の思いを告げるも好きにすればいい。どちらにせよ、向こうがお前に好意を持っているのなら自然と話は進む」
「…そういうものなのか?」
「そういうものだ」
そう言って蓮ニは立ち上がるとロッカーに立てかけておいたテニスバッグを担いだ。
「今日はこの辺にしておこう。あと十二分で校門が閉まる」
「あ、ああ…」
真田も同じ様に立ち上がり、パイプ椅子を畳んで部屋の隅に立てかける。
「また何かあれば教えてくれ。俺でよければアドバイスしよう」
「ああ。すまない、蓮ニ」
弦一郎の色恋沙汰ほどレアで愉快なものは無い、と内心では思いつつも「気にするな」と微笑を浮かべた。

蓮ニは後に悔いる事になる。

もしこの時、相手について詳しく聞いていたのなら。
せめて、真田の背を押すような真似をしなければ。

誰も、傷付かずに済んだのかもしれない。









第四十四話「真田弦一郎から乾貞治へ」


幸村に乾の連絡先を聞くまでも無く、彼は翌日の帰り道、前回同様ひょっこりと現れた。
「い、乾!」
「やあ」
ひらりと手を振る仕草は変わり無く、まるで先日の出来事が無かったかのような素振りだ。
「もしよければ今日も少し時間を戴きたいのですが?」
わざとらしい口調で小首を傾げる仕草は真田の欲目か、何処か愛らしい。
「う、うむ」
本人は勤めて平静を装っているつもりなのだが、動揺しているのは傍目から見て明らかだったらしく乾は苦笑した。
「大丈夫。真田の嫌がるような事はしないから」
「……」
嫌ではないから困るのだ、とは言えず、真田は無言で乾の後に付いて行った。


辿りついたのは、一昨日と同じ公園だった。
同じ様にベンチに座り、「一昨日の事だけど」と乾が切り出した。
「無かったことにしたければそれでも良いよ」
あっさりとした声音に乾を見れば、彼は真田を見るでも無くじっと前を見つめていた。
「真田がそうしたければ俺も忘れるし、不用意に真田の前に現れたりしない」
「……」
無言でその横顔を見つめていると、漸く乾がこちらを向いた。
「俺は真田が好きだけど、困らせたいわけじゃない」
「…乾」
「だから、今決めてくれると有難い。そうじゃないと、また会いに来てしまうだろうから」
微かに苦笑する乾に、真田は緩く首を左右に振った。
「…嫌ではない」
「でも…」
「俺も、恐らく…乾の事が好きなのだと思う。だから、無かった事になど、できん」
「……」
真田は幾度か視線を泳がせた後、ぐっと乾を見据えて告げた。
「順序が逆になってしまったが…乾、俺と付き合ってくれ」
「……」
乾は驚くでも無く、ただ無表情で真田を見ていた。
その不透過のレンズの向こうでその瞳はどんな色を湛えているのかは分からない。しかし、真田は顔を背けず凝乎と乾を見つめていた。
「…俺ね」
やがて、ぽつりと乾は呟くように言ってまた前を見据えた。
「昔、ずっと一緒だって思ってたヤツがいたんだ。そりゃあ一生ってわけには行かないかもしれないけれど、少なくとも一緒に成長して、大人になっていくんだって思ってた。お互いがお互いの特別だと信じてた。でも、ある日突然そいつは俺の前から消えた。俺は何も知らなかった。周りは俺が悪いんだって噂したよ。俺もそうなんだろうかって思ったけど、例えそうであったとしても、それは本人の口から聞きたかった。でも、その後も何の連絡も無かった。未だになんであんな別れ方をしなければならなかったのか、俺には分からない」
「……」
「とにかく哀しくて、認めたくなくて、でもあいつが俺の元を去ったことはどうしようもない事実で。だからもう二度とあんな思いをしなくていいように、信じることを止めたんだ。ずっととか、特別とか、そういった感情の約束は信じないようにしてるんだ。いつでも無かった事に出来るからね、そんな口約束は」
乾の横顔は何処か遠くを見つめていて、口元には薄らと笑みすら浮かんでいた。
全てがどうでも良さげな、排他的な笑みだった。
「つい最近もね、俺の事が好きでずっと傍に居るって言ってた奴が居たけど、結局そいつも今は俺の傍に居ない。俺には何の相談も無く遠くへ行くことを決めてた。直接知らされたのはそいつが旅立つ前日だった。その程度の事なんだよ、結局は」
「……」
乾から視線を外し、真田は俯く。
乾の言葉一つ一つが、まるで乾自身を切りつけている様で居た堪れなかった。
「…哀しいな」
「何が?」
「乾が、だ」
乾がこちらを見たのが視界の隅に映る。
俺が?と彼はきょとんとして言った。
乾は信じることを放棄したと言い、足蹴にするような物言いをする。けれど真田にはそう告げる乾の声音が苛立っているように聞こえてならない。
これは乾の悲鳴なのだ、と真田は思う。
信じないと言いながら、それでもその言葉の裏側では信じたいと願っている。
けれどまた裏切られるのが怖い。だから信じていないふりをしている。
そうやって乾は己を守っているのだ。
そうすることでしか、己を守れないのだ。
「ならば、尚更の事、俺と付き合ってくれ」
乾と向き合ってそう告げると、乾は「尚更とか意味がわかんない」と小首を傾げた。
「俺が、信じさせてやる。俺が乾を好きだという事も、裏切ったりしない事も、信じさせてやる」
「……」
無言でこちらを見ている乾の顔に手を伸ばし、そっとその重量のある眼鏡を外す。
分厚いレンズが無くなり、乾の深い色合いの眼がじっとこちらを見ていた。
その眼としっかり視線を合わせ、真田はもう一度繰り返した。
「俺が信じさせてやる。乾に、もう一度信じるという事を思い出させてやる。だから、俺と付き合え」
「………」
乾は暫くの間じっと真田を見ていたが、徐に視線を伏せるとその手を伸ばし、真田の手にそっと触れた。
まるで子供のように真田の人差し指を握る乾の表情は、苦笑に歪んでいた。
「…俺はきっと、真田に苦労をかけるよ」
「構わん」
「ちょっとでも放って置かれるとダメなんだけど」
「放っておくつもりは無い」
「…結構スキンシップ激しいんだけど」
「…知っている」
「それ、えっちな事も含まれてるんだけど」
「わ、分かっているっ」
まあ真田は身をもって知ってるよね、と漸く微かに笑った乾に内心でほっとする。
乾には、あんな苦しそうな苦笑は似合わない。させたくない。
「急に信じろとは言わん。少しずつでいい。乾が信じれるよう、俺も努力する。だから、」
不意に乾の顔が近づき、一瞬だけ唇が触れ合って離れた。
「いっ、乾!」
思わず掴まれていない方の手で口元を押さえると、乾は「真田、真っ赤」と笑った。
「期待せずに待ってるよ」
そう言いながらも嬉しそうに笑う姿に、真田は「あー、その、だ」と視線を彷徨わせる。
「…今日は、寄って行くのか?」
何処へ、とは言わなかったが、乾には十分だったのだろう。一瞬眼を丸くした乾は、次の瞬間、花が綻ぶような笑顔を浮かべて頷いた。
握られた人差し指が、熱かった。




第四十五話「乾貞治の戯れ」


ざっと藁の寸断される音が響き、真田はゆっくりと白刃を鞘に納めた。
「手塚…随分と面白いモンを残してくれたじゃないか」
薄らと唇に笑みを浮かべ呟くと、襖の向こうに人の気配がして視線を上げた。
「真田、入るよ」
すらりと襖を引いて現れたのは、白地に水色の映えるジャージに身を包んだ乾だった。
「早かったな」
刀を片付けながら言うと、乾は「真田に早く会いたくて」とへらりと笑った。
「いつもより速いペースで走ってきちゃった」
「そ、そうか」
手伝おうか?との申し出を断り、真田は真っ二つになった藁束を小脇に抱えて部屋を出る。
「始末してくるから先に部屋に行っていろ」
「了解。あ、ついでに風呂も入ってきたら?おばさんが後でスイカ切ってくれるって」
「わかった」
すっかり母と打ち解けたらしい。この部屋に通したのも彼女だろう。
迷う事無く真田の部屋へと向かう乾の背を見送り、真田は縁側から外に出た。


風呂から上がると母がスイカの盛られた皿を押し付けてきた。
それを片手に自室に行くと、既に二組の布団が敷かれており、乾はその片方の上でノートを広げていた。
隙間無く並べられた布団に意味を見出そうとするのは不埒だろうか。
「あ、お帰り」
真田の心中など知る由も無いといった態で、乾はよいしょと身を起こし、広げた数冊のノートを閉じて枕元に固めて置いた。
隅に寄せられている長方形の卓袱台の上にスイカの盛られた皿を置くと、早速乾が嬉々として寄って来た。
「わあ、一口サイズにカットされてる。ウチだと普通に半円のまま出されるからこういうのって新鮮」
「母が先日テレビで見て以来やりだしたのだが、風情が無い」
「でも俺としては食べやすいからこっちの方が好きだな」
フォークで一欠けら刺し、はい、とこちらに差し出してくる。
「ほら、早くしないと汁が垂れちゃうよ」
「む…」
逡巡の後、真田は差し出されたそれを口に含んだ。
しゃり、と噛めば甘さが口内に広がり、気恥ずかしくなって視線を落とした。
しかし当の乾はと言えば、満足したのかさっさと自分も一欠け口に放り込んで「わ、甘くておいしい」とご満悦だ。
「今キスしたらスイカ味だね」
「っ…」
喉が妙な音を立ててスイカを飲み下し、真田は思わず乾を見た。
「…してみる?」
「乾っ」
その声音に笑いが滲んでいる事に気づいた真田が声を荒げると、乾は声を上げて笑い出した。
「わー真田が怒ったー!」
「人をからかうなどけしからん!」
「からかってないよ?」
途端、乾の顔が近づいたかと思えば口付けられて真田は硬直した。
「…うん、やっぱりスイカ味」
二人とも食べてたし当然だよねーと笑いながら身を引く乾に、真田はどうやっても勝てる気がしなかった。
「ああ、そういえば今日、お前の所の一年に会ったぞ」
ごほん、と一つ咳払いをして言うと、彼はきょとんとした後「ああ」と得心がいったように頷いた。
「越前の事だね。ちょっと用があって神奈川まで走らせたから」
「赤也と試合をしたらしいのだが、俺たちが駆けつけたと同時に眠ってしまったのだ。だからジャッカルに送らせようと思ったのだが…」
真田は夕方の出来事を思い出して眉根を寄せる。
「妙な男が現れてな。長髪で全く喋らんラジカセを持った男だ。その男が越前とやらを連れて行ってしまったのだ」
すると乾はスイカを齧りつつ、あっさりと「それ越前の親戚」と言い当てた。
「手塚の従兄弟の店で働いてるらしいよ。後輩の証言によると、越前は下校については大抵その親戚の車で帰っているらしいね」
「車で下校などたるんどる」
「つまり真田は越前を見知らぬ人に任せてしまったことを心配してたわけだ」
「…そんなつもりは無い」
憮然として言う真田に、乾は「優しいね」と微笑んだ。
「真田のそういうところ、好きだよ。はい、もう一つ、あーん」
「む…」
言われるがまま差し出されたスイカを口にすると、乾はご満悦と言わんばかりの笑みで真田を見ていた。
結局、二本用意されたフォークは一本しか使われなかった。




第四十六話「柳蓮ニの戸惑い」


関東大会決勝、その前哨戦として行われた敗者復活戦で山吹中と緑山中がそれぞれ全国行きを決めていた。
各自ウォーミングアップをしている中、真田の姿が見えないことに気付いた蓮ニは辺りを見回した。
精市に電話でもしにいっているのだろうか、と一瞬思ったが確率的に低いそれを切り捨て、蓮ニは仲間の元を離れた。
「……」
暫く歩くと、東屋の前に見慣れた姿を見つけ、しかし同時にそこにいたもう一つの姿に蓮ニは咄嗟に身を潜めた。
「…レギュラーだったとはな」
真田の低音が空気を伝って蓮ニの耳に響く。
「うん、聞かれなかったから」
穏やかに返すのは、この四年余り一日たりとも忘れたことの無い、掛け替えの無い存在。

乾、貞治。

「…怒った?」
苦笑交じりの、しかし甘えるような声音。
乾があのような声を出すのは気を許した相手、そう、以前ならば蓮ニに対してだけのはずだった。
胸の奥でちりりと何かが燻る音がする。
「いや…その眼で大したものだと思っただけだ」
眼?
蓮ニは思わず二人を見る。
彼は確かに昔から分厚い眼鏡をかけていた。
しかしテニスに支障が出る程ではなかったはずだ。
「データは嘘をつかないからね。俺が負けるのは、相手がデータ以上の動きをした時だけだ」
「…蓮ニは強いぞ」
真田の言葉に、乾は暫く何も言わなかった。
蓮ニの場所からは乾がどんな表情をしているのか見ることは出来ない。
「知ってるよ」
沈黙の後、乾はそう告げて踵を返した。
「それじゃあ、そろそろ戻るね」
「ああ」
ああ、そうだ、と乾は足を止めて振り返る。
「幸村の手術、成功すると良いね」
「必ず成功する」
「うん、そう願ってるよ」
それじゃあ、と今度こそ乾はその場を立ち去った。
真田はその後姿をじっと見つめていたが、やがて蓮ニの居る方へと向かって歩き出した。
「弦一郎」
すっと東屋の柱から姿を現すと、全く気付いていなかったらしい真田は微かに目を見開いて蓮ニ、と呟いた。
「さ…乾、貞治と知り合いだったのか」
貞治、と呼びそうになり蓮ニは咄嗟に言い換える。しかし真田はそれに気付かなかったのか、ああ、と頷くだけだった。
「乾だ、蓮ニ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
しかし思考の回転が速く、尚且つ言葉の足りない真田の意図を察する事に慣れている蓮ニには不幸にも一つの答えを導き出してしまっていた。
「…まさか」
「ああ。度々お前に相談していた相手というのは、乾の事だ」
煩いまでの蝉の鳴き声が、一瞬にして消えた。



「ずっと一緒にいような」

そう言って笑う笑顔が今でも瞼の裏に焼き付いている。
コートを駆けながら、いつもお前の気配を探してる。
居るはずの無いその姿を、同じコート内に求めている。
あんな別れ方を選んだのは、自分自身だというのに。

――乾はシングルスに向いていると思わないか、柳。

顔も思い出したくない大人の、さっさと消えて欲しい声が今もこびり付いている。
俺は、認めたくなかったんだ。
俺が居なくなったら、お前は一人でコートに立つのだろうか。
それとも他の誰かとダブルスを組むのだろうか。
そのどちらも、赦しがたいことだった。
俺を必要とせず、コートに立つお前の姿を見たくなかった。
例えそれが、お前のためであったとしても。
だから何も言わずに去った。
お前はきっと泣くだろう。
傷付き、悲しみと困惑に暮れ、その深い色合いの瞳を涙で濡らすのだろう。
そしてそのまま崩れてしまえばいい。
俺の傍ら以外に居場所を見出すくらいならば。
テニスなんて止めてしまえばいい。
そして一生、その傷を抱えて生きていけ。
俺という名の傷を抱えて、俺以外の誰も受け入れず。
俺だけを想って生きていけばいい。


「参謀?」
「っ」
蓮ニははっと我に返ると傍らを見た。
「どうしたんスか?さっきからボーっとして」
赤也が珍しいものを見た、と言わんばかりの顔で蓮ニを見ている。
「…いや、予想よりいい動きをすると思ってな」
赤也から視線を逸らし、コートへと戻す。
視線の先では丸井・ジャッカルペアと桃城・海堂ペアが戦っている。
一度落ちたかと思われた海堂が持ち直し、桃城がダンクスマッシュを決めていた。
あーあ、と赤也が見下したような声を上げる。
「ヤツラの作戦にまんまとはまってどーすんすか」
蓮ニを挟んで両脇の赤也と柳生が話しているのを蓮ニは何処か遠くで聞いていた。
視線だけを動かして青学側のベンチを見る。
フェンスの向こう側に立つ長身。
その手は一冊のノートを開いている。
傍らの仲間と言葉を交わしながらも視線はコートを見つめ、シャーペンを握った手はノートの上を走っている。
今なら、あの時の自分がどれほど子供じみた選択をしたのかが分かる。
思惑とは裏腹に、彼はテニスを止めなかった。
そこに至るまでにどんな苦悩があったのかは想像するしかない。
あの表情豊かだった彼が、今は能面の様にただ無表情で試合を見つめている。
けれど、手にしているノートの存在に蓮ニは胸中に嬉々としたものが湧き上がるのを止められない。
彼は忘れてなどいない。
彼がデータテニスをする、それ自体が彼が蓮ニを忘れていないことの証であり、絆だった。
例えその絆がどれほど傷付いていようとも。
彼の中に自分が居座り続けていることが、何よりの喜びだった。
「……」
ふと視線を乾から外し、目の前のベンチに座る真田の背に向ける。
貞治は今、この男と付き合っている。
認めたくは無いが、真田の言葉を信じるのならそうなのだろう。
何より、先程の真田に対する乾のあの甘えたような声音がそれを証明していた。
あれは、彼が自分に甘えてくるときのそれと同じだった。
ちりり、と再び胸の奥で燻るものがある。
ああそうだ、これは嫉妬だ。
彼と別れて以来、忘れて久しい感情に瞑目する。
昔は彼が他の誰かと話すたび感じていた感情。
静かに、そして獰猛にこの身を喰らう獣。
それがまたこの身の内に戻ってきている。



貞治、全ては無駄な事なのだ。



弦一郎を選ぼうと、誰を選ぼうと。
お前の心は俺と共に在る。
だからもう足掻くな。



この手の中に、戻って来い。







あの日から、全てが変わった。

あれだけ輝いていたコートがくすんで見えた。
ボールの軌道を追うのが遅くなった。
自分の手足が鉛でも差し込んだように重くなった。
勝敗など、どうでもよくなった。

何より、蓮ニの居ないコートに立つ事が苦痛だった。

最初の内はまだ信じられなくて、スクールに通ってさえいればひょっこりと戻ってきてくれるんじゃないかと願ってた。
周りがどれだけ陰口を叩こうと、無視し続けた。そんな事は無い、蓮ニが戻ってきてそれを証明してくれる。そう信じてた。
だけどそれも結局は自分の願いでしかないことを思い知らされるだけで、蓮ニは戻ってはこなかった。


蓮ニがいない。


はっきりとそれを現実として受け入れたのは、暫く経ってからだった。
自室に篭って布団を頭から被り、声を上げて泣いた。
声が掠れるまで泣いて、もうテニスはやめようと思った。
どうせ眼が見えなくなるまでのものなのだ。今やめたっていいだろう。
また昔のように、趣味が手話と点字に戻るだけだ。
俺は、蓮ニの喪失に耐えられなかった。
蓮ニの居ないコートになんて立ちたくなかった。
だからもう、テニスはしない。
泣き疲れて眠りにつく頃にはそう決めていた。

だけど、夢を見た。

コートの中で、俺たちは一緒だった。
俺たちのプレイスタイルは同じだった。
当然だ。データテニスを教えてくれたのは蓮ニなのだから。
同じ事を考え、同時に同じ指示を出し合って、笑いながらテニスをしていた。

楽しかった。
泣きながら目が覚めて、夢を思い出してもう一度泣いた。
だけどもう、声を上げて泣いたりはしなかった。
ただ、涙が溢れて止まらなかった。


ああ、俺、テニスをやめることなんて出来ない。
蓮ニが与えてくれたものを捨てるなんて、俺には出来ない。


蓮ニ、俺はテニスを続けるよ。
俺は俺なりに、お前が与えてくれたものを守っていく。
いつかこの手がお前に届くまで。
俺は、やめないよ。






第四十七話「乾貞治の憧憬」



「貞治…お前、ワザと…」
何を驚いているんだい、教授。
「続きはここからだったハズだな」
俺はこの日のためだけに、コートに立ち続けたのだから。



さあ、あの日の続きをしよう。


《17-16、柳リード!》


あの日から全てが変わった。

その筈だった。


《22-21、乾リード!》


なのに今、こんなにもコートは輝いている。
あの頃と比べて格段に落ちた視力でもボールの軌道がはっきりと見える。
重かった手足が自由に動く。

なあ、蓮ニ。
俺たちは今、同じコートに立っているんだ。
ネットを挟んではいるけれど、また、お前と一緒のコートに立てた。
俺はこの日をずっと待っていたんだ。


《29-29!》


ずっとあの頃に戻りたかった。
ずっとお前と一緒だと無邪気に信じていたあの頃に。
だけど時間は巻き戻せない。
だからせめて、あの日の続きを紡ごう。


《30-29、乾リード!》



そうやって漸く俺はお前が居なくなってしまったことを認めることが出来る。
今までは、認めてしまえばお前と俺を繋ぐ全てが消えてしまう気がしていた。
だけどもう、耐えることは無い。
やっと言える。


《ゲームセット!ウォンバイ乾!7-6!》



さようなら、教授。
大好きだったよ。







第四十八話「柳蓮ニと跡部景吾」




なあ、跡部。
今まで関係を持ってきたヤツラ全員、俺は信じちゃいなかった。
だから別に離れていっても、別にどうだってよかった。
次を探せばいいだけだったし。幸い、相手に困ったことも無かったし。
でもね。
真田がね、俺にもう一度信じるって事を思い出させてくれるんだって。
馬鹿な事言ってるなあ、って思ってたんだけどね。
真田ってあの通り頑固で真っ直ぐデショ?
だから、少しだけ、信じてもいいかなあ、って思っちゃうんだ。
真田ならきっと、俺から離れるときもちゃんと言ってくれるんじゃないかな、って。
期待しちゃ、ダメだって分かってるんだけどね。
だけど、真田なら、って思ってる自分が居る。
手塚みたいに俺がそうするように仕向けたわけじゃなく、始めからああだから、もしかしたら、なんて思っちゃうんだ。

なあ、跡部。
俺、今からでも間に合うかなあ。



関東大会は青学の優勝で幕を閉じた。
越前を中心に未だ騒いでいるメンバーの話から離れ、乾は一人東屋のベンチで目を閉じていた。
膝の上には古びた分厚いノート。
その表紙を指先でとん、とん、と叩きながら乾はじっと目を閉じている。
「……」
とん、とん、と叩いていた指がふと止まる。
人の気配を感じた乾が視線を上げると、そこには見知った姿が立っていた。
「…やあ」
乾は穏やかな笑みを浮かべ、その顔を見つめた。


蓮ニは乾を探していた。
青学メンバーの輪の中からはいつの間にか消えており、蓮ニは会場内を探した。
そして試合前に真田と話していた東屋が見えてくると、そこに探していた姿が見えて蓮ニは歩みを速めた。
「それ以上乾に近づくんじゃねえ。柳蓮ニ」
しかし背後からかけられた声に蓮ニの足は止まった。
「…跡部か」
そこに立っていたのは樺地を従えた跡部だった。
しかしそこにいつもの人を見下したような笑みは無く、蓮ニを睨みつけていた。
「乾の為を思うなら、二度と乾に関わるな」
「…どういう事だ」
「そんなモン、テメエが一番良くわかってんだろ?」
「……」
「あいつはもうテメエが知ってる乾貞治じゃねえ。張り付いた笑顔浮かべて誰にでも愛想振りまいて身体を開くくせに誰も信じちゃいねえ。あいつの中身は空っぽだ」
テメエがそうしたんだ、と続ければ蓮ニはふっと微かな笑みを浮かべた。
「…それでも構わん、と言ったら?」
「やめておけ。あいつは真田と出会って大分落ち着いてきたんだ。これ以上あいつを壊すんじゃねえよ」
「……」
蓮ニが東屋を振り返ると、丁度乾が立ち上がった所だった。
こちらには気付かず、彼の視線は目の前に立つ後輩に向けられている。
ここからでは聞こえないが、何か言葉を交わしながら二人はこちらに背を向けて歩き出した。
「…俺は」
遠くなっていくその背を見つめながら蓮ニは呟くように告げる。
「貞治が誰を選ぼうと、どれだけ壊れようと、穢されようと、それでも最後には必ず俺を呼ぶと信じている」
そうして跡部を見つめ、言い切った。
「あいつの還るところは、俺だ」
失礼する、と跡部の傍らを通りすぎ、乾の去った方とは正反対の方向へ去っていく蓮ニの姿を見送り、跡部はちっと舌打ちした。
「…バカどもが…!」
チクショウ、と吐き捨てて跡部は傍らに立つ樺地の胸元に額を押し付ける。
「なんであいつらはああいう愛し方しか出来ねえんだよ…!」
跡部さん、と気遣うような樺地の声に、跡部は強く目を閉じた。


探していた人は、東屋のベンチでじっと目を閉じていた。
眠っているのかと思ったが、よく見るとノートの上に置かれた手が規則的に動いている。
声をかけようと近づくと、気配で気付いたようで乾先輩はふっと顔を上げた。
「…やあ」
口元が微かに笑みの形を象っている。
この人の表情の変化は未だに見抜きにくい。こうして笑っていても本当にそうなのか分からない時があるし、それ以外の感情は更に読み取らせてくれない。
「どうしたの、海堂」
けれど声音は穏やかで、その笑みを信じていいようだった。
「センパイの姿が、見えなかったんで…」
「探しに来てくれたんだ。ありがとう、海堂」
そう言って笑う乾先輩は、いつもの薄い張り付いたような笑みじゃなくて、ホントに、何処か穏やかさを感じる笑みだった。
だけど、何故かそれが余計不安に感じる。
「戻ろうか」
そう言って立ち上がり、俺の前を歩き始めるその長身を追いかけて隣に並ぶ。
「ねえ、海堂」
「はい」

「俺とダブルスを組んでくれて、ありがとう」

思わず傍らを歩く乾先輩の顔を見上げると、乾先輩もこちらを見下ろして笑った。
いつもの淡々とした口調からは想像できないくらい、優しい声だった。
「……っす」
何故かその顔を見ていられなくて視線を落とした。
何で、そんな事、言うんすか。
そう問いかけたくて、でも答えを知りたくなくて口にすることは出来なかった。

なんでそんな、まるでこれが最後みたいな言い方、するんすか。





番外編「合宿と白いシャツ」


関東大会が終わり、青学メンバーは六角中との合同合宿を行っていた。
今日は初日ということもあり、練習は午前中だけで午後は全員で海に出ることになった。
「あれ?乾、脱がないの?」
菊丸の問いかけに乾は合間に笑って誤魔化す。
乾は確かに皆と同じ学校指定の水着を穿いていたが、上は白いシャツを着たままだった。
「…怪しい」
いつからそこにいたのか、乾の背後でぼそりと不二が呟いて菊丸に目配せした。
「!」
ぴんと来た菊丸がにやりと笑って素早く乾の背後に回り込み、乾を羽交い絞めにする。
「ちょ、菊丸、」
「観念しろいにゅい〜!」
「残念無念また来週〜ってね」
不二が菊丸の口調を真似して乾のシャツを思い切り捲り上げ、乾の白い肌を日の元に曝した。
「…わあ、これはまたご大層なことで」
「え、なになにー?!」
乾を抑えながら菊丸が跳ねるが、不二はあっさりと乾のシャツを下ろした。
「エージ、もういいよ。何でもなかったから」
「えー!だってさっき不二、」
乾を開放してぴょこぴょこ跳ねる菊丸に不二はもう一度繰り返した。
「何にもなかったの。エージ」
むすっとして言う不二の機嫌の悪さを察したのか、菊丸はつまんない、と言いながらもそれ以上は追求してこなかった。
「もう!俺桃たちと遊んでくるからねー!」
海に向かって駆けていく菊丸を見送り、不二はその場に座り込んだ。
「今日は手塚にチクらないんだ?」
乾の苦笑交じりの問いかけに、不二は顎を膝の上に置いて唇を尖らせた。
「だって、冗談じゃ済まないぢゃない」
日の元に曝された乾の白い肌には無数の鬱血痕が散っていた。
それが何を意味するのかなんて、わからないはずもない。
「相手は誰さ」
応えは期待してなかった。
しかし予想に反して乾はあっさりと「真田」と答えた。
「…真田にまで手を出したんだ。よく落ちたね、あの堅物」
「堅物だからこそ、簡単に落ちたよ」
口元に手を当ててくすりと笑う仕草に不二は苛立ちを覚える。
どうして彼はこうなのだろう。
どうして、こんな方法でしか寂しさを埋められないのだろう。
巣にかかった蝶を片っ端から食い荒らすような方法でしか自分を表現できない。
「ねえ、今は誰とどうしてようと止めないけど、」
「手塚が帰ってきても真田と別れるつもりはないよ」
「……」
まあ、向こうが別れたいって言ってこれば話は別だけど、と彼は続ける。
「…手塚、悲しむよ」
「そうだね。でも、不二は止めないだろ?」
「何でそう思うのさ」
見上げると、彼は相変わらずの不透過眼鏡で不二を見下ろし、笑った。
「だって不二、俺のこと好きデショ」
手塚と同じくらい、と自信有り気に言うこの男がムカつく。
不二はぷいっと顔を背けると吐き捨てるように呟いた。
「だから乾って嫌いなんだ」




第四十九話「仁王雅治と切原赤也」


「お」
部活の帰り道、仁王が不意に声を上げて立ち止まった。
「どうしたんすか、仁王先輩」
「見てみ、えらい別嬪じゃ」
指で示された方を見れば、確かに整った顔立ちの青年が歩いている。
しかし赤也は彼自身よりも、彼が手にしている白く細長い杖に目が行った。
青年はその杖の先で行く先を叩きながらゆっくりと歩いている。
「なんすかね、あれ」
「白杖じゃ」
「ハクジョウ?」
「弱視のモンが持つ杖の事じゃ」
「へえ。じゃああの人、眼え殆ど見えないって事っすか」
物珍しげに見ていると、不意にその足取りが止まった。
彼の前には数台の自転車が止まっている。
見慣れた違法駐車も、視力の弱い彼には大きな壁なのだろう。杖の先で慎重に確かめながら自転車を避けていく。
「よし、赤也。ちと手伝って来い」
「はあ?!」
何で俺が、と言うより早く背を思い切り押されてしまい、たたらを踏んで青年の前に飛び出してしまった。
「っとぉ…」
仁王先輩のアホンダラ。そんな事を思いながらそおっと目の前の人物を見上げると、彼は驚いたように眼を見開いてこちらを見ていた。
深い色合いの瞳に思わず魅入っていると、彼は不思議そうに小首を傾げた。
「何か?」
「あ、いや、その、そこ、自転車あるんで、その…」
すると彼は「ありがとう」と柔らかく笑った。
「でも大丈夫。これは訓練だから」
そう言って彼は白杖の先で地面を叩きながら自転車と赤也の脇を通り過ぎていく。
そして通り過ぎてから赤也を振り返り、「ね?」ともう一度笑った。
何だか随分と余計な事をしてしまったような気がして、赤也は離れた所でにやにやしている仁王を睨み付けた。
「仁王先輩!大丈夫だったじゃないすか!」
すると青年はきょとんとした後、仁王の居る辺りを振り返った。
「仁王?仁王も居るのかい?」
「へ?」
今度は赤也がきょとんとする番だった。
「あんた、仁王先輩の知り合い?」
仁王と青年を指差して見比べると、しかし仁王は違う、と言わんばかりに手をひらひらと顔の前で振った。
「知り合いっていうか…君は切原君だろ?立海の」
「へえ?!」
赤也は素っ頓狂な声を出して目の前の顔を見上げる。
やはりどれだけ見ても見覚えは無い。
「…おー、お前、乾か」
すると寄って来た仁王が青年をじろじろと見回した後、合点がいったように声を上げた。
「やっぱ仁王先輩の知り合いなんじゃないすか」
「つーか、コイツ、青学の乾じゃ」
「はい!?」
もう一度その顔を見る。青学の、と言われてもやはりピンとこない。
こんなヤツ居たっけ?
そうありありと顔に出てたのだろう、仁王が「やから、」と乾と呼ばれた青年を親指で示した。
「参謀を負かした、乾貞治」
「……」
基本的に自分の試合以外興味の無い赤也はおぼろげな記憶を掘り起こし、数秒後、叫んだ。
「うっそ!あのぬぼーっとしたメガネ?!参謀と同じでデータがどうのって言ってた?!うっそ!ぜってえ嘘!」
「これならどうじゃ」
騒ぐ赤也に、すっと仁王が乾の目元を手で隠した。
「あの眼鏡当てはめてみい」
「……」
あの不気味なまでの不透過眼鏡を思い起こし、仁王の手の部分に当てはめてみる。
…確かに、確かに乾貞治だ。
なのだが。
「…ありえねー!!」
眼鏡取ったらとんでもなく美形っていつの漫画だよ!
地団駄踏みたいくらい理不尽な気分に赤也は叫んだ。
「あーかや。ちーっとウルサイぜよ」
「だって仁王先輩、コイツ反則だって!」
コイツ、と指差された乾はただ苦笑している。
その苦笑すら魅入ってしまいそうな何かを持っていて、赤也を余計混乱させた。
「赤也は放っておいて、乾、なんでこんなトコおる」
そう言われてはっとする。
確かに青学の乾が何故神奈川に居るのか。
「この近くの大型スポーツ用品店に用があってね。行くついでに訓練しておこうかと思って」
「そうだよ!何でアンタ見えてんのにそんな杖持ってんだよ!」
紛らわしいんだよ!と声を荒げればやはり彼は苦笑するばかりだ。
「眼が悪いのは本当なんだ。今だって、大体の輪郭と声で君たちを判断しているだけで、顔自体は殆ど見えない」
「でもアンタ、テニスしてたじゃんよ。しかも参謀に勝っちまうし」
すると彼はそれには答えず、はにかんだように笑うだけだった。
「…その蓮ニだけど、今日の事は、あいつには秘密にしておいてくれないかな」
「なんでっすか」
「まあ、色々と事情があってね」
そう言いながら乾は白杖を持ち上げると四つに折りたたんで鞄にしまってしまった。
「ええのか」
「仁王たちが居るって事は、蓮ニに見つかる可能性もあるからね。それにしても今日は部活が終わるの早いんだね」
「あー真田が幸村の見舞いにいっとんのじゃ。やから俺らは自主トレこなして解散っちゅーこっちゃ。…それより、参謀への口止め料、貰ってええか」
「出来る範囲でなら」
すると仁王はにっと笑い、乾に素早く顔を近づけて口付けた。
「あー!!!」
叫ぶ赤也を「うるさいぜよ赤也」としれっと流し、仁王は乾から離れた。
「毎度」
にやりと笑う仁王に、乾は困ったように笑って肩を竦めた。
「どういたしまして」
「ほんじゃ、俺は帰るき。赤也、ちゃんと送ったれよー」
「ちょっ、仁王先輩!なんてことしてんすかー!!」
しかし仁王はさっさと二人の間を通り過ぎ、ひらひらと手を振って去っていってしまった。
「あんの詐欺師〜!」
がしがしと髪を掻くと、傍らでくすくすと笑う声がしてむっと唇を尖らせて乾を見上げた。
「んで、あんた杖無しで行けるのかよ」
「そうだね。この辺一帯の地図は叩き込んであるし、前にも一度来たことがあるから不可能ではないよ」
「……」
むすっとして乾を見ていたかと思えば、赤也は徐に乾の手を引いて歩き出した。
「切原君?」
「店、行くんだろーが」
ざかざかと足早に歩く赤也に引っ張られながら、乾は小さく笑った。
「出来ればゆっくり歩いてくれると有難いんだけど」
足元見えないから。と続ければ赤也ははっとしたように、しかし同時に赤くなって「早く言えよな!」と怒鳴った。
「うん、ごめんね」
「謝ってんじゃねえよ!ウゼエ!」
「じゃあ、ありがとう」
「っ…!あ、あんた仁王先輩にキスされてんじゃねえよ!避けろよ!」
言ってすぐに彼にはそれすら困難なのでは、と思いついたが今更取り消すことも出来ずに思わず手を握る力を強くする。
「まあ、目くじら立てるような事でもないから」
「じゃあ俺がさせろつったらさせるのかよ!」
のんびりとした応えに苛立って口走り、はっと我に返る。
さっきから俺、何言ってんだ。ああもうチクショウ!
ワケが分からない苛立ちを抱えながら毒付くと、不意に頬に柔らかい感触が当たって思わず足を止めた。
見上げた先には、にっこりと笑った乾貞治。
「はい、口止め料」
内緒ね、と言う様に人差し指を口元に当てた仕草に赤也は一層赤面する。
「ばっ…なんで仁王先輩は口で俺は頬なんだよ!」
ワケが分からない頭のまま叫んだのは、一番言いたくなかった本音で。
すると乾は己の唇に当てていた人差し指をついっと赤也の唇に当てて微笑んだ。
「こっちは好きな人の為にとっておきなさい」
ね?と小首を傾げる姿と唇に当てられた人差し指の感触に、赤也は全身の血が沸騰するかと思った。
「ばっバカな事言ってんじゃねーよ!ばーかばーか!超ウゼエ!」
小学生のように怒鳴って足早に歩き出したが、それでも彼の手を離すことは出来なかった。




第五十話「切原赤也と乾貞治」


結局赤也は乾を大型スポーツ用品店まで引っ張っていき、買い物にも付き合った。
といっても乾の言うとおり、ここまで来ること自体が一番の目的だったらしく彼が購入したのはわざわざ神奈川まで来なくても手に入るはずのリストバンドとグリップテープだった。
拍子抜けした赤也を乾は近くのファーストフード店に誘った。お礼に奢るという言葉に赤也は喜び、遠慮なく三種類もハンバーガーを頼み、ポテトとチキンナゲットとジュースもしっかり頼んだ。
「乾さん、そんだけでいいんすか」
赤也に続いて乾が頼んだのはポテトとウーロン茶だけで、それでも彼は「十分だよ」と笑った。
「だからそんなにひょろいんすよ」
「そうかな」
トレーを持って窓際の席に腰掛ける。
窓の外を流れていく人々を眺めながら乾はポテトを一本齧った。
「眼、どれくらいみえないんすか」
照り焼きバーガーに齧り付きながら問うと、乾はうーん、と小首を傾げて赤也を見た。
「そうだね、この距離で切原君の表情が分からないくらいかな」
この距離、つまりテーブル一枚分しかない。
赤也から見れば乾の表情も、その色合いの深い瞳もはっきりと見て取れるのに、乾はそれが全く分からないと言う。
「へえ。よくそんなんでウチの参謀に勝てましたね」
すると乾は曖昧な笑みを浮かべた。
あ、まただ、と赤也は思う。
乾は柳の名が出るたびこうやって何かを誤魔化すような曖昧な笑みを浮かべる。
嘗てダブルスを組んでいたという話は聞いたが、それに何か関係しているのだろうか。
「眼鏡を掛ければ多少は違うし、何より俺にはデータがあるからね」
「あー、参謀が教えたって言う」
我ながら無神経だとは思うが、しかしそれを悪いとは思わない。
乾も赤也の気性を分かっているのか、気を悪くした様子も無く「そう」と頷いた。
「蓮ニには感謝しているよ。蓮ニがデータテニスを教えてくれなければ俺は今日までテニスを続けることは出来なかっただろうから」
「なんでそこまでしてテニス続けるんすか」
「そうだな、まあ、意地もあったんだろうけど、やっぱりテニスが好きだから、かな?」
でもまあ、この夏でそれも終わりかな、と彼は窓の外を眺めながら呟いた。
「いい加減視力も落ちてきたし、目指すものも達成したし」
「…全国制覇はどうでもいいんすか」
思わず低くなった声に、ああ、ごめん、と乾は苦笑した。
「そういう意味じゃなくて、勿論部員としては全国制覇を成し遂げたい所だけど、俺自身がテニスを続ける理由が無くなってしまったから、皆の足を引っ張る前に身を引こうかと思ってね」
「理由が無いって、さっき好きだからっつってたじゃん。それじゃダメなんすか」
「…これ以上続けたら、嫌いになってしまいそうだから」
「はあ?」
赤也はイラついていた。好きだの嫌いだの行ったり来たりする話にも苛立ったが、この目の前の男がテニスを諦めると言外に仄めかしている事に気づいた途端、無性に腹が立っていた。
しかし、乾が何処か寂しげな笑みを浮かべた途端、怒りのボルテージが一気に下がった。
「このまま行けば俺はテニスをするどころか、正確なデータを取ることもできなくなるだろう。じりじりと自分のプレイが出来なくなっていく事を自覚しながら続けるのは趣味じゃないし、視覚障害者によるハンディキャップテニスはあるんだが、俺がやりたいテニスはそんなテニスじゃない。…何より、恨みたくないんだよ。テニスを」
「恨む?」
「テニスなんてやらなければ良かった、なんて思いたくはないんだ。テニスは俺に多くのものを与えてくれたから、テニスに八つ当たりするようなことはしたくない。だから、自分のプレイが出来ている今の内にやめておこうと思ってね」
「……」
赤也は三つめのハンバーガーに齧り付いて黙り込んだ。
混乱していた。
そんなのはお前が弱いのだ、ギリギリまで縋り付いて見せろと言うのは簡単だ。しかし、赤也には視力の無い世界に放り込まれる事がどんな事なのかが今一つ理解できない。見えることは当たり前だったし、いつか見えなくなるかもなどと考えたことも無い。
だから目の見える自分が彼をバカにするのはお門違いだと思ったのだ。
遠慮だなんて自分らしくないと思う。
しかし、と赤也はちらりと乾を見る。
赤也の視線に気付けない乾は何でもないようにウーロン茶を啜っている。
この人を、傷つけてはならないような気がしたのだ。
「…なんで、俺にそんな話するんすか」
問いかけに漸く赤也が自分を見つめていた事に気づいた乾が小首を傾げた。
何でこの人はこんな図体でかいくせに小動物みたいなこまい動きが似合うのだろう。
「そうだね、何故だろう。…真田といい幸村といい、俺、立海人に弱いのかな」
「は?なに、アンタ幸村部長と真田副部長も知り合いなんすか」
「ああ、俺の通ってる病院が幸村と同じ病院でね。偶然知り合ったんだ。真田はその延長みたいなものかな」
「へえ、俺アンタ見たこと無いけど」
「そりゃあ俺が幸村に会いに行くのは大抵が平日の午前中だったからね」
「ふーん」
何か面白くない。
ずずーっとメロンソーダを啜りながら赤也は思う。
参謀はともかく、自分が一番乗りだと思ってたのに。
三鬼才全員と知り合いなんじゃん。
幸村と乾の組み合わせは何となく分かる。
でも、真田と乾はどうなんだろう。話すことあるのか?あの真田副部長と。
そんな事を思いながら何気なく店に入ってきた人物に目を向け、ぎょっとした。
「げ」
その真田が、入ってきたのだ。
「ん?どうかしたかい?」
「あ、いや、真田副部長が…」
あの真田がファーストフード店に。有り得ない。
しかし乾は「ああ」と得心が行ったように頷いて振り返った。
「乾、待たせたな。…何故赤也がここに居る」
二人のテーブルにやってきた真田はまず乾を見下ろし、次に赤也を睨んだ。
何故睨まれなければならないのかわからず狼狽していると、乾がにこりと微笑んで真田を見上げた。
「途中で偶然会ってね。店まで案内してもらったんだ」
乾の言葉に漸く視線を緩め、そうか、と真田は頷いた。
「悪いね、真田の後輩勝手に使っちゃって」
「構わん」
「それより、幸村の見舞いに行ってたんだって?どうだった?」
「順調だ。お前にも会いたがっていたぞ」
「そう?決勝が終わったばかりだから会いに行き辛かったんだが…なら今度の検診の時にでも寄るよ」
「そうしてやってくれ」
「ていうか真田副部長!」
二人の会話に割って入るように赤也が声を上げた。
「何だ、赤也」
「何で真田副部長がこんな所にいるんすか」
家と逆じゃないすか、と続ければ真田は当然のような顔をして「乾を迎えに来たのだ」と告げた。
「はあ?」
「うん、元々真田とここで待ち合わせしてたんだよ」
「乾、白杖はどうした」
「切原君が誘導してくれたから、鞄にしまってある」
「そうか。なら行くぞ」
「そうだね。切原君、今日はありがとう。ああ、あとは飲み物だけかい?ならこっちのゴミは俺が捨てておくよ」
「貸せ。俺がやろう」
「ありがとう、真田」
ぽかんとしている赤也を尻目に二人はどんどん会話を進めていく。
真田がゴミを捨てに行き、戻ってくると乾が立ち上がった。
「それじゃあ切原君、また」
「はあ…」
唖然としたままの赤也の目の前で乾は真田の腕に左手を添え、真田もそれを当たり前のように受け入れている。
ひらひらと手を振る乾に反射的に振り返しながら、赤也は二人の後姿を見送った。
ぱたり、と振っていた手がテーブルに落ちる。
「…何で乾さんを真田副部長が迎えに来るんすか…」
しかし遅すぎた問いかけに答えるものは誰もいなかった。
「わけわかんねえ…」


乾は時折、眼鏡を外して外出する。
彼曰く訓練なのだそうなのだが、見ているこちらはハラハラしっぱなしだ。
何しろ、彼の視力はあの分厚い不透過眼鏡を掛けていても近くの人の顔が辛うじて見える程度なのだ。
なのにその眼鏡すら外して歩き回るというのだから心配にならないはずがない。
なので、出来得る限り彼が眼鏡を外して出歩く際は一緒に付いて行くことにしている。
そうすると彼は左手を真田の腕に添え、真田のナビゲートで歩いてくれるからだ。
 
乾は強いと思う。
 
彼自身、己の眼に劣等感を抱いていることは認めていたし、弱視として振舞う事にも屈辱を感じているのだろう。
しかし乾は厭だと口では言いながらも、表情は相変わらず穏やかに笑って「大丈夫だから」と真田に囁いた。
光を失うという事はどれほどの恐怖なのだろう。
一度、真田は眼を閉じて家の中を歩いてみたことがある。
歩き慣れ、脳裏にも細部まで細かに記憶されている我が家であっても真田はちょっとした段差に躓いたし、壁にぶつかった。
もう何年か後には、乾はこんな世界で生きていかなければならないのかと思うと居た堪れなかった。
しかし乾はそれを仕方ないことだからと笑う。
諦めていると言うよりは、ただ穏やかにそれを受け入れているという感じだった。
本当は恐怖や絶望だってあるだろう。
けれど乾はただただ穏やかな笑みでそれら全てを押し殺し、真田の腕にそっと左手を添えるのだ。


乾は以前、他人の前で弱視を匂わせたくはないと言っていた。
しかし真田の前ではそれを表に出し、真田の助力を仰ぐ。
それは、乾にとって自分が特別であるという証ではないだろうかと真田は思う。
自惚れかも知れないが、乾は真田に対しては随分甘えているように感じるのだ。
そう、例えば乾が眼鏡を外して出かける時。
彼は真田の腕にそっと左手を添えながら言うのだ。
「真田、俺だけを見ててね。他の人なんて見ないで。俺の事だけを考えていて」
そうして彼は子供のような独占欲で、優しく微笑むのだ。







戻る