浅瀬を歩む君の滑らかな脚
| 第五十一話「仁王雅治と乾貞治」 「乾」 フェンス前でノートを広げていると、背後から声が掛かった。 「ん?」 振り返ると、フェンスの向こう側に見覚えのある姿が立っていた。 「仁王?」 「よ」 ぴしっと片手を挙げたのは、制服姿の仁王雅治だった。 「どうしたんだい。立海もまだ部活中のはずだが」 すると仁王は「フケてきた」とにやりと笑った。 「真田が怒るよ」 「ええんじゃ。真田なんぞ怒らせとき。それより、ぬしこの後ヒマか」 「一旦帰ってからまた神奈川行くつもりなんだけど」 「ほんならご一緒、してええか」 乾は数秒考えた後、いいよ、と頷いた。 「なら、部活終わるまでその辺で待っとるき」 「ああ。ウチの子らにはちょっかいかけるなよ?」 「わかっとるよ」 ひらひらと手を振って木陰に向かう仁王の後姿を見送り、乾はコートに向き直った。 「うわっ、不二、驚かせるなよ」 真後ろに立っていた不二に乾がびくりとすると、不二は不機嫌そうに乾を見上げていた。 「仁王にも手を出したの?」 「いや?昨日街で偶然会ったくらいだけど」 「じゃあ何でわざわざ青学まで会いに来るわけ?」 「さあ」 サッパリ分からない、と言わんばかりに小首を傾げる乾に、不二は一つ溜息を吐いた。 「乾って計算ずくなのか天然なのかどっちなの?」 「仁王を引っ掛けた覚えは無いよ」 真面目に言う乾に不二はやれやれと肩を竦めた。 「あーはいはい、両方ね。もう手に負えないよ」 せめて手塚にはバレないようにね、と去っていく不二の背に、乾が小さく呟いた。 「バレてくれないと意味が無いんだよ」 部活が終わると乾は仁王と連れ立って帰路に着いた。 仁王の存在に菊丸や大石は警戒していたようだったが、乾は敢えてそれらを無視する事にした。 やがてマンションに到着し、仁王をエントランスに待たせておくのも気の毒だったので部屋に上げることにした。 「着替えてくるから、その辺で適当に寛いでて」 物珍しげに室内を見回す仁王をリビングに置き去りにして乾は自室に向かった。 愛用している水色が涼しげなジャージを取り出し、制服を脱いだ所で徐に仁王が部屋に入ってきた。 「仁王?」 彼は半裸の乾の体をじろじろと見回し、そしてにやりと笑った。 「それ、真田がつけたんじゃろ」 それ、とは恐らく乾の体に散る無数の鬱血痕の事だろう。 乾はひょいと肩を竦めてシャツを羽織った。 「さあ?」 「恍けるんならそれでええけど。ぬしに興味が湧いた」 歩み寄ってきた仁王が徐に乾の肩を押した。 「わっ」 バランスを崩してベッドに倒れこむと、ぎしりと音を立てて仁王もベッドに膝を付き乾に覆いかぶさった。 「あの堅物が夢中になるん、味見させてもらうぜよ」 途端、乾は己の思考が冷めていくのが分かった。 確かに彼が会いに来た時点でその可能性は考えていた。 けれど例えそうなったとしても別にどうだってよかった。 身体くらい、どうだっていい。 そう、思っていた。筈だった。 「に、おう…」 首筋を這う生暖かい感触にぴくりと身体を震わせて目を閉じる。 閉じた瞼の暗闇の向こう、思考の奥底で何かが鳴っている。 ああ、これは警鐘だ。 いけない、と頭のどこかで囁く声がする。 何故。今までこんなこと無かったのに。 「っ」 不意に、真田の顔が脳裏に浮かんだ。 このまま仁王と寝てしまえば、真田は赦さないだろう。 きっと真田は自分の元を去るだろう。 ああ、何処かで警鐘が鳴っている。 「に、お…やめっ…」 シャツの中に滑り込んだ手を押し止めるようにその手首を掴む。 初めてだった。 二年前に大和に抱かれて以来、拒んだのは初めての経験だった。 仁王が嫌だとかそういうわけではない。 なのに無意識に逃れようと身を捩っている。 「乾、これも参謀殿への口止め料じゃ、言うたらどうする」 ひたりと乾の動きが止まった。 己を組み伏せる男を見上げると、彼は意地の悪い笑みを唇に貼り付けて乾を見下ろしている。 仁王は、選ばせようとしている。 蓮ニに眼の事を知られるか、真田に背くか、どちらかを選べ、と。 「……」 乾は数秒の間、仁王を見つめていたがふと微笑して仁王の首に腕を絡めて引き寄せた。 重なる唇。ぬるりと入り込んでくる熱い舌の感触。 「んっ…」 ごめんね、真田。 俺は結局、こういう人間なんだよ。 ぎ、と二人分の体重を受けてベッドが軋む。 唇は角度を変えながら何度も重なり、仁王の手が乾の胸元を弄った。 「っは、ぁ…んんっ…」 指と舌で舐られ、身を捩りながら甘い声を洩らす。 なあ、跡部。 まだ間に合うかも、なんて、やっぱり無理だよね。贅沢すぎたんだ。 全ては今更、だ。 「…っぁ…に、おう…!」 真田には、嫌われたく、ないなあ。 第五十二話「真田弦一郎の敗北」 その夜、いつもの時間になっても乾は現れなかった。 いつもなら到着する少し前にメールが入るのだが、それすら無い。 何かあったのだろうかと、しかし自分から電話することも出来ず躊躇っていると不意に手の中の携帯電話が震えだして取り落としそうになった。 ディスプレイには「乾貞治」の文字。 「乾か」 通話ボタンを押して耳元に当てると「やあ」といつもの乾の声が電話越しに聞こえた。 『少し、出てこれるかな』 「構わんが…ウチではいかんのか」 すると乾は回線の向こうでああ、うん、と何処か曖昧な返事をした。 『ちょっと、外で話したくて』 乾が指定したのは、二人で話したあの公園だった。 夜の公園はライトアップされていて、ベンチで横になっているサラリーマンや東屋で楽しそうに話している恋人同士がちらほらと見受けられた。 乾はいつもと同じ、自動販売機近くのベンチに座っていた。 「乾」 乾はいつもの水色のジャージを着込んでおり、しかし何処か力なく真田に笑いかけた。 「やあ」 「どうしたのだ、一体」 その問いには答えず、乾はすらりと立ち上がった。 「真田、俺を殴ってくれないか」 突然の申し出に真田は眉を顰めた。 「どういうことだ」 「俺ね、さっきまで他の男に抱かれてたんだ」 薄い笑みを浮かべてそう告げる乾を真田は瞠目して見つめる。 「顔見知りだったから油断したよ。俺が迂闊だったんだ。だけど最初はどうでもよかった。身体くらい、好きにすればいいと思ってた」 でも、と彼は眉尻を下げて笑った。 「真田の顔が浮かんだんだ」 流されたらダメだと思った。 真田はきっと赦してくれないから。 なのに。 「ダメだった。結局、俺はこういう人間だったんだ」 だから、殴って欲しいと乾は言う。 「……」 真田が俯いた乾の頬に手を伸ばすと、びくりとその身体が震えた。 すいっと彼の重い眼鏡を取り上げると、乾は揺れる瞳で真田を見た。 「…お前が一番傷付いているのに、殴れるわけ無かろう」 「…俺が、傷付いてる…?」 「そんな顔をされたら、殴る気も失せる」 それに、と抱き寄せると乾の体が強張るのを感じた。 「こうして打ち明けてくれたということは、少しは俺の事を信用してくれているということにはならないだろうか」 「…信用…?俺が…?」 「その気になれば隠し通すことも容易だったはずだ。しかしお前はこうして俺に打ち明けてくれた」 「……俺、ずっと真田の事考えてた。真田、怒るだろうな、とか、もう会えないかもしれない、とか…でも、隠している方が嫌で、でも真田を失うのも嫌で…」 おずおずと乾の手が真田の背に回される。 「確かに腹は立っているが、どちらかと言えばお前に対してというより相手に対して怒り、というか、嫉妬している。誰とも知らん輩がお前を好きにしたかと思うと腸煮えくり返るわ」 「…知らない輩じゃないんだけどね」 小さく呟かれた言葉に真田はばっと乾から身を離し、その両肩を掴んだ。 「俺の知ってる奴か!誰だ!」 真田の剣幕に乾は右に左に視線を彷徨わせた後、ぽそりと告げた。 「…ええと…仁王」 「おのれ仁王!叩っ斬ってやるわ!」 「わー!待って、待って真田!」 ぐるりと踵を返して歩き出した真田の腕に乾が慌ててしがみ付いた。 「流された俺も悪いんだし、だからちょっと待ってって!」 「しかし乾!」 乾を引きずってでも仁王の元へ向かいそうな勢いに、乾は仕方ない、と眼鏡を外して真田をじっと見つめた。 「真田…」 「な、なんだ」 切なげに揺れる瞳に真田が硬直する。 視線はしっかり真田を見つめたまま、きゅっとその腕に寄り添った。 「仁王の所になんて行かないで。今夜は、ずっと俺を抱いていて…」 仁王のこと、忘れさせて。ね? 儚げに微笑めば、真田の顔は一気に朱に染まり、油の足りない機械のようにぎしぎしとした動きで乾と向き合った。 「い、乾がそう言うのなら、仁王の事は明日にしよう」 「ありがとう、真田」 結局、真田が乾に敵うはずが無かったのだった。 第五十三話「手塚国光の帰還」 「久しぶり。元気?…ああ、会うのは正月以来だね。うん、ごめんごめん。さすがに三年になるとね。特進は容赦ないから。あは、それもそうだ。…うん、まだ大丈夫だよ。そこそこ見えてるから。…うん、ありがとう。皆にも宜しく伝えておいて。会えるのを楽しみにしてるよ」 全国大会を二日前に控えたその日、手塚は帰ってきた。 乾はそれを大石からの電話で知った。 そもそも手塚が九州に行ってから一度も連絡を取っていなかったし、手塚がどう思っていたにせよ乾から連絡を取ろうとは思わなかった。 だから回線の向こうで喜ぶ大石の声に淡々と応えを返したが、大石はそれに気付かなかった。 手塚が帰ってくる。 大した感慨は沸かなかった。 ただ、念のために常飲薬と一緒に不穏時にと処方された薬を一粒追加した。 どうも手塚に対しては感情のコントロールが聞かなくなるときがある。 それは決して、良い傾向ではないことを乾自身、理解していた。 「これが全国で勝てる最強メンバーです。竜崎先生」 そう言って大石が流した一筋の涙を、乾は見ることが出来なかった。 ただフェンスの向こうで握手を交わす二人を、ぼやけた視界で眺めていた。 俺にはもう、あんな風にはなれない。 漠然とそう感じていた。 テニスは好きだ。 でも、もう終わりが見えている。 四年前に果たせなかった思い出にも決着をつけた。 これ以上の執着は後悔を呼ぶだけだ。 テニスが好きだから続けている。 その思いだけでここにいる。 それだけならば、もう、終わりにしよう。 全国大会までは全力を以って勝ちに挑もう。 しかしソレが終わったら、テニスからはもう、離れよう。 そうする事が一番なのだ。 だけど。 「……」 フェンスに指先を掛けると、込めた力に応じてそれは軋んだ音を立てた。 俺だけ光を失うなんて、不公平だと思わないか。 なあ、手塚。 返ってきた日常。 手塚の居る青学。 なのに何処か己が異分子であるような感じがして乾は携帯を弄る手を止めた。 今この部室には手塚と自分だけが残っていた。 手塚は不在中の部誌記録を読んでいる。 その端正な横顔は記憶と寸分の違いも無い。 ああ、そうか。 乾は思う。 この違和感は、罪悪感か。 手塚を一方的に振り回して捨てておいて、それでも尚引きずり込もうとしている事への。 一人前にそんなもの、持ち合わせていたのだな。 乾は何処か他人事のように思う。 手塚は己が裏切られていることなど思いもよらないだろう。 乾が手塚を、手塚が乾を想うのと同じ意味で好きではないことは手塚も知っている。 それでも手塚という存在は乾の中で特別な意味を持っているのだと信じているのだろう。 事実、そうであることは乾も否定はしない。 乾にとって手塚は特別だった。 何よりも誰よりも丁寧に、慎重に扱った。 例え置き去りにしようとも、捨てようとも戻ってくるように。 そう仕向けた。 「…乾?」 視線に気付いた手塚が乾を見る。 何でもないよ、と笑って乾は再び携帯の画面に視線を落とす。 カチカチとボタンを連打する音が続き、そして送信する。 送信完了の画面が表示されると同時に携帯を閉じ、胸ポケットにしまった。 「ねえ、手塚」 背もたれに身体を預けると、安っぽいパイプ椅子はぎしりと音を立てた。 さあ、最終調整といこうじゃないか。 「何だ」 俺の事が本当に好きならば。 「俺ね、今、立海の真田と付き合ってるんだ」 俺を奪い返してごらん、手塚。 第五十四話「手塚国光の困惑」 今、乾は何と言った? 手塚が瞠目したまま乾を見つめていると、聞いてる?と乾が小首を傾げた。 「な、に…?」 辛うじて絞り出した声に、乾は淡々と同じ言葉を繰り返した。 「俺ね、今、立海の真田と付き合ってるんだ」 視界が歪んだ気がした。 何故、と吐き出すように問えば彼は換わらない微笑みを浮かべて。 「だって、真田が俺の事好きだって言うから」 言ったよね、手塚。乾はいっそ優しささえ湛えて笑う。 「俺を離しちゃダメだよって。ねえ手塚、どうして九州にいる間、一度も連絡くれなかったの?大石とはまめに連絡取ってたのに」 柔らかな声が棘となって突き刺さる。 乾とて分かっているのだ。声を聞けば会いたくなることも、治療に専念したいという手塚の思いも。分かって手塚を責めている。 それが手塚にも理解できていたので余計に何も言えなくなる。 「……どうすれば、良かったと言うのだ」 視線を落として問えば、別に何も、と淡白な応えが返ってくる。 「もう過ぎてしまったことだから、どうしようもないよね」 「俺はもう、お前には必要ないということか」 「…手塚」 かたりと乾が立ち上がる気配に手塚は身を強張らせる。 目の前に立った乾をまるで縋るように見上げると、彼は慈愛さえ孕んだ微笑みで手塚の頬をそっとその掌で包み込んで見下ろしていた。 「今でも俺の一番は手塚だよ。手塚が一番好きだし、特別」 でもね、と乾の顔が近づき、そっと羽が触れるように口付けられた。 「真田に抱かれると、安心するんだ」 呆然と間近の乾を見上げていると、すっと乾は身を起こして手塚から一歩退いた。 そしてそのまま踵を返し、テニスバッグを提げて扉へ向かって歩いていく。 「ねえ、手塚」 部室から出る一歩手前で立ち止まると、乾は手塚を振り返った。 「欲しいものは、座ってるだけじゃ手に入らないよ」 ぱたりと扉が閉まる。 手塚はただ只管乾の出て行ったその扉を見ていた。 「…乾…」 呼んでも応えがあるはずも無く。 頬に触れた温もりは変わらぬものだったのに。 「い、ぬい…」 お前を取り戻すには、どうすればいい。 薄暗くなり始めた道を歩きながら、乾は携帯電話を耳に当てて歩いていた。 『それで、どうするつもりなんだ』 電話越しの跡部の声に、乾は「えー?」と小首を傾げながら返した。 「俺は何もしないよ。後は手塚次第だもの」 『そうじゃねえ。真田の方だ』 ああ、そっち。 乾は得心がいった様に応えた。 「仁王との事があったばかりだし、手塚の事は伏せておくよ」 『真田を切るつもりは無いんだな』 「うん。だって真田、面白いもん。…!」 マンションの前まで来て乾は瞠目して立ち止まった。 エントランスに佇む、すらりとした人影。 『乾?おい』 「……蓮ニ」 まるでその声が聞こえたかのように彼は顔を上げ、乾を見た。 『…乾』 跡部の案ずる声音に大丈夫、と乾は返す。 「…また、連絡する」 『…わかった』 「それじゃあ」 ぷつりと回線を断ち切り、乾は歩み寄ってきた相手を見返す。 「歩きながらの通話は余り好ましくないな、貞治」 落ち着いた声音。親しげな雰囲気。 しかし乾は訝しげに蓮ニを見た。 「こんな所まで、どうしたんだい」 愚問だな。彼は微かに笑った。 「お前に会いに来たのだ。貞治」 第五十五話「乾貞治の困惑」 お前に会いに来た。 そう目の前の男は言った。 別に不思議な事でも不自然な事でもない。 蓮ニとの蟠りはあの試合で全て解消されているのだ。 必要以上の言葉は交わさなかったが、あれだけで十分だった。 幼い頃の思い出に決別をした。 だからもう、こうして顔を合わせても何も問題は無い。 そのはず、なのに。 「…そう、神奈川からわざわざご苦労様、蓮ニ」 唇の端が引きつる。 ちゃんと笑えているだろうか。 何故だろう。何故こんなに自分は動揺しているのだろう。 心音が早まり、指先が冷えていく。 「お前とて、毎日と言って良いほど神奈川に来ているだろう、貞治」 ぴくりと指先が震えた。 ああ、そうか。 「知ってたんだ」 「お前の事だからな」 ぴくりとまた指先が震え、それを隠すように強く拳を握り締めた。 「それで、今日はどうしたの」 視線を、逸らしてしまいたい。 早く、この場を立ち去りたい。 「かえってこい、貞治」 蓮ニの言葉が脳髄を貫くような衝撃となって全身を硬直させる。 ああ、そうだ、この不安定な感覚は。 畏れ、だ。 蓮ニが怖い。 否、「柳蓮ニ」という「存在」が怖い。 「乾貞治」を構成するに当たって「柳蓮ニ」というファクターは欠かせない。 彼が居たからこそ、今の自分が在ると言っても過言ではない。 彼こそが今の自分を創り出したのだ。 「手塚や弦一郎ではお前の欲しいものは手に入らない」 静かな声が脳内でうわんうわんと鳴っている。 ――ねえ、乾君。 不意に、それを切り裂くように違う声が聞こえた。 大和の声だ。 ――君は、手塚君が欲しいんでしょうか。それとも… 「貞治、お前の歪みを埋められるのは、俺だけだ」 ――柳蓮ニ君の代わりを、探しているだけなのかな? 「や、めろ…」 無意識に胸元を握り締める。 気持ちが悪い。 「貞治」 逃れることを赦さない静謐な声音。 もう片方の手で口元を押さえた。 ふらりと一歩後ずさる。 全てを吐き出してしまいそうだった。 手塚は乾を追いかけていた。 乾が部室を去ってから、幾ら考えても答えは出なかった。 どうすれば良いかなんて分からないままだった。 それでも、己が乾を好きだということは変えようも無い事実で。 乾の気持ちが何処にあるとしても、諦めることなどできそうにない。 俺は、乾を諦めない。 それだけを伝えるために手塚は乾のマンションへと急いでいた。 そして目指すマンションの前に立つ長身を認め、しかし彼と向き合っている人物に眉根を寄せた。 あれは確か、立海の柳蓮ニ。 かつて、乾とダブルスを組んでいたという男。 関東大会の決勝で乾に敗れたことは聞いている。 その柳が何故、ここに。 しかし、その疑問も乾がふらりとその長身を傾げた事によって吹き飛んだ。 「乾!」 駆け寄り、その身体を支えると小さく手塚を呼ぶ乾の声が聞こえた。 「て、づか…?」 「大丈夫か、乾」 きっと柳を見ると、彼は乾を心配するでも無く、手塚の突然の登場に驚くでも無くただ静かに乾を見ていた。 「乾に、何を言った」 手塚の鋭い眼光にも怯む事無く柳は一言、「真実を」とだけ告げた。 「真実、だと?」 「…手塚、いいから…」 先を促す手塚の声は立ち直った乾によって遮られる。 もう大丈夫だから、と手塚の肩に手を置いて乾は柳を見た。 「…今日はもう、帰ってくれないか」 「…良いだろう」 するとあっさりと彼はそう頷き、二人の脇を通って去っていった。 「……」 「……」 「…もう、大丈夫だから」 彼はもう一度そう繰り返すが、その顔色はただでさえ白い肌が一層青白くなっている。 「ダメだ。部屋まで送らせてもらうぞ」 じっと睨みつけるように見つめれば、彼は小さな溜息を吐いてそれを了承した。 「……ねえ、手塚」 今日は階段を上る気力も無いらしく、エレベーターを待っていると不意に乾が口を開いた。 「何だ」 「……」 自分から振っておいて乾は黙り込んでいる。 手塚もそのまま黙っていると、エレベーターの扉が左右に開いた。 二人して決して広くないその匣に乗り込み、扉が閉じる。 一瞬の浮遊感。 乾が小さく告げた。 「追いかけてくれて、ありがとう」 第五十六話「手塚国光の執着」 乾の住む部屋はこのマンションの最上階に存在する。 エレベーターを降りて一番端の扉。 そこまで辿りつくと、乾はくるりと手塚を振り返った。 「はい、部屋まで着いたよ」 何処かからかいを滲ませた声音にむっとしながらも安堵する。 「…ちゃんと横になるまで見届ける」 よかった、いつもの乾だ。 「そう言うと思ったよ」 微かな笑いを滲ませて玄関をくぐる乾に続く。 乾の家は、犬を飼っているくせに動物臭が殆どしない。 それは恐らく、その犬のパートナーである彼の母親が余りこの家に帰って来ない所為だと手塚は思う。 詳しい話は聞いたことがなかったが、一度だけ、偶然乾と一緒に歩いていた彼の母親との会話で手塚は彼の母親が郊外にある実家を主な生活基盤としている事を聞き及んでいた。 父親の方は聞いたことがないからどんな人かも分からない。 乾と彼の母親を見る限り、少なくとも乾と両親が不仲で、というわけではないようだ。 やはり乾や彼の母親の持つ障害絡みだろうとは思うがやはりはっきりした事は分からない。 段差の潰された敷居や要所要所に取り付けられた点字シート。 乾の視力はまだ見えているはずなのだが、癖なのだろう、点字シートに手を滑らせる仕草はとても自然だった。 そして乾の自室に入ると、今まで整然としていた光景が一転する。 散らばった本やビデオテープ、CD−ROM、コードの繋ぎっ放しのハンディカメラ。 乱雑に散らかされた本やテープは視力障害者としてそれはどうなのだと思うのだが、本人曰く、あの辺は歩くエリアじゃないから、だそうだ。 そしてパソコン専用のデスクに勉強机。机の上には何冊かのノートに筆記用具、そして点字タイプライターと一つの写真立てがあった。 以前乾の部屋を訪れた際はあんな写真立ては無かった筈だが。 そんな事を思いながらその写真に眼を凝らそうとした途端、徐に乾の手がその写真立てを手に取った。 「乾?」 後姿からははっきりとした事は分からないが、どうやらその写真を見ているらしい。 呼び掛けにも反応せず、暫くの沈黙が続いたかと思った途端、乾は写真立てを持つ手を振り上げた。 「乾!」 咄嗟に背後から振り上げられた腕に飛びつくと、乾の体がびくりと揺れてその手から写真立てが落ちた。 ごとりと音を立てて写真立てはカーペットの上に転がった。 そこには幼い乾と、立海の柳が笑いながら仲良く手を握り合う姿が写っていた。 「乾…」 乾の息が荒い。全身を強張らせ、動悸を抑えるように肩で息をし、その横顔は初めて見る険しさを宿していた。 乾が柳蓮ニとダブルスを組んでいた事も、それが唐突に解消された事も知っている。 そして先日の関東大会で戦い、勝利を収めたことも大石から聞いていたのだが。 乾は、独りである事を極端に嫌う。 常に己のシンパサイザーとも言える相手を傍に置き、それを育てる事によって自己を埋める傾向がある。 それらは柳との別離がきっかけではないだろうかと手塚は思っている。 当時ダブルスで有名だった彼らの突然の解消の噂は手塚が当時通っていたスクールにも届いていた。 そしてそれが乾に優しくない噂だということも。 だからきっと乾の中でそれは多かれ少なかれ瑕となっているのだろうと思っていた。 独りを嫌うのも、それが原因だと思っていた。 だからこそ、乾の勝利は乾の中の何かを癒してくれるのではと思っていた。 しかし、それは何の解決にもなっていなかったのだ。 乾の瑕は、テニスの勝敗で解決できるほど浅くはなかったのだ。 もっと深い、根本的な所で乾の瑕は今も口を開いている。 柳は、それを知っていて乾の元を訪れたのだ。 瑕を広げるためか、癒すためか、それは分からないが。 少なくとも、乾にとって彼との接触は瑕を掻き毟る事と同じだったらしい。 手塚は乾の頭を引き寄せて抱え込み、その髪に頬を寄せて思う。 乾を傷つけるものは、何であろうと赦しはしない。 これ以上、柳を乾に近づけさせない。 否、柳だけではない。真田もだ。 乾が誰を選ぼうと、自分を必要としてくれるならそれでいいと思っていた。 傍に居られればそれでいいと思っていた。 思い込もうとしていた。 けれど、それだけでは駄目なのだ。 与えられるのを待っているだけでは、乾はすぐに何処かへ行ってしまう。 乾は求められればすぐにそちらへ行ってしまう。 もう、乾が自分をどう思っていようと関係ない。 乾をここに、自分の元に、縛り付けてしまおう。 乾は優しいから、それを赦すだろう。 だから乾が見逃す限り、何処へも飛び立てないよう縫いとめてしまおう。 「乾…」 頭を抱く力を緩めるとゆるりと乾が顔を上げる。 その顔から分厚い眼鏡を取り外し、手塚はその眼鏡を机の上に置くと乾の肩に手を置いた。 その意を察した乾がとすんとベッドに座り、手塚は乾に覆いかぶさるようにして口付けた。 例え乾が一生本当の意味で手塚を愛することがないとしても。 シャツに包まれた乾の肩を押すと、いとも簡単に彼は緩やかにベッドに横たわった。 ベッドサイドに腰掛けながら、もう一度口付ける。 「ん…」 舌を差し入れ、その口内を侵すと乾の甘えたような音が鳴った。 空いた手でシャツのボタンを外していくと、乾の白い肌が露になっていく。 その所々に散った鬱血痕に一瞬眉を顰め、それを上書きするように一つ一つに口付けていった。 「手塚に俺が抱けるの?」 擽ったそうに笑う声に顔を上げると、乾は緑がかった漆黒の瞳で手塚を見ていた。 「抱く。乾の全てが欲しい」 その瞳を見据えて返すと、乾は可笑しそうに喉を鳴らして「全部はあげられないなあ」と笑う。 「奪うから構わない」 そう言い切って乾の首筋に顔を寄せ、軽く歯を立てるとその身体が微かに震えた。 矛盾した想いでも構わない。 先のない愛でも構わない。 それでも俺は、乾を愛してる。 第五十七話「手塚国光が溺れる湖の名は」 乾を抱いた。 それは、乾に抱かれるのとは全く違った快楽を齎した。 乾の白く肌理の細かい肌に手を滑らせるのも、薄い皮膚を吸って朱を残すのも、そのしなやかな脚を割って全てを曝け出させるのも気分が良かった。 いつも全てにおいて手塚の手を引いてくれていた乾を組み伏せるのは、男としての本能的な征服感を擽った。 常に落ち着いていて何事にも動じない乾の体を暴いていくのは楽しかった。 しかしそこにテクニックが付いていくかどうかは別問題で。 乾以外の相手と全く経験が無く、そもそもそういった方面に殆ど興味がなかった手塚にとって、乾が己にしてくれた方法だけが唯一の知識で、乾が自分にどうやってくれていたかを必死で思い出しながら乾の体を開いていった。 受身に回った乾はしなやかで、艶やかだった。 いつからこういうことを覚えたのかは知らないが、少なくとも行為に対しての恐怖や怯えは全く見受けられず、寧ろ手塚を誘ってはリードするだけの余裕はあった。 乾の体は、抱かれる事に慣れていた。 何処をどうすればこちらが悦ぶか、そして自分の肉体に極力負担無く受け入れられるかを知り尽くしていた。 薄いゴム一枚越しに伝わってくる熱さと根元の締め付け、そして全体を飲み込むように包み込み、蠢く肉壁。 そこが本来そういう器官ではないということを忘れそうになるほどの快楽。 挿れただけで達してしまいそうになるのを必死で堪えながら腰を動かせば、そこに全神経が持っていかれたような痺れにも似た快感。 ベッドの軋む音と乾の甘い声、自分の荒い息遣い、そこに混じる卑猥な水音。 柔らかく、それでいてきつく締め付ける熱い肉壁を自身で擦ることに腰が止まらない。快楽に自我を持っていかれる。 イッて、と甘くねだる声に導かれて迎えた絶頂は思考を真っ白にした。 射精の余韻が引いていくと、荒い息の下で乾が未だ達してない事に気づいた。 自分だけが一人突っ走っていた事に気づいて赤面しながら謝罪すると、触って、と甘えた声でねだられた。 繋がったまま勃ちあがった乾自身をそっと握りこむと、その手に乾の手が重なった。 ここをね、こうすると気持ちイイんだよ。 自慰すらろくにした事のない手塚の手を操るように乾の手が動く。 それは間接的に乾の自慰を見せ付けられているのと同じで、手塚は下肢に再び熱が集まっていくのを感じた。 それは繋がっている乾も当然気付き、喉を鳴らして笑いながらもう一度する?と聞いていた。 未だ完全に勃ちあがっていないままゆっくりと腰を動かすと、くぷりとそこが粘着質な音を立てて手塚を煽った。 結局そのままもう一度してしまい、汗と精液で汚れた体をシャワーで洗い流して身なりを整える頃には夜の九時を回っていた。 途中まで送っていこうか、と余裕を見せる乾の申し出を断り、玄関先で乾とは別れた。 だから手塚は知りようもなかった。 手塚が帰ってすぐに乾が携帯電話を手に取ったことに。 「あ、乾だけど。今からそっち行ってもいい?」 乾と出会ったのは、中学一年の春だった。 入部してすぐに乾から声を掛けてきた。確か手塚のデータがどうとか言っていた気がするが、その頃の記憶は余り鮮明ではない。 ただ、元ジュニアテニス全国区の乾か、と思ったのは覚えてる。 それから何となく言葉を交わすようになって、少しずつ親しくなっていった。 一年が過ぎる頃にはもう、部活仲間という枠を超えて付き合うようになっていた。 乾は無表情、鉄面皮と言われる手塚の表情を読むことにも長けていて、確実に手塚の心情を読み取っていた。 感情を露にすることが苦手な手塚にとって、自然と読み取ってくれる乾の存在は有難かった。 乾は何でもない日々の雑談に交えて手塚に好きだと言い続けた。その明け透けな好意に慣れていない手塚はそれが気恥ずかしく、同時に嬉しかった。 だから不意に抱きしめられても、こめかみに唇を寄せられても、たとえ口付けられても不快に思ったことはなかった。人とのスキンシップを余り取った事のない手塚にとって、乾が当たり前に仕掛けてくるそれが不自然だとは思わなかったのだ。 そういうものなのだと思っていた。 二年になると乾は特進クラスに進み、部活以外で気軽に会える事は少なくなったが、それでも手塚と乾の関係が壊れることはなかった。 だから乾に「そういう相手」がいるかもしれないなどと考えたこともなかった。 今まで、乾が誰かと付き合っているという話は聞いたことがなかったし、乾自身もこれと言って特定の女子の話をしてきた事はない。 だが、その代わり二年になると乾は己のシンパサイザーを傍に置くようになった。 特に顕著だったのが不二祐太だった。 彼はすぐに乾に懐いたし、乾も彼を可愛がっていた。 それまで自分のポジションだった乾の隣が、不二祐太にあっさりと取って代わっていた。 乾が離れていく。 初めてそんな事を思ったのはいつだったか。 乾が手塚の傍らに居る時間が少しずつ減っていき、それに比例して乾と不二祐太が一緒に居る時間が増えていった。 手塚と一緒に居るより不二祐太と一緒に居るときの方が生き生きとしている乾の姿を見るのが苦痛だと自覚したのもいつだったか。 そして、自分と乾の関係に名を求めたのは。 不安で仕方なかった自分のそれを晴らしたのは、やはり乾だった。 好きだよと、その経った一言で満たされるのを感じた。 けれど、同時に新たな不安を呼び起こされた。 乾の愛情は、明け透けでひたすら純粋だ。 好きは好きで、それ以上でもそれ以下でもない。 乾の愛情が歪んだ博愛だと気付くまで、そう時間は掛からなかった。 乾の愛情は、乾に好意を抱いている相手全てに注がれている。 乾を愛せば愛しただけ、求めれば求めるだけ、乾はそれに応えるのだ。 だから幾ら乾自身が手塚を「特別」だと囁いていても、それは簡単に揺らぐものなのだ。 特別だと囁きながらも乾は求められる方へと行ってしまう。 だから彼の言う「特別」にいつまでも胡坐をかいているわけには行かない。 このままでは乾は完全に他の相手の元へと行ってしまうだろう。 引き戻さなければ。 引き戻して、この手の中に閉じ込めておかなければならない。 そうすればきっと、乾はずっと自分の傍らに居てくれる。 「で?」 跡部は己の股間に顔を埋めている乾を見下ろしながら問いかけた。 「妙にサービスしてくれんのはこんな時間に突然押しかけてきたことに少しでも悪いと思っての事か?」 「んーてひゅうはへー」 「咥えたまま喋んなバカ」 指先で相手の眼鏡のフレームを弾くと、乾は屹立したそれから唇を離して中指でついっと眼鏡の位置を直して跡部を見上げた。 「ていうかね、俺が不完全燃焼なの」 「手塚か」 「当たり。やっと手塚が自分から動く気になってくれたのは良いんだけどね、手塚ってホラ、俺としか経験がないじゃない」 「下手だったのか」 傑作だ、と笑うと乾も「手塚の名誉のためにこれ以上は言わないでおく」と笑った。 「で、中途半端に燻ってて発散しに来たってとこか」 「ん。さすがにこの体提げて真田のところ行くわけにも行かないしねー。時間的にも失礼だし」 そう言う乾の裸体は明らかに鬱血痕が増えており、確かにコレでは「さっきまで他の男とヤッてましたー」と言わんばかりだ。 「俺はいいのかよ」 「跡部はいいの。それより、そろそろいい?」 ちろりと鈴口を舌先で突く仕草に、跡部は唇の端を歪めて笑った。 「いいぜ、来いよ。完全燃焼どころか、灰すら残らねえくらいイかせてやる」 「期待してるよ」 乾の白い歯がピッとコンドームの封を切る。 その仕草が妙に艶めかしくて、跡部は小さく己の唇を舐めた。 第五十八話「木手永四郎」 ――しろちゃん、ちぃちゃん、お願いだから。 あの子は泣いていた。 お願いだから俺の事、もう名前で呼ばないで。 泣いてそう訴えた。 蓮ニに呼ばれてるみたいで、嫌なんだ。 その白い頬に涙は伝っていなかったけれど。 微笑みすら、浮かんでいたけれど。 あの子は確かに泣いていた。 全国大会緒戦、青学VS比嘉は青学の全勝に終わった。 コートから出てそれぞれ思い思いに散っていく中、乾は比嘉中のメンバーに近づいていった。 「あ、乾先輩!」 桃城の上げた声に他の面子の視線が乾に向かう。 当然、そこには比嘉中の視線も含まれている。 決して好意的とは言いがたいそれに、しかし乾は気にした様子も無く部長である木手の前に立った。 「止血」 アビテンのケースをぷらぷらと振りながら言うと、「結構」と木手にぴしゃりと返される。しかし乾は構わず木手の手を取り、近くのベンチに座らせた。 「えぇ!わちゃくっとんのか!」 近くに居た比嘉中の男が声を荒げたが、すっと制する手にその人物を見上げた。 「知念先輩!なんでよ!」 しかし知念はそれらを無視して乾の手元を見ていた。 「乾、ガーゼいるか」 「いや、これくらいならアビテンだけで大丈夫だと思う。はい、終了。触るなよ、しろ」 「しろ」呼ばわりに驚いたのは周りだけで、当の木手やレギュラーたちは平然としている。 「放って置けばよかったんです、敗退校など」 「放っておけないよ、大切な従兄弟だもの」 「「いちゅく?!」」 一層ざわめく周囲に、木手がうるさいですよ、と切って捨てる。 「貴方達は先に帰ってなさい。すぐ行きますから」 その言葉に真っ先に従ったのは知念たちレギュラーだった。 困惑気味の後輩らを連れてさっさとその場を後にする。 その後姿が小さくなっていって漸く木手が口を開いた。 「…眼の調子はどうなんです」 「うん、今日は悪くないよ」 「…でしょうね。伯父さんが来てましたよ」 「うっそ。父さんが会場に居るのはまあ当然として、こっちのコート来てたなんて全然気付かなかった」 「ハルの試合の後半に十分ほど見に来て戻ったみたいです」 「全くあの人は自分どこ放り出して何してんだよ…それより、手塚と戦ってみて、どうだった?」 「…嫌味ですか」 「ちょっとだけ。駄目だよ、しろ。俺のお気に入りを苛めちゃ」 木手は黙り込む。 だからこそ、どうしても勝ちたかった。 乾の馬鹿げた「理想」を打ち砕いてやりたかった。 そうすれば、きっと乾の目も覚める、そう信じたかった。 けれど、結果は結局乾の思惑通りで。 「ハル」 「うん」 悔しかった。 大切な肉親一人助けてやれない自分の無力さが。 「……本当に、これでいいんですか」 ようやっと搾り出すように紡いだ言葉に、乾は小さく微笑んだ。 「うん」 じゃあ、行くから。そう立ち上がった乾を木手は俯いたまま送る。 「……っ…ハル!」 しかし己の声に弾かれる様に立ち上がると、乾が立ち止まり、ゆっくりと振り返った。 無言で見つめ返す彼にどんな言葉を掛けて良いのか分からない。 けれど、自分は言わなければならない。 「…っ貞治!」 この四年間、ずっと封印してきたその呼び方に全てを篭める。 もう、これ以上自分を壊すのは止めてくれ。 おねがいだから。 「しろ」 けれど彼は微笑う。 「わかってるから、いいんだ」 柔らかに、笑う。 ――貞治って、呼ばないで。 あの時と同じ顔で、彼は微笑む。 自分では、彼を止められない。 「…っ好きになさい!」 吐き捨てるように、叫ぶように告げて踵を返す。 泣いてしまいそうだった。 自分に対する不甲斐なさと、乾に対する哀れみで。 「……永四郎」 暫く歩くと、先に行ったはずの知念が木手を待っていた。 「先に帰ってなさいと言ったでしょう」 しかし彼は何も言わず、ただ木手の左肩をぽんぽんと、まるであやす様に叩いて歩き出した。 「…何なんですか」 その後姿を睨みつけて呟く。 ああ、本当に泣いてしまいそうだ。 「……貞治」 どうか、お願いです。 何を踏みつけてもいいから。 誰を犠牲にしてもいいから。 全てをなぎ倒してもいいから。 だから、どうか。 どうか、幸せを。 第五十九話「乾貞治という名の歓喜」 全国大会準決勝初戦、S3は不二の敗退で幕を閉じた。 大石たちが俯く不二に声を掛ける中、手塚と乾はその輪から外れたところでそれをじっと見ていた。 ぱたりと乾がノートを閉じる。 「…楽しそうだな」 手塚が不二を見たまま言う。乾の口元は微かに、しかし確実に笑みを象っていた。 「まあね。どんな形であろうと不二のデータを取れたから」 それに、と彼は視線を四天宝寺のベンチへと向ける。 つられるように手塚もその視線を追うと、丁度金色小春と一氏ユウジがひょっこりと現れた。そのふざけた格好に手塚の眉間の皺が僅かに深まる。 しかし渋面の手塚とは反対に、乾は可笑しそうに喉を鳴らして笑った。 「彼ら、常に何処かくっついてるだろ?あれはね、常日頃からくっついてる事によって相手の次の動きや考えが分かるようになる特訓なんだよ」 乾が言うと同時に金色と一氏が全く同じような事を桃城と海堂に説明している。 そうだったのか、と手塚が答えようとした途端、しかし乾は「嘘だけど」と笑った。 「嘘?」 「うん、あれ、オサムちゃんのでっちあげ」 するとそれを肯定するように、金色と一氏に同意を求められた四天宝寺の監督が「言うたっけ?」とすっ呆けた応えを返していた。 「ね」 「…四天宝寺の監督と知り合いなのか」 「うん。オサムちゃん、元々俺んちのお隣さんだったから。って言ってもマンションの方じゃなくて、実家の方ね。母さんと仲が良くてさ。俺が物心付いた頃には普通にウチに出入りしてたよ。大学卒業と同時に大阪に帰っちゃったけど。今でも年に何回かはふらっとやってきてご飯食べてくみたい」 「…そうか」 「心配?」 「……」 「大丈夫だよ。オサムちゃんとはそういうんじゃないから。木手たちもね。知ってるでしょう?俺が年に何回かは沖縄に行ってること」 「…何故今木手の名が出る」 「だって手塚、昨日からずっと何か言いたそうな顔してたから」 ついで、と笑う乾に手塚は黙り込む。 「手塚は分かりやすいから」 「…俺を分かりやすいというのは母とお前くらいなものだ」 「それだけ、手塚を見てるって事だよ」 「……」 黙り込んだ手塚を見下ろし、乾は微笑む。 しかし微笑む事に失敗したような気がして、乾はすぐにそれを消してコートに視線を向けた。 今日は、余り調子が良くない。 いつもの薬に加えて不穏時用のものも飲んだのに、余り効いている気がしない。 それだけメンタル面がぐらついているということか。 会場内にどっと沸く笑い声も何処か遠くに聞こえる。視界が狭くなる。全てが輪郭を失っていく。 もう、終わりは見えている。 恐らく周りが言うより大分早くそこへ辿りつくだろう。 「……」 「乾?何か言ったか?」 「いや…何でもない」 退屈だ。 終着点の見えている道のりとは、これ程までに世界の色を無くせるものなのか。 退屈で仕方が無い。 こんな大会、早く終われば良いのに。 この大会さえ終われば引退できる。 テニスを止める丁度いい機会だ。 この時期なら周りに逐一理由を説明する必要性はがくりと下がる。 自然な形で終われる。 テニスが好きなまま、終われる。 けれど。 この胸の虚から滲むものは何だろう。 胸の奥の歪みから、暗く淀んだものがずっと滲み出し続けている。 早く、しないと。 全てが溢れ出してしまう前に終わらせないと。 「……」 小さく小さく溜息を吐く。 少し、疲れた。 ……真田に、会いたいな。 準決勝は青学の勝利に終わり、桃城たちは焼肉へと思いを馳せていた。 病院から戻ってきた河村と合流し、焼肉屋へと向かおうとした時、すっとその輪から外れる者がいた。 「センパイ?」 真っ先に気付いた海堂が立ち止まる。先を行く桃城たちは二人が立ち止まった事に気づいていない。 「悪いけど海堂、俺は焼肉には行けないから皆には帰ったって言っておいて」 ひらりと手を振って離れようとする乾を別の声が引きとめた。 「どこへ行く」 「部長…」 手塚だった。 「ちょっと行く所があってね。竜崎先生にはもう言ってあるから」 「……そうか」 「それじゃあ、お疲れ様。また明日、学校でね」 そう言って今度こそ乾は一行の輪から外れ、一人別方向へと歩き出した。 その後姿を手塚はじっと見送っていたが、海堂の視線に気付いて踵を返した。 「…行こう」 「…ッス」 手塚たちと別れた乾は駅へと歩きながら携帯電話を取り出した。 目的のアドレスを呼び出して耳に当てる。 「……」 しかし数回のコールの後、すぐにそれは留守番電話サービスに切り替わってしまった。 「…乾だけど、準決勝、勝ったよ」 仕方ないので当たり障りのない事を吹き込んで切った。小さく溜息を吐く。 彼の性格や行動パターンからして今頃自主トレに励んでいるのだろう。元々この時間に連絡する予定は無かったのだから彼を責めることはできない。 それに彼とて今日は試合だったのだ。今夜はゆっくり休ませてやりたいとも思う。 けれどこの虚しさを抱えたままというのも嫌だった。 「……」 暫く考えた後、乾は最近登録されたばかりのアドレスを引き出した。 こちらもまた彼と同条件なのだが、こちらには気を使ってやる必要は無い。 誘いに応じるかどうかは向こうが決めることだ。 数コールの後、今度は繋がった。 『へーい』 「乾だけど、これから会えるかな」 『ええよ。おまんちでええか』 訛りのある抑揚が応じる。 「ああ」 それから二言、三言言葉を交わして通話は終わった。 「さて…」 携帯電話を鞄の中に放り込み、乾は足早に駅のホームへと向かった。 青学選手だけの焼肉パーティーだったはずが気付けば氷帝、比嘉、四天宝寺、六角の選手を交えた学校対抗焼肉大食い大会に発展していた。 跡部が店を貸し切った為に誰も彼もがハイテンションで騒ぎまくっている。 そんな中、手塚は携帯を手にそっと店の外に出た。 店内より遥かに澄んだ外の空気にほっと息を吐く。 氷帝と比嘉のメンバーは入ってきて真っ先に乾の不在を聞いてきた。 先に帰ったと大石が告げると、えーだの詰まらないだの文句を垂れる面々の中、木手と知念、そして跡部の三人だけが妙な、複雑そうな顔をしていた。 それがずっと気になって仕方ない。 「……」 携帯電話を耳に当てると、暫くの間コールが続いた。 それでも延々と鳴らし続けると、何十回目かのコールの末に漸く繋がった。 『…手塚?どうしたの?』 何処か気だるげな声音に、いや、ととだけ返して沈黙する。 『手塚?』 「…今、何処にいる」 何となく電話しただけとは言えず、取りあえずそう聞いてみる。 すると「家だけど」とあっさりとした応えが返って来た。 「…行く所があるといってなかったか」 『うん、そのつもりだったんだけど、向こうが捉まらなかったから帰って来た』 「…こちらに来ればよかっただろう」 『面倒だったから』 悪びれた様子も無い声音に小さく溜息を吐く。すると回線越しにぼそぼそとした微かに聞こえた。 「誰かいるのか」 『あー、うん、まあ…あ、こらっ』 途端、乾の声が遠くなる。ぼそぼそとした話し声だけが微かに聞こえている。 「乾?」 呼びかけるが、しかし返って来たのは聞き覚えの無い声だった。 『おー、手塚』 「…誰だ」 固くなった手塚の声音を気にした様子も無く声は続く。 『立海の仁王じゃ』 「…何故お前がそこに居る」 『そら乾の暇潰しに呼ばれたからじゃ。つーことで、ただいま取り込み中じゃからして』 「…乾と代われ」 『あーそら無理じゃ』 「何故だ」 『今乾の口ん中、俺のんで一杯じゃき』 ぶつっと通話が途切れた。 ぎしりと手の中で携帯電話が悲鳴をあげる。 自分が切ったのか向こうが切ったのかすら分からない。 けれどはっきりしている事が一つだけ。 手塚は踵を返して店内へと戻ると、焼き方について語っている大石に用事ができたから帰ると告げてさっさと荷物を手に来た道を戻っていく。 「あ、手塚!?」 「すまない、竜崎先生にはお前から言っておいてくれ。後は任せた」 大石の声にも振り返る事無く足早に店を出ると、真っ直ぐに最寄り駅へと向かった。 「切れた」 「仁王が余計な事言うからだよ」 「ちょっとした茶目っ気じゃ」 「茶目っ気出すのは良いけど、手塚、こっちに来るよ、確実に」 「心の狭いやっちゃのー」 「手塚の居る焼肉店からここまでざっと見積もって精々一時間。どうするんだい」 「まあ、その時はその時で。三人でしたらええじゃろ」 「だーめ」 目指すマンションにたどり着くと手塚は手荒くパネルに部屋番号を打ち込み、インターフォンを鳴らした。 五秒待つ。反応は無い。 もう一度鳴らす。ピンポーンという暢気な音すら苛立たしい。 もう一度鳴らそうかとした時、ぶつりという音がして乾の声が聞こえた。 『開けておくから、勝手に入って』 もう一度ぶつりと音がして回線が断ち切られる。と同時にロックの外れる音がして目の前の扉が開かれた。 足早にエレベーターの前にたどり着くと、丁度ホールに留まっていたそれに乗る。 微かな浮遊感は不快感を生むだけで、最上階までの十数秒すらもどかしい。 ようやっと部屋の前に辿りつき、ノブを回す。乾の言ったとおり開いている。 上がっていいのだろうか。 玄関先で戸惑っていると居間に通じる扉が開いて乾が姿を現した。 「早かったね。あと七分は掛かると思ってたんだけど」 私服姿の乾の髪は、シャワーでも浴びたのかしっとりと艶を放っている。 「…お前が何をしたいのかがわからない」 乾から視線を逸らし、己の爪先に向ける。乾がわからない。 「お前は俺に、何を求めているんだ」 「全てを」 澱みなく返された応えにはっと顔を上げる。乾はただ無表情に手塚を見下ろしていた。 「手塚の過去も現在も未来も、全てが欲しい」 「っなら、何故こんな事をするっ」 「こんな事って?」 「…っ…」 やんわりとした声音に手塚は言葉を詰まらせる。しかし乾はそれ以上は追い詰めようとはせず、「他の男と寝る事?」と答えを提示した。 しかし乾はそれをこれ以上語る気は無いらしく、そんな事より、と手塚に歩み寄る。 「千歳の妹さん、いつ知り合ったの?」 何故そこに千歳の名が出る、と訝しげな顔をすると、わからない?と返された。 「『ドロボーの兄ちゃん』…何したの?手塚」 そこに至って漸く乾が言う「千歳の妹」が誰かを思い出した。 「大した事ではない。ただ…」 ミユキと出会った経緯を説明しようとして、乾の口元だけの笑みに不意に、そう、まるで光の刃が差し込むようにして手塚は思い至った。 「…乾」 「うん?」 「…嫉妬、してるのか?」 きょとんとした乾を認識した次の瞬間、右頬に衝撃が走った。 「…っ…」 不意を付かれたそれに思わずふらつきそうになるのを何とか踏みとどまる。何が起きた。殴られた。誰に。 乾に、殴られた。 それを理解したのは、痛みを訴えるそこに反射的に手を添えてからだった。 呆然として見上げると、乾は心底不快げな表情で手塚を見下ろしていた。 「…いぬ」 「…っあ…」 はっと我に返った様に乾は小さく声を上げると、慌てて手塚の頬に手を添えた。 「ごめん、手塚、大丈夫?」 珍しく動揺した声に手塚は思わずこくりと頷く。 「ああ、少し赤くなってるね。ごめんね、手塚」 「いや、大丈夫だ…」 未だ呆然としたまま手塚は乾を見る。 それは今や殴られたことに対するものではない。 乾が千歳の妹に嫉妬している、という事実にだった。 乾の愛情は歪んだ破璃の鏡のように単純で複雑だ。 こちらが求めれば求めただけそれに応える。 しかしそれが愛情であろうが好奇心であろうが頓着しない。 好意であればそれが愛だろうが性欲だろうがどうでもいいと言わんばかりだった。 だから今まで乾の本心が何処にあるのか全く分からなかった。 特別だと囁かれても、それが本当なのか信じることが出来ずにいた。 けれど。 「手塚?」 徐に抱きついてきた体を受け止め、乾が訝しげな声を上げる。 「どうしたの、痛いの?」 乾の首筋に顔を埋めたままふるふると首を横に振る。 殴ろうと思って殴ったのではなく、反射的なものだったのだろう、痛みはもう殆ど無い。 ただ、右頬が熱かった。 それは衝撃によるものではなく、この身の内から溢れ出す熱の全てがそこに集まっていた。 「…乾…」 彼の名を囁き、手塚はその身に溢れるものの正体を知った。 ああ、これは、歓喜だ。 「なに、手塚」 乾の問いかけに、けれど手塚はただその細い首筋に顔を埋め、抱きしめる。 嬉しかった。 乾が、嫉妬している。 俺は、必要とされている。乾に必要とされている。 ならば、信じよう。 乾が俺を特別だと囁くその声を。 「…乾…」 「うん」 そして、信じさせよう。 俺が乾を愛していると言うその意味を。 「ずっと、傍にいる」 何度でも言ってやる。 そうだ、あの秋の終わりに誓ったのだ。 乾が望むなら、望むだけ傍に居ると。 「離れたりしない」 だから、放してやらない。 第六十話「乾貞治が溺れる沼の名は」 準決勝の翌日の部活はレギュラーのみ二時からの参加だった。 …と、通達されているにも関わらず、一時を過ぎる頃には一人、また一人とやってきて着替え始めていた。 桃城がやってきたのもそれくらいで、鼻歌交じりに部室へと向かうのを後ろから呼び止める声が上がった。 「やあ、昨日はお疲れ様」 記者の井上だった。今日は芝は連れていないらしく一人だ。 「あ、ちわーす。今日も取材ですか?」 「いや、そうしたい所だけど今日は別件で近くを通ったからこれを渡しておこうと思ってね」 彼が鞄の中から取り出したのは一本のビデオテープ。 「関東大会の時に言っていた、乾君と立海の柳君がペアを組んでいた頃のビデオだよ」 言われて桃城は「ああ!」と手を叩いた。 どうやら三年生たちは知っていたようだったが、桃城は乾が小学生時代に柳とペアを組んでいた事も、二人の実力が嘗てジュニアテニス界で有名だったことも初めて聞いた。 その頃の二人が見てみたい、と洩らした所、井上が資料なら残ってるから今度持ってくるよ、と申し出てくれたのだ。 半ばその時のノリだったのだが、見てみたいというのも本当だ。 桃城は礼を言ってそのテープを受け取った。 「それはダビングしたやつだから君にあげるよ。彼らのプレイが参考になるかはわからないけれど」 その言葉に桃城が首を傾げると、彼は苦笑混じりに言った。 「…彼らのプレイは、何というか、超越しているんだ」 「そんなに凄いんすか?」 しかし井上はそれを肯定するでも否定するでも無く踵を返した。 「彼らなら世界だって夢じゃなかっただろうに…本当に、残念だよ」 それじゃあ、と去って行く背と手にしたビデオテープを見比べる。 「も、もー!」 するとどかっと後ろから菊丸が圧し掛かってきて危うくテープを落としそうになった。 「エージ先輩、危ないっすよ!」 「お?桃、にゃに?そのテープ」 桃城が説明すると、菊丸はその場でぴょんこぴょんこと跳ねながら見たい見たいと騒ぎ出した。 「じゃあ部室のデッキで観ましょうか」 「おっしゃー!」 菊丸に釣られるように部室に駆け込むと、そこには既に殆どのレギュラーの姿があった。手塚に至っては疾うに着替えも終え、部誌を書いている。居ないのは病院に行っている河村と、そしていつもギリギリにしかやってこない乾と越前だけだった。 「あっれ、もう来てたんすね。俺が一番乗りだと思ってたんすけど」 「それより桃、早く早く!」 「あ、そっすね。乾先輩が来ない内に観ちゃいましょう」 「乾がどうかしたのか?」 デッキを準備している二人に大石が声を掛ける。 桃城が先程菊丸にしたのと同じ説明を繰り返すと、大石も興味を持ったようだった。 「へえ、乾と立海の柳の噂は耳にしてたけど、実際に見るのは初めてだなぁ」 「桃、再生するよー」 「オッケーっす!」 テレビをつけて早速再生する二人に不二や大石もどれどれと寄ってくる。 海堂も気になるのか、着替えながらもちらちらとその輪を窺っていた。 手塚はと言うと一人黙々と部誌に向かっていたが、しかしその手は進んでいない。 そんな中、テープは廻り始めた。 ぱっと映ったのは、テニスコート。 ネットを挟んで二組の少年が向き合い、握手を交わしていた。 「うわ、これ乾先輩っすよね?!ちっちぇー!」 「一年の終わりくらいまでは乾も俺たちと同じくらいの身長だったもんなあ」 最初こそそんな風に話しながら観ていた一同だったが、試合が進んでいくにつれ、言葉は消えていき、やがて聞こえるのはテレビからの音声だけとなった。 凄い、と誰かが小さく呟いた。 画面の中の二人の動きは軽やかだった。 ボールを打ち返した次の瞬間にはもう返球される位置が分かっているかのように、否、分かっているのだろう、そこに駆け出していた。 左右どちらに打っても必ずそこには乾か柳が立っている。ならばとセンターを狙えば二人が同時にスイングモーションに入る。けれど打ち合わせもアイコンタクトも無くどちらかが打ち、もう片方はフェイントを入れた。ラケットがぶつかり合うなどというミスは犯さない。 それはまるで昨日の大石と菊丸のように。 そして乾と柳のペアは勝利をもぎ取った。 あっという間に終わったその試合は完全なるラブゲームで。 次の試合も、その次も殆ど一方的と言っていいほどの強さだった。 二人は特別目立ったプレイをしているわけでもない。けれど着々と勝利を収めていく。 気付けば、画面の中で二人がメダルを授与されていた。 そこに至って漸く一同は詰めていた息を吐き出すように肩の力を抜いた。 「乾って凄かったんだにゃー」 「井上さんが言ってた事も強ち嘘じゃないっすね」 「あ、待って、まだ続きがあるみたい」 テープを止めようとした桃城の手を不二が遮る。 場面が変わり、映ったのは何処かの東屋だった。 ベンチに腰掛け、手を繋いだ二人がじっとこちらを見ている。 どうやら試合後のインタビューらしい。井上が撮っているのだろうか、彼の声が映し出された乾と柳に向かって感想を聞いている。 素っ気無い対応の柳の反面、乾は始終柔らかな物腰で井上の質問に答えていた。 『二人とも、シングルスはやってみたいと思わないのかい?』 しかし井上がその質問をした途端、柳は不機嫌も顕わにこちらを睨んだ。 柳は突然立ち上がったかと思えば乾の手を強引に引っ張ってその場を立ち去ろうとする。 『蓮ニ?ちょっと待って、蓮ニ!』 『柳君?』 井上の声に小さな背中が振り返る。その視線はいっそ憎しみさえ宿していると言っても過言ではない勢いでこちらを睨みつけていた。 つかつかと柳が歩み寄り、その手が画面に向かって伸びてきた。途端、画面が揺れ、井上の足元が映し出される。柳がカメラを無理やり下ろしたのだ。 『俺と貞治はこれからもずっとパートナーであり続けます。シングルスなんて、ありえません』 地を這うような声がスピーカーから聞こえてくる。それに被さるように乾の戸惑った声が聞こえる。どうしたの、蓮ニ。 『何でもない。話はもう終わった。帰ろう、貞治』 『終わってない!こら、蓮ニ!』 延々と地面が映し出される中、乾と柳の言い争う声が聞こえる。 『そうやって誰彼構わず喧嘩売るの止めろって言ってるだろ』 『真実を言っているだけだ』 『言い方ってモンがあるでしょ!すみません、井上さん』 『いや、良いよ。こちらこそ不躾な事聞いちゃったみたいで悪かったね』 『いえ、構わないです。でも、俺も蓮ニと同じで、蓮ニ以外の人と組む気も無いし、シングルスに転向する気もありません。だってダブルスの、ううん、蓮ニと一緒にコートに立つ楽しさを知っちゃったから。俺、試合で緊張したことって無いんです。だってコートには蓮ニも一緒で、俺一人じゃないから。俺、もっと強くなりたい。蓮ニと一緒にたくさん大会に出て、有名になりたい。そうすれば俺がどれだけ蓮ニとのダブルスが楽しいのか、皆に知ってもらえるから。パートナーと一緒にコートに立つ事がこんなに楽しいんだって、世界中の人に知ってもらいたい。だから、シングルスなんて考えたこともありません』 画面は相変わらず地面を映し続けていた。けれど、柔らかくとも凛としたその声は、はっきりと聞き取れた。 『貞治…』 『ね、蓮ニ』 ほら、蓮ニも井上さんに謝って。 駄々っ子をやんわりと諌めるような声音の後、微かに「すみませんでした」と柳の声が聞こえた。 『いや、俺が悪かったんだからいいよ。それにしても、二人は本当にお互いを信頼してるんだね』 『はい、蓮ニは凄いんです。今もこうやって蓮ニと訓練してるんです』 『訓練?』 『はい!こうやってずっと手を繋いで一緒に居ることでお互いの思考や行動パターンが分かるようになるんです!ね、蓮ニ!』 『そうだな、貞治』 「…なんか、どっかで聞いたことやってますね」 「うん、すっごい最近同じこと聞いたにゃー」 「四天宝寺のはコレが元ネタだから仕方ないよ」 「「うわあ!!」」 淡々とした声に桃城と菊丸がびくりと竦みあがる。 「いいいいにゅい!」 いつの間にか乾が傍らにちょこんとしゃがみ込んでいた。 「いつの間に!」 「普通に入ってきたけど。それより、懐かしい物見てるね。出所は井上さんかな」 「あ、は、はい、井上さんが俺にくれたんすよ」 「ていうか、コレが元ネタってどういうことだい?」 「うん、四天宝寺の監督、アレ、俺の小さい頃お世話になったお兄さん。で、俺が蓮ニとああいう事してるって俺が話したの。どうもそれ覚えてて面白半分で言ったらしいんだよね。昨日本人に電話して確認した」 「ああ、じゃあ金色小春と一氏ユウジもある意味乾の被害者ってことだね」 「人聞きの悪い事いうなよ、不二」 「えーでも間違ってないよね」 それはともかく、と乾は取り出しボタンを押してテープを取り出し、それをしげしげと眺めながら桃城を呼んだ。 「くれたって事は、ダビングだよね、これ。テープも新しいし」 「あ、はい、ってあー!!」 徐にカバーを開いたかと思えば、ビィーッと耳障りな音を立てて乾はテープを引き出していた。 「何するんすかー!!」 「勿体無いにゃー!!」 桃城と菊丸の犬猫コンビが声を上げるが乾はお構い無しにテープを引っ張り、そして適当な所でぶちりとそれをちぎった。 「何って、不愉快だから抹消したまでだけど」 「不愉快って、あんなに凄いプレイなのに何でっすか!ていうか、あんなに凄いのに何でコンビ解散したんすか?」 桃城の問いかけに反応したのは乾ではなく菊丸だった。 「ももも桃!アップ行くにゃ!」 ぴゃっと飛び上がったかと思うと桃城の腕を掴み、強引に引きずって部室を出て行こうとする。 「は?エージ先輩、どうしたんすか?」 「いーから!早く行くったら行くにゃー!!」 一人訳が分からないといった表情の桃城を引きずって菊丸は部室から逃げ出した。 「乾はまだ気にしてるの?」 不二が無遠慮に問いかけると、しかし乾は気にした様子も無く「何が?」と返してきた。 「柳が黙って引っ越したこと」 「今はもう気にしてないよ。俺が不愉快って言ったのは、馬鹿だった頃の自分を見るのが不愉快だって話」 乾は手にしていたテープの残骸をゴミ箱に落とした。ごとりと鈍い音が室内に響く。 「それより、俺今日の部活休むから。それ言いに来ただけなんだよね」 「え、休むってどうかしたのか?」 大石の戸惑い交じりの声に乾はどうという程じゃないけれど、と小首を傾げた。 「ちょっと目の調子が悪くてね。朝電話したら二時半からなら検査できるって言われて。いいよね、手塚」 突然話を振られた手塚は結局桃城が来てからずっと止まったままだったシャーペンを机に置き、小さく頷いた。 「構わん。しかし大丈夫なのか」 「大したことないよ。念のため、ってだけだから」 「…そうか」 「あとこれ、今日のお勧め練習メニュー。レギュラーは個別に書いてあるから参考にしてよ」 そう言って鞄の中から数枚のレポート容姿を取り出して机の上に滑らせると用は済んだとばかりに踵を返した。 「乾!」 咄嗟に呼び止めると、彼はゆるりと手塚を振り返った。 「なに?」 「…いや、気をつけて行ってこい」 「わかってるよ。明日は出れるから」 それじゃあ、と今度こそ乾は部室を出て行った。 「……」 一同の視線が気遣わしげにその閉ざされた扉に向かう中、不二だけはじっとゴミ箱を見つめていた。 テープが引っ張り出される耳障りな音が、まだ耳にこびり付いていた。 |