浅瀬を歩む君の滑らかな脚






これが恋だと気付いた時には、あの人は俺の側に居なかった。



終、海堂薫と乾貞治「リシは浅瀬を歩む」


テニス部に入部して初めて俺に声を掛けてきた先輩があの人だった。
当時のレギュラーは半数が二年生で、あの人もまたレギュラージャージを纏っていた。
俺の目指す場所に居る人だった。だから、声を掛けられた時は緊張した。
あの人は新入部員一人一人に声を掛けていたらしくて、俺だけが特別だというわけではない。それでもあの時はレギュラーに話しかけられたことがただ嬉しかった。
あの時はまだ、あの人に対して強いという印象はなかった。
当時、二年生は手塚部長とあの人を中心に纏まっているように見えた。けれど、二年レギュラーは特に灰汁の強い人たちばかりで、そんな中、あの人はどちらかと言うと大人しめで、身長以外で他のレギュラーに勝っている部分など見出せなかった。
だから、春のランキング戦であの人の試合を見た時は本当に驚いた。
データテニスという彼のスタイルは何となく納得してしまったのだが、何より、その姿が眼を惹き付けて放さなかった。
サーブを打つときのぴんと伸びた指先。ラケットが描く無駄のない軌跡。
生まれ持った才能ではなく、ひたすらの努力の積み重ねの結晶。
テニスをする姿を綺麗だと思ったのは、これが初めてだった。
手塚部長や不二先輩の持つそれとはまた違ったカリスマ。
他の先輩たちがあの人の周りに集まる理由がわかった気がした。
そうして、俺の中にあの人の存在が刻まれた。


冬のランキング戦で、同ブロックのレギュラーには負けたものの、俺はレギュラーの座を掴むことができた。
嬉しかった。
レギュラーになれたことも勿論だが、あの人が俺のレギュラー入りを受け入れてくれたことも嬉しかった。
あの人と同じ場所に立てたことが、嬉しかった。
あの人は誰にでもやんわりとした対応をする。
そうして、初めの頃は分からなかったが、無表情に見えて存外、あの人はよく微笑うことに気付いた。
声を上げて笑う所は見たこと無かったけれど、それでも十分だった。
あの人の微笑みは、少し照れくさい。いつまで経っても慣れなくて、いつも顔が紅潮していないか気になった。


あの時、あの冬の日、もし鍵を落としていなかったら。
何か、違っていただろうか。


あの日から、気付けばあの人を眼で追うようになっていた。
いや、自覚していなかっただけで、今までも追っていたのかもしれないが。
とにかく、あの人を追い続けた。
そうしてみると、確かにあの人と手塚部長は一緒に居ることが多い。
あの人は違うと言ったけれど、手塚部長はどう思っているのだろうか。
多分、部長はあの人の事が好きなんだと思う。
あの人が部長を見る目は優しいけれど、他の人に対するのと余り違わない気がする。
でも、部長があの人を見る目は違う。
その視線はいつも何か言いたげで、いつもあの人に何か応えを求めているようだった。


あの人の眼が弱視だと知ってからも、特に何が変わったということも無かった。
あの人は全くそういう素振りを見せなかったし、あの人の目を知っているはずの三年生たちも何も言わなかったから。
だからそれほど深刻に考えたことはなかった。



目が弱い、という事を、俺は軽く見ていたのだ。



思い知らされたのは、全て手遅れになってからだった。
全国大会が終わって、初めての部活の日、あの人は遅刻した。
あの人は昨日退院したばかりで、今日は病院に行ってから来るというのは、あの人からの電話で知っていた。
電話口の向こうであの人は大丈夫だと笑っていたから、だから大丈夫なのだと無条件に信じ込んでいた。
そして、あの人はやってきた。
真っ先に気付いたのは手塚部長と大石副部長だった。
手塚部長がコートを飛び出し、大石副部長が慌ててそれを追いかけていったので、自然と視線はそちらに向いた。
そこに、あの人は確かに居た。
けれど、その歩みは酷くゆっくりで、手には何故か白く細長い杖を持っていた。
その杖の先で進む先を確かめるように地面を叩きながらゆったりと歩いている。
手塚部長と大石副部長が何か話しかけている。何処か深刻そうな二人とは違い、あの人は穏やかに微笑って何か話している。
何故か、胸騒ぎがする。
あの人は白い杖を折りたたんで鞄にしまい、けれど今度は手塚部長の腕に手を添えて歩き出した。
俺たちの前に表れたあの人は、数と面積は格段に減っていたがそれでも未だその頬や額をガーゼや包帯の白で染めていた。眼鏡の右側のレンズにはここからでも分かるくらい大きな罅が入っている。替えを幾つも持っているはずなのに、何故あのままなのだろうか。
じっとあの人を見ていると、レギュラーだけが集められた。
あの人は一見、何も変わらない様に見えた。

けれど、残酷なまでの響きを持ってそれは告げられた。

一瞬、視界が歪んだ。俺の、せいだ。
俺が、俺があの時、切原を挑発したから。

俺が、


「海堂」

雷に打たれたような衝撃にはっとする。
俺の前に来てくれるかな。そう言ってあの人は微笑う。
視線が俺に集まる。足が震えそうになる。それでもあの人の前に立つと、あの人の傍らに立っていた大石副部長が「乾、」と声を掛けた。
「海堂?」
「…センパイ…ッ」
すみません、すみません。
アンタは俺を止めてくれたのに。
眼前の強さに目の眩んだ俺を正してくれたのに。
なのに、俺は…!


「海堂、俺のわがままに付き合ってくれて、ありがとう」


何で、アンタはそんな風に微笑えるんですか。


「そんな事…!俺が、俺がもっと…!」
「海堂のせいじゃないよ。俺は自分の状態がどんなものだか分かっていた。それでも出場したのは俺の責任だ。これは自業自得だよ。だから、海堂は負い目を感じる必要は何もない」
「でも…!」
「なあ、海堂。病室で俺が言ったこと、覚えてるか?」


――これで俺は引退だ。俺はもうお前を引き戻してやれない。だから、忘れちゃだめだよ。お前のテニスを…


「…ッス…」
徐にその手が持ち上がり、ひたりと俺の腕に触った。腕、肩と上がって行き、その手はぽんと優しく俺の肩を叩いた。
「前にも言ったけど、もう一度言わせてくれな」
そう言っていつもの柔らかな笑みを薄らと浮かべた。


















「俺とダブルスを組んでくれて、ありがとう」
















「…っ…!」
あ、と思ったときにはもう遅かった。
色んな感情がごちゃ混ぜになって、どうしようもなくて、あの人に抱きついていた。
きつく目を閉じているのに、なのに溢れるものを止められない。
あの人はまるで子供をあやすように俺の背中を優しく叩く。
謝りたいのか、感謝したいのか、もう、わからなかった。


三年生が引退して、桃城が新たな部長となり、俺が副部長となった。
覚える事だらけで、今までのように自分の事だけを考えて練習していれば良いとも言っていられなくなった。
それでも、毎日のロードワークは欠かしたことはない。
「……」
河原で素振りを終え、ふと水面に目を向ける。
夕陽を反射する水面はオレンジに煌いては消えていく。
綺麗だと思う。けれど、こんな些細なものも、あの人はもう見ることは適わないのだと思うと胸が締め付けられる。
ざばりと川に足を踏み入れる。冬の川は凍てつくように冷たい。
あの日、あの人が俺にダブルスを持ちかけた日、あの時はどれ位だっただろう。
初夏だから、この冷たさに比べれば随分暖かかったはずだ。
あの時は、こんな日が来るなんて思いもしなかった。
夏が終わって、あの人たちが引退して、けれどあの人たちは高等部のテニス部に居て、俺たちが高校生になればまた、同じ日々が廻って来るのだと。
それ以外なんて、考えたこともなかった。
そこにあの人が居ないなんて。
「…ちっ…」
ぱぁんと手で水面を叩き付ける。水が跳ねて顔にかかった。冷たい。
冷たいのに、それに混じって暖かなものが頬を伝っていく。
いつのまに。けれど拭うこともせずただ夕陽に煌く水面を見下ろす。


あの人が居ない。


どれだけ強くなっても、どんな新技を会得しても。
あの人に見てもらえる事はもうない。
あの人と同じコートに立つ事はもう無いのだ。


「…乾、センパイ…!」


海堂、と呼ぶ声が耳の奥で響く。
きっと俺は、あの人の事が好きだったのだ。
大切だったのだ。誰よりも。



そう、きっとこれは、恋だったのだ。



そうでなければ、この想いにどんな名を付けろというのか。
この両の目から溢れるものを、何と呼べというのか。





俺はあの人に、恋をしていたのだ。






全てはもう、遅すぎるのだけれど。
溢れ出したものは、尽きる事を知らない。








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