浅瀬を歩む君の滑らかな脚
第六十一話「真田弦一郎が溺れる海の名は」 病院というものは、検査も長いが待ち時間もそれに輪を掛けて長い。 予約してあってもそれはさほど変わらず、本当に予約の意味はあるのだろうかと思えてしまうほどだ。 ちょっと前までなら幸村の病室に時間を潰しにいけたのだが。今はもう彼も退院しており、リハビリと定期健診に訪れるだけだ。 そうして漸く会計を済ませた頃には既に夕方だった。 思っていた通りとはいえ、時間を無駄にした感も否めない。 さて帰ろう、と踵を返した途端訪れたそれに乾は動きを止めた。 「……」 ゆっくりと足を進め、会計待合の椅子に腰掛ける。 不自然ではなかっただろうか。中指でくいっと眼鏡を持ち上げる。 しかし今この瞬間、眼鏡は無用の長物だった。 視界は、暗闇一色だった。 それは、今日二度目の世界だった。 それがいつから始まったのかはわからない。 自覚したのは、今年に入ってからだった。 一瞬停電したような感覚。最初はその程度だった。 それが次第に数秒となり、数分となり、回数も数日に一度だったのが一日おきになり、毎日になり、やがて日に何度も起こるようになっていた。 この眼はもう一年と持たないだろう。 だが、それでもいい。 あと一試合。それまで持てばいい。 ただ、 「乾?」 降ってきた声に乾ははっとして顔を上げる。 徐々に色の戻ってきた、けれどやはりぼんやりとした視界。 見下ろしているのは、 「…真田」 声と薄ぼんやりとした輪郭で導き出したその名を口にすると、ひょこっとまた一人乾の視界に入ってきた。 「俺もいるよ」 「やあ、幸村。二人ともどうしたの」 「リハビリの帰りなんだ。真田はお迎え。やんなっちゃうよね。一人で帰れるって言うのに」 「しかし万一だな、」 「ああはいはい。それより、乾こそどうしたの。検診?」 「うん、そんなとこ。決勝前に一度検査しておこうと思って」 「決勝、楽しみにしてるよ」 「ああ。俺も楽しみにしてるよ」 「それじゃあ、俺は帰るね。真田、乾を送ってあげたら?」 「む。しかし…」 「え、いいよ、まだ部活あるんだろう?」 「部長の俺が良いって言うんだから良いの。ほら、真田、ちゃんと乾を送ってあげるんだよ。みんなには俺から上手く言っておくから」 「……わかった」 「…じゃあ、お言葉に甘えさえてもらおうかな」 そして、当たり前のように差し出された真田の手を取って立ち上がる。視界はそれなりに回復していたが、やはり真田のサポートはありがたかった。 「行くぞ」 「ああ、ありがとう」 そうしていつものように左手をそっと彼の腕に添え、乾は歩き出した。 結局、乾はマンションに戻らず真田の家に泊まる事になった。 荷物だけ置いて二人で揃ってロードワークに出かける。 川沿いを走っている最中、ふと乾の走る速度が落ちた。 どうした、と真田もそれにあわせてペースダウンする。次第に足は止まった。 うん、ねえ、真田。 夕陽を浴びて煌く川の水面。じっとそれらを見渡す横顔。 覚えてるかい。ここで俺と真田、初めて会話したんだよ。 ああ、そうだったな。 あの時、俺が声を掛けなかったら、今こうしていなかったかな。 どうだろうな。 あの時、俺が声さえ掛けなければ…。 「乾?」 「……」 不意に黙り込んだその横顔は、相変わらず川へと向けられていて。 「ごめんね、真田」 「何を謝る」 「…ううん、ただ、謝りたい気分なんだ」 「…そうか」 ねえ、真田。 俺ね、二十歳くらいまでなら目は見えるだろうって言われてきたんだ。 でも俺は目を酷使してきたからその期限はずっと縮まった。 きっと、もう一年も持たないと思う。 それは別にいいんだ。受け入れる覚悟は出来ている。 ただ、 「例えば、真田が大人になって年をとっても、俺にはそれが分からない。勿論、触診や耳からの情報でイメージすることは出来るだろうけど、あくまでそれはイメージであって本物じゃあない。俺の中の真田の姿は一生、十五歳なり、十六歳なり、それくらいの記憶のままだ。真田がどんな大人になってどんな風に年をとっていくのか、見ることができない」 それが少し、勿体無いと思う。 「…乾…」 「…ごめん、行こうか」 駆け出したその背を見、そして真田も再び駆け出した。 隣に並ぶと、彼はにこりと微笑った。 そうして二人は夕食後もロードワークに出かけ、更に真田は道場で夜稽古をこなした。 真田が道場に行っている間に風呂を済ませた乾は真田の母親に捕まり、居間で和気藹々と話し込んでいた。 やがて稽古を終えた真田が風呂も済ませて上がる頃には乾も居間を辞去し、真田の部屋へと向かった。 「すまんな」 「え?何が?」 冷茶の満たされたグラスを机の上に置きながら乾は真田を振り返った。 「母に捕まっていただろう」 「ああ、いいよ別に。俺も好きで話してるだけだから」 「そうならいいが…」 「真田の幼い頃の話とかも聞けるしね」 「……」 差し出されたグラスをむすっとして受け取り、一気に飲み干した真田に乾はくすくすと笑う。 「大丈夫だよ。真田が心配してるような話は聞いてないから」 「…別に何も心配などしとらん」 「ならいいよね」 「……」 むすっとしたままグラスを置き、真田は乾を抱き寄せた。 「お前は意地が悪い」 「なに?今頃気付いたの?」 腕の中でくすくすと笑う乾が小憎らしくて真田はその耳に唇を寄せると軽く歯を立てた。 「真田、くすぐったい」 けれど真田の甘噛みは止まらず、こら、と乾は口では諌めながらも為すがままにさせていた。 「さーなーだ」 「何だ」 「そこばっかりじゃなくて、他にもして欲しい所があるんだけど」 その言葉に顔を上げ、真田は導かれるように今度は乾の唇にそっと口付けた。 「ねえ、真田」 鼻先が触れ合うくらい近くで乾が囁く。 「何だ」 「明日からまた少しの間会えなくなるね」 「そうだな」 「だから、今夜はその分たくさん、して」 「青学も明日は部活だろう」 「大丈夫だから、お願い」 耳元で甘く囁かれ、真田は引かれるがままに乾を布団の上に組み伏せた。 「もっと強く、抱いて」 泣き声が聞こえた。 またあの泣き声だ。 ずっと誰かの名を呼んで泣いている。 悲鳴のように呼ぶその名が聞き取れない。 もう少しで、手が届きそうなのに。 傍らで起き上がる気配に真田は意識を浮上させた。 薄らと瞼を持ち上げると、暗闇の中、乾が身を起こしていた。 「…乾?」 「ああ、起こしちゃった?ごめんね」 「いや、いい。どうかしたのか」 すると乾は「ん、」と誤魔化すような曖昧な笑みを孕んだ声でそれに応えた。 「ちょっと、考え事」 「…眼の事か」 真田も身を起こし、電気をつけようと伸ばした手を乾がそっと止めた。 「ちょっと違う、かな。いや、全く違うって訳でもないんだけれど…」 そう言って黙り込んでしまった乾に、真田は先を促すわけでも無くただじっとその沈黙を守った。 「…俺は、ずっと怖かったんだ」 長い沈黙の後、ぽつりと乾が呟くように告げた。 「いつかこの眼が見えなくなって、世界から弾き出された様な思いをするのが怖かった。小さい頃はまだ良かったんだ。あの頃は、ずっと一緒だと思っていた相手がいた。心の支えがあった。けれど、それはあっさりと崩れた。だから、今度こそ絶対的なパートナーが欲しかった。いや、パートナーなんて対等なものじゃない。俺に依存して離れられない、俺が居なくちゃ生きていけない、そんな存在が欲しかった。…道連れが、欲しかったんだ」 そんな時、目をつけたのが手塚だった。 「三年掛けて俺に依存するように仕向けた。その結果、手塚は何をするにしても何処に行くにしてもまず俺に相談して、俺の言うことを全面的に信頼するようになった。手塚は全国が終わったらドイツに行くつもりみたいだけど、きっとそれも俺が行くなって言えば取りやめる可能性の方が高い。それくらいにまで、俺は手塚を…そう、躾けたんだ」 乾が手塚を本当の意味で愛することは無い。 それは乾自身が一番よく分かっていた。 乾が手塚に対して抱く愛情は決して対等な存在に対するそれではない。 愛玩物を可愛がり、執着するのと同じだ。 「手塚も薄々それを分かってるのに、それでも俺の傍に居ようとする。だから俺は手塚の弱さと優しさに付け入るのを止められない。間違ったことをしてるってわかっててここまで来たつもりだったのに、今になって悔いている自分が居ることが、可笑しいというか、愚かしいというか」 くすりと笑う気配がした。 「…もう、今更だけどね」 「そんな事は無い」 手を伸ばし、その頬にそっと触れた。ぴくりと震えるのが分かる。 「やり直そうと思えばいつだってやり直せる。今からだって遅くは無いはずだ」 「…でも、俺は…」 「伴侶が欲しいというなら俺がなってやる。お前と共に堕ちていくのではなく、俺がお前の手を引いてやる」 頬に当てた手の感触から、乾が微かに微笑んだのが分かる。 「…真田は、眩しいね」 「お前が望むなら、共に光の下に在ろう。決して、堕ちさせなどせん」 「俺、見切り癖が付いちゃってるから苦労するよ?」 「構わん。俺が叩き直してやる」 「うわあ、俺、スパルタ苦手なんだけどなあ」 くすくす笑うその声は、笑っているはずなのにどこか泣きそうな色を含んでいて。 しかし触れた頬は乾いたままで。 真田は乾を抱き寄せると、確かめるようにその目尻に口付けた。 涙は滲んでいなかった。 第六十二話「海堂薫の佇む川の名は」 真っ白なベッドに横たわるその姿は痛々しいの一言に尽きた。 頭部は包帯に覆われ、その白い頬も更に白いガーゼや湿布で殆どの面積が覆われてしまっている。 海堂はただその傍らで座っている事しか出来ない自分が情けなかった。 負けた。 全国大会、最後の試合で海堂と乾は負けた。 しかもそれは乾の負傷による棄権負けだ。 乾の怪我の原因を作ったのは間違いなく自分だ。 切原のプレイスタイルを知っていて、なのに煽った。 結果、自分ではなくこの人が狙われた。 勝てなかった。相手にも、自分自身にも。 守れなかった。動けなかった。ただ見ているだけだった。 何のために。海堂は膝の上できつく拳を握り締める。 何のために、強くなりたかったのか。それを忘れてはいなかったか。 ただ強さだけを求め、肝心なものを置き去りにしてしまっていた。 「…っ…」 微かに震えた空気に海堂ははっとして顔を上げる。 今まで人形のように眠り続けていた乾の顔が苦しげに歪められ、片手が何かを探すようにシーツの中から滑り出た。 「先輩」 思わず腰を浮かせて手を伸ばすと、中を彷徨っていた手が海堂の手を掴んだ。 「せん…」 「…、…」 乾の薄い唇が何かを紡ぐ。 「先輩」 誰かを呼んでいるようだ。しかし微かなその声は不明瞭で、誰を呼んでいるのかまでは分からない。 その唇の動きを見つめ、何とか読み取れたのはたった一言。 そばにいて。 「…先輩」 海堂は己の手を握る手をそっと握り返した。 「ここに、います」 ここに、いますから。 それからどれ位の時間が流れただろうか。そんなには長くはないはずだ。 ノックの音に海堂はするりと握った手を放した。 「はい」 看護師だろうか、と思いながら応えると、入ってきたのは思いも寄らぬ人物だった。 「アンタは…」 海堂は思わず立ち上がった。 見るからに高価とわかるスーツを身に纏い、冷酷ささえ宿しているように見える切れ長の眼差し。 「海堂君だね」 冷やかなものを含んだ低音。彼が歩くたびにかつりと靴音が響く。 「アンタ、氷帝の…」 入ってきたのは、氷帝テニス部の監督を務めている榊だった。 「貞治はまだ目が覚めないのか」 「え、あ、はあ」 海堂の疑問に満ちた生返事に榊は無言でベッドに近寄った。 それと同時に再び扉が開かれる。 「失礼します」 入ってきたのは今度こそ看護師と白衣を纏った医者だった。 「先程お話したとおり、目が覚め次第、息子は神奈川の総合病院に移します」 榊が医師を振り返って告げた言葉を、海堂は理解するのに暫くの時間を要した。 その間にも榊と医師は何かやり取りをしていたが、海堂の耳には入らなかった。 話が纏まったのか、医師と看護師が病室を出て行き榊がこちらを振り返った瞬間、漸く海堂は我に返った。 「アンタ、息子って…」 「貞治は正真正銘私の息子だが」 「でも苗字、」 「私は婿養子なので正しくは乾姓だ。しかし氷帝の監督と青学の選手が親子となれば下世話な勘繰りをする輩も出てくる。その為に学校では旧姓の榊姓を使っているだけだ」 切り捨てるような言い方とその冷えた眼差しに、海堂は目の前の男が自分に対して敵意を抱いているのだと気付いた。 この男が本当に乾の父親だというのなら、あんなプレイをし、乾を負傷させた自分は敵意を抱かれても仕方ないだろう。けれど謝ることもできなくて海堂はふいっと視線を逸らして拳を握り締めた。 「…君は、」 榊が何か言いかけ、しかしその言葉を閉ざした。 「…ぅ…」 乾が小さく声を上げ、やがて薄らとその瞳を開けたのだ。 「貞治、大丈夫か」 榊の呼びかけに、しかし乾はぼうっとしたまま天井を見上げていた。 「貞治」 「…あれ、父さん…?」 頭が微かに傾いて榊の方を見る。しかしその眼はどこか虚ろだ。 「ここ、どこ?」 「会場近くの病院だ。眼が覚めたのなら神奈川の病院に移ろう。あちらの方がお前の事を良くわかっている」 「それはいいけど、決勝はどうなったの」 「今はまだS2の最中のようだ」 「そう。じゃあ不二が頑張ってる頃だね…そっか、負けたんだな、俺…海堂に悪いことしちゃったな」 「先輩、」 「あれ、海堂、いたの」 海堂の声で漸く海堂の存在に気付いたらしい乾はゆっくりと身を起こした。 「眩暈や吐き気はないか」 「大丈夫だよ。それより、海堂」 榊がその背を支えたが、乾はそれをやんわりと断って海堂の方へ顔を向けた。気がついたばかりだからだろうか、顔はこちらを向いていたものの、その視線は相変わらずぼんやりとしていた。 「…っす」 「ごめんな、俺の所為で棄権負けになったんだろ」 「そんな!アンタの所為じゃないじゃないっ、俺が、」 「ねえ、海堂。海堂は切原君みたいになっちゃだめだよ」 「…っ…」 「幸村たちが何も言わないって事は切原君のあのプレイスタイルは黙認されていると見ていいだろうけど、誉められたプレイではないって事はわかるよね」 「ッス…」 「それが彼の実力を引き出すに適したスタイルというのであればそれは仕方ないと思う。でも、海堂は違うよね」 「……」 「目の前の強さに流されて自分を見失ってしまったら元も子もないデショ」 「…っす…スンマセンでした…」 頭を下げる海堂に、しかし乾は緩やかに微笑った。 「これで俺は引退だ。俺はもうお前を引き戻してやれない。だから、忘れちゃだめだよ。お前のテニスを」 その微笑みに、海堂は深く頭を下げた。 「ありがとう、ございました…!」 俺の代わりに見届けておいで、と海堂を会場に返し、病室には乾と榊の二人だけになった。 「…貞治」 「何、父さん」 何事もないように父親を見上げるその視線は、やはりどこか焦点がずれていて。 榊は痛ましげに息子の顔を見下ろした。 「…見えて、いないんだな」 その言葉に乾はただ穏やかに微笑む。 「…すまない」 榊は乾の頬を両手で包み込み、そして抱きしめた。 「どうして父さんが謝るの」 きついほどのその抱擁を乾は笑って受け入れる。 「お前を、守ってやれなかった」 「中学に入ってからもテニスが続けたいってごねたのは俺だよ。それに、蓮ニと切原君のペアに当たるってわかった時点でこの事態は予想できていたし」 「私はお前に何もしてやることが出来なかった」 「十分してもらったよ。青学に通いたいって言う俺の我が儘聞いて青学近くのマンションまで借りてくれて、オマケに俺の好きなテニスを理解しようとたくさん勉強して、氷帝の顧問にまでなってくれたじゃないか」 少しだけ体を離し、父親の顔があるだろう場所を見上げ、「ね?」と彼は笑った。 「父さんと母さんの息子に生まれてこれて、良かったと思ってるよ」 「貞治…」 「だから、そんなに悲しまないで」 微笑む息子が愛しくて、哀しくて、榊はその体を強く抱きしめた。 第六十三話「柳蓮ニと乾貞治」 全国大会が終わった。中学最後の大会が終わった。 それは昨日まで確かに現実として在ったはずなのに、一晩経っただけで既に遠い昔の事のようにも思えてくる。 自分たちに残っているのは、もう引継ぎだけだ。 それを終えてしまえば、中学校生活での部活は終わりを告げる。 後はもう、進級試験または外部受験の準備に追われる事になる。 未だ夏は続いているというのに、全てが終わってしまったような気がする。 大会後ということで今日一日は部活が無いのだが、決して試合疲れだけではない倦怠感が体に付きまとっていて、真田はそれを振り払うように道場でただ無心に剣を振るっていた。 「…ん?」 早朝から道場に篭っていた真田は、昼を廻って漸く母屋に戻ってきていた。 そして軽くシャワーを浴びて部屋に戻ると、机の上に置きっぱなしにしておいた携帯電話のランプが点滅している。 ぱかりと開いてみると、一通のメールが届いていた。 蓮ニからだ。 連絡が欲しいというその内容に、部活の事だろうかと携帯を耳に当てた。 「…蓮ニか。何かあったのか。…ああ、それは俺も気にしていたのだが…転院?」 蓮ニの用件は、乾の事だった。 あの試合の後、会場近くの病院に搬送されたことは知っていた。しかし、昨日の内に転院していたことまでは当然知らない。蓮ニがどうやってそれを知ったのかは知らないが、確かなのだろう。転院先は幸村が入院していた神奈川の総合病院だった。 しかもわざわざ転院してまでの入院。やはりどこか打ち所が悪かったのだろうか。 試合とはいえ、赤也の暴走は止めるべきだった。今更後悔しても遅いのだが。 そしてふと思い出した。あの病院は、元々乾が通っていた病院だ。 「…まさか、眼に異常が出たのか?」 すると回線の向こうで訝しげな声が聞こえた。 「?知らないのか?乾が弱視だと」 どういうことだ、と低い声がする。 蓮ニは乾の眼の事を知らなかった? 当然知っているものだとばかり思っていた真田は内心で首を傾げる。 そして乞われるがままに乾の目に付いて話し始めた。 それから一時間ほど経った頃、真田は蓮ニと共に病院を訪れていた。 真田が乾の眼の状態について話した後、蓮ニは乾の見舞いに行くことを提案した。 真田としても乾の容態は気になっていたので二つ返事で受けたのだが。 ちらりと傍らを歩く蓮ニを見る。 「何だ」 「…いや、何でもない」 「用も無いのに見るな。減る」 明らかに不機嫌だ。どうやら真田や幸村どころか仁王や赤也まで乾の眼の事を知っていたというのに自分が知らなかったということが余程気に食わないらしい。 ここが部室だったらロッカーの扉二、三枚はへこまされている事だろう。ここが病院で良かった。 ナースセンターで聞いた場所に辿りつくと、確かにそこには『乾貞治』のプレートが差し込まれていた。 軽くノックをすると、どうぞ、と耳に馴染んだ声が帰ってきた。 「失礼する」 病室に入ると、乾はベッドの上で身を起こしていた。 「いらっしゃい」 頭には包帯が巻かれ、頬の殆どはガーゼや湿布に覆われたその姿に一瞬息が詰まった。 けれど乾は穏やかに笑うばかりだ。 「真田の事だから、今日は道場に篭ってると思ってたんだけど、外れちゃったね」 「いや、昼までは確かに道場で稽古をしていたのだが…それより、体の方は大丈夫か。いや、俺が言う言葉ではないかもしれないが」 「何で?心配してくれてるんデショ?嬉しいよ。ありがとう。体の方はそれほど問題ないよ。ただの打撲と切り傷だから」 「しかし、入院となるとやはり何かあったのではないか」 すると乾は「んー」と珍しく言葉を濁して笑った。 「親が心配性でね。検査入院ってトコ」 「そうか…では、眼の方も大丈夫なのか」 すると乾はまた言葉を濁した。 「初めに言っておくけど、あれは試合中のものであって切原君は悪くないからね?」 「ということはやはり異常があったのか」 「ええとね、そういう可能性があるって分かってて出場した俺が悪いんだから、切原君を叱らないでほしいんだけど」 「……わかった。赤也には何も言わん。だから話せ」 「うん」 頷いて乾は己の分厚い眼鏡を外した。 ゆっくりとこちらを見上げる。しかしその焦点は明らかに合っていない。 「……まさか」 真田の声に、乾はえへっと笑った。 「失明しちゃった」 「笑い事ではないだろう!」 「や、だから、こういう可能性があるって分かってて出場したのだからして覚悟は出来ていたというか、どっちにしろ無事に全国終われたとしてもあと一年も持たないっぽかったからいっそ清々したというか」 眼を閉ざしてへらりと笑う乾に歩み寄ったのは、今まで無言を通していた蓮ニだった。 蓮ニは相変わらずの無音で乾の傍らに歩み寄ると、すっとその手を彼の頬に添えた。 「?!」 びくりとして乾がその手から逃れる様に体を引いた。途端、訝しげな色を湛えて蓮ニの居る辺りを閉ざした視線で見上げている。 「…誰?今の感触、真田じゃない」 「俺だ、貞治」 その声を認識すると同時に、すうっと乾の表情が色を無くした。いや、驚愕を微かに浮かべている。 確かに、眼が見えていなかったのならばずっと無言で気配を消していた蓮ニの存在に気付いていなくてもおかしくはない。 「蓮ニ…」 「そうだ、貞治」 そうして彼はもう一度乾の頬に手を添える。びくりと震える体。まるで捕食されるのを待つしかない小動物のように。 「眼の事、何故俺に言わなかった」 「…どうして、蓮ニに言わなきゃ、ならないの」 まるで怯えるように声を潜めて返すその応え。けれど蓮ニはそれに気付かないかのように淡々と問い詰める。 「一々説明しなければわからないのか?」 「……もう、昔の話だろ。お前とはパートナーでも何でもない」 すると蓮ニは乾の頬に当てていた手を下ろし、やれやれと溜息を付いた。 「いい加減機嫌を直せ、貞治」 「っ!」 その瞬間、乾は衝動に任せ、手にしていた眼鏡を思い切り蓮ニに向かって投げつけていた。 「ふざけるな!!」 鈍い音を立ててそれは蓮ニの腹に当たり、しかし重力に従って床に転がった。 かしゃんと乾いた音が響く。 「乾?!」 勢い良く扉が開き、聞き覚えのある声と共に一人の青年が入ってきた。手塚国光だ。 真田たちが居るとは思わなかったのだろう、一瞬驚いたように眼を見開いたが、しかしそこに蓮ニの姿を認めるとその表情を険しくして二人を睨みつけた。 「乾に何をした」 第六十四話「博士を象るクオリア」 乾が失明したと知ったのは、全国大会が終わってからの事だった。 連絡を受けていた竜崎が手塚と大石だけにそれを告げた。 足元から全てが崩れていくような感覚。 いつかは訪れるだろうと覚悟していたはずなのに。けれど、まだ早すぎる。 まだ、彼の瞳は映すべきものがたくさんあったはずなのに。 だがもうそれは叶わない。 会場からその足で乾の元へと向かいたかったが、まずは自分の腕を診て貰えとかかりつけの病院に引っ張って行かれ、文句を言えば呆れられた。 しかし確かにこの腕のまま乾に会いに行っても彼は会ってはくれないだろう。大人しく診察を受けることにして、乾に会いに行くのは翌日に持ち越された。 そして長い夜が明け、漸く会いに行けるかと言えばそうでも無く。 午前中は大石と共に学校に赴き、竜崎とこれからについて話し合わなければならなかった。 次期部長を誰にするかとかそんな事は何も今日話し合わなくても良いだろうに。 顔にそうありありと出ていたのだろう、仏頂面の手塚に大石は苦笑し、竜崎にはまた呆れられた。 そうして昼過ぎになってやっと神奈川へと向かうことが出来た。最初は大石が同行を申し出たのだが、それを断って手塚は一人でその病院へと訪れた。 教えてもらった部屋の前に立ち、ノックをしようとした時、それは聞こえた。 『ふざけるな!!』 室内から聞こえた、温厚なはずの彼の怒声に手塚は思わずその扉を開けていた。 「乾?!」 そこには既に先客が居た。一人は真田弦一郎。 そして、柳蓮ニ。 手塚の視線が険しいものに変わる。 あの試合で唯一切原赤也を諌める事が出来る位置に居ながら、それを止めようともしなかった男。 手塚は二人を押し退けるようにして乾との間に割って入り、彼を背に庇って二人を睨みつけた。 「乾に何をした」 「何も」 淡々と返される応え。彼は冷めた視線を手塚に、否、その背後の乾に向けて告げた。 「貞治、いつまで人形遊びをしているつもりだ」 訝しげに眉を顰めたのは手塚だけで、真田も乾もただ黙っている。 「そうやって依存させて、己の思うがままに動くよう躾けた所でお前の望むものは手に入らない」 「……ぃ…」 「もう、そんなあてつけはしなくとも良いのだ」 「うるさい!」 「乾っ」 手塚が乾を振り返り、その体を支える。しかし触れられた途端乾は身を捩ってそれから逃れた。 「よくもまあそんな勝手な事が言えたもんだな!いい加減機嫌を直せ?あてつけなんててしなくてもいい?ふざけるな!今まで俺がどんな思いで生きてきたか知らないでよく言うよ!」 ぶんっと枕が投げつけられる。しかしそれは見当外れの方向に飛んで行き、壁にぶつかって落ちた。 「今更、お前の元にかえれるわけないだろう…!」 「お前が望むなら俺は時を戻そう。お前があの日の続きを紡いだように、俺はあの世界をもう一度お前に与えよう」 ただ傍らの存在を信じ、無邪気に笑っていたあの頃を。 「乾、聞いては駄目だ」 「しかし、いつまでもこのままというわけにも行くまい」 手塚の制止を遮って真田は乾を見る。 彼はきつくシーツを握り締め、白い肌を一層白くして眼を閉ざしていた。 「乾、お前はどうしたいのだ」 そして、長い沈黙の後、乾は口を開いた。 |