花咲く丘に涙して

罪悪に蝕まれし者は丘を目指し


「は…ぁうっ……」
 体を貫かれる痛みに頭を振ると、ぱさりと腰まである長い藤色の髪が揺れる。
「…っ、ぅ…」
 カーシュは自分よりがっしりとした体躯の男に跨り、欲望にそそり勃つそれを受け入れていた。
「ほら、奥まで入ったであろう?」
「あっ…!」
 くつくつと愉快そうに喉を鳴らす亜人の男に首筋をべろりと舐められ、ざらりとしたその特有の感触に、カーシュはびくりと身を竦ませた。
「餓えているお前を慰めてやっているのだ。有難く思え」
 誰が思うものかとカーシュは言葉を紡ぐが、それは自らの引き攣った声で塞がれてしまった。
「ひっあ、あっ!!」
 下から乱暴に突き上げられ、カーシュは亜人の男にしがみ付く。
「大恩ある蛇骨の愛娘、その婚約者を寝取り、殺した事実を忘れたわけではなかろう」
 お前は抵抗できる立場でない事を弁えるのだな。
 低い笑い声と共にそう言われ、カーシュはきつく眼を閉じる。
「しょ、うちしております……ヤマネコ様…」
「ならば、どうすればよいのか…解るであろう」
 釣り上がった眼がすうっと細められ、カーシュを見る。カーシュは返事をする代わりにその腰をゆっくりと上下に動かした。

 

「…以上で報告を終らせて頂きます」
 カーシュが資料を蛇骨へ渡すと、彼は「うむ」と肯いてそれを受け取った。
「引き続き調査を頼む」
「はっ。では、失礼させて頂きます」
 一礼し、くるりと踵を返すとコンコン、と部屋の扉がノックされる。
「来たか…」
 蛇骨の呟きと同時に入室してきたその人物に、カーシュはぎくりと顔を強張らせた。
「おや、政務中でしたかな」
 軽く眼を見開かせ、わざとらしくそう言うヤマネコに、蛇骨は否、と答える。
「ちょうど終った所だ。して、何か進展でも?」
 がたりと立ち上り、隠し部屋の扉を開くボタンを押しながら蛇骨はヤマネコに問い掛ける。
「まあ、大した事ではないのだがな」
 そう言いながら部屋の奥へと向かうヤマネコからカーシュは視線を逸らし、足早にたった今ヤマネコの入って来た扉へと向かう。
「おや、何かよい事でもあったのかね?」
 ヤマネコの僅かな表情の変化を見破った蛇骨の問いに、ヤマネコは小さく笑った。
「面白い玩具を手に入れたのでね」
 扉を閉める瞬間に聞えて来たそのセリフは、カーシュの胸を深く抉っていた。

 


祈り囚われし者、丘を見上げその眼を眇める



「あら、カーシュ…」
 客間へ向かっていると、何処かに出掛けていたのだろう、空になった花籠を手にしたリデルと出会った。
「リデルお嬢さま…お出かけになられていたのですか?」
「ええ…霊廟へ行っていたのです」
 カーシュははっとしたような顔になり、すぐに苦笑する。
「そうですか…」
「もう…三年になるのですね…ダリオが死んでから…」
 リデルは哀しげに微笑むと、軽い会釈をして階上へと立ち去った。カーシュはその後ろ姿を見送ると、照明を反射して鈍く光る床を見つめる。
――もう…三年になるのですね…ダリオが死んでから…
「早いモンだな…」
 自嘲気味に笑うと、カーシュは再び客間へと足を向けた。

 

「あっ、は、ぁぅ…!」
 床に四肢を付き、背後からヤマネコに覆い被さられ、カーシュはキリッと唇を噛む。
 ヤマネコのそれを受け入れる事に体は馴れていっても、何度繰り返そうとこの交わり方は馴れる事が出来なかった。
「セルジュをわざと逃がしたのだろう?」
 ヤマネコは今日の任務の事を言っているのだ。「亡霊」を捉えてこいという命を受けたカーシュはそれに失敗した。それをわざとだとこの男は言っているのだ。
 確かに僅かな油断を突かれ、逃げられたのは自分の責任だ。だが、誰がそんな事するものか。
「そ、んなんじゃ…ね、ぇ…ひぁっ…!」
「誰がそんな口を利いて良いと言った」
 固くなった中心に爪を立てられ、カーシュは滲んだ涙を振り切るように固く眼を閉じる。
「も、うしわ、けありま…せんっ…少年だっ…ので…油断…っ…しま…ぁっ」
 ヤマネコのそれが肉襞を掻き毟るかのように前後し、その強い快感にカーシュはびくびくと痙攣する。
「セルジュに興味を持ったか…ククッ…」
 それも良かろう。
 カーシュの最奥を抉りながら、ヤマネコは愉快そうに喉を鳴らした。

 


丘に登れば遥か下方から彼の者我に手を振りて



 リデルさんを助け出した僕たちは隠者の小屋へと逃れていた。
(あれ?)
 静かな夜空に虫の鳴く音が響く中、誰かが地上へ昇っていく気配に僕は目を醒ました。
 ヤマネコの体になってしまった僕の五感は人間のそれより遥かに鋭くなっていて、ほんの僅かな物音にも反応してしまう。
「……」
 僕は他の人たちを起こさない様にそっと起き上がって辺りを見回してみる。
 夜だというのに視界はハッキリしていて、誰が居ないのかすぐに分かった。
 カーシュが居ない。となると先程出ていったのもカーシュだろう。
 何処へ行ったんだろう、と思いながらそっと起き上がって地上へ出た。
 すると、カーシュはすぐ傍の大樹の根元に座り込んでぼうっと夜空を眺めていた。
「カーシュ?」
 びくり、と彼の肩が震えるのがはっきりと見えた。
 驚かせちゃったかな?と思いながら近付いていくと、それがある意味で違っていたのだと気付く。
「…小僧か……」
 必死で隠しているみたいだけれど、わかってしまった。
 カーシュは脅えている。
 僕にじゃなくて、この姿に。
 中身と外見のギャップとか、そういうのに途惑うのはみんな同じだったけれど、カーシュはそれが特に顕著に思える。
 最初は元々のヤマネコを身近で見て来た「龍騎士」だからかと思ったけど、マルチェラやゾアはそれほどではない。…まあ、単にマルチェラは子供らしい順応力の高さから、ゾアは無口で表情が分からないからだけからなのかもしれないんだけど。
「?どうしたの?」
「い、いや…何でもねえよ…」
 僕は何も気付かなかった様に目を丸くして言うと、彼は中身がちゃんと僕であることに明らかにほっとしていた。
「そう…?」
 何がそんなにカーシュを追い詰めるんだろう。
「おまえ、ヤマネコ様が怖いんだろ」
 突然頭上から聞えた第三者の声に僕とカーシュはびくりとして上を見上げた。
 大振りの枝にツクヨミがぶら下がっている。
「よっと」
「ツ、ツクヨミ?!」
 くるんっと回転し、鈴の音も軽やかに僕たちの前に降り立ったツクヨミは悪戯っ子の様な笑みを浮かべていた。
「怖ぇわけねえだろ!」
 突然のカーシュの怒鳴り声に僕はびくりとしてカーシュを見る。
 カーシュの表情には焦りの色が入り交じっていた。まるで、嘘を必死に隠そうとするかのような表情だ。
「おまえ、この三年間ずっとヤマネコ様の慰み物だったじゃないか」
「うるせえ!!」
「慰み物…?」
 一瞬、何か分からなくてきょとんとした。けれど、すぐにそれがどんな意味を表すのかを悟り、そういった経験のない僕は赤くなるよりも呆然とした。
「それ以上言ったら唯じゃおかねえっ…!!」
 まさか、と思う。けど、カーシュは怒りこそすれそれを否定しない。
 その、押し殺した怒りの裏側にある脅えと焦りの色に僕はそれが真実なのだと知った。
「今更近寄られたくらいで何ビクついてんのさ。ま、だからついからかいたくなるんだけどね♪」
「てめえっ……」
 怒気が殺気へと変わる寸前、ツクヨミは「バイバ〜イ♪」と跳躍して消えてしまった。
 消えてしまったツクヨミの残影を睨み付けるカーシュに、僕はゆっくりと近寄ってみる。
「カーシュ…」
 あからさまにびくりと反応され、僕は少し落ち込んでしまった。
「僕はヤマネコじゃないのに…」
 ポツリとそう呟くと、カーシュははっとして視線を伏せた。
「あ……す、まねえ…」
 いつもの騒がしさは微塵も無くて、ぼそぼそと謝罪するカーシュの姿が痛々しい。
 僕は余計胸が痛くなるのを感じた。
「……本当、なんだ…?」
「………」
 視線を逸らし、否定の言葉を発しないカーシュ。
 ああ、やっぱり本当なんだね。
「…嫌かもしれないけど、ゴメン」
 僕はカーシュに腕を伸ばすと、その体をそっと抱きしめた。
「小…僧…?」
 強張った体を強く抱きしめて、僕はぎゅっと眼を閉じた。
「ずっと、堪えていたんだね…僕より、ずっと辛かったんだね…」
「へっ…別に、なんて事ねえよ…」
 その明らかな強がりに、僕は「ごめん」と謝る。
「ごめん…知らなかったとは言え、無神経に近付いたりしてて…ごめん」
「…っ……」
 腕の中のカーシュが少しずつ緊張を解いていく。
「…お前が、悪いんじゃねえだろ…」
「うん、でも、ごめん」
 本当はここでさよならをするべきなのかもしれない。
 けど。
「一緒に、頑張っていこう…」
 僕より遥かに強いと信じて疑わなかった存在が、こんなに脆い一面を持っているとは思わなかった。
「カーシュ…」
 そんな強さと脆さを併せ持ったこの人を、とても愛しいと思った。

 


手を振り返せば彼の者嬉々として微笑まん



「最近セル兄ちゃんとカーシュって仲良いよな」
 マルチェラがふて腐れたように言う。
 小僧が本来の肉体を取り戻しに一人儀式の間に入っていて、俺たちは扉の前でお留守番。
「そうか?」
 俺が首を傾げて見返すと、マルチェラは「そうよ」と眉を顰めた。
「ここ最近ずっと一緒じゃない」
 言われてみると確かに最近の自分は小僧と行動を共にすることが多くなったように思える。
 ヤマネコの外見はやっぱまだ途惑うけどさ。なんつーか、中身を小僧として見るようになってからは結構馴れて来たみたいだ。
「そういやそうか」
 マルチェラはぽんぽんとスカートに付いた埃を払いながら立ち上がり、ツンと唇を尖らせた。
「あ?てめえ何拗ねてんだ」
「拗ねてなんか無い!」
 子供特有の甲高い声で怒鳴られ、俺はひょいっと肩を竦めて見せた。
 年相応なその反応に、俺は内心で笑う。
「そりゃ悪かったな」
 マルチェラはフンと鼻を鳴らすと、何を思ったか俺の後ろに回ると俺の髪をぐいっと引っ張った。
「いって!」
「届かないから座ってよ」
 俺の悲鳴は完全無視されてしまい、渋々とその場にどっかと胡座をかいた。するとマルチェラは携帯している櫛を取り出して俺の髪を梳き始める。
 やれやれ、と思いながらも俺はマルチェラの好きにさせていた。
 俺にとってマルチェラは年の離れた妹か、ぶっちゃけ、娘みないなモンだ。本人にばれたらあの鋼の糸で串刺しにされそうだから言わないけどな。
 ルチアナがこいつを連れて来てもう何年になっただろう。
 まだ「あー」「うー」程度しか喋れなかった赤ん坊を、研究に忙しいルチアナに代わってリデルを始めとして俺達で代わる代わる育てて来た。ゾアはあの仮面の所為か高い確率で泣かれていたけどな。
 話題に出すととてつもなく怒るから最近は言わねえけど、こいつのおむつを替えた事もあれば風呂に入れてやったこともあるし、粉ミルクが無くなれば肩車して買いに行ったりもした。
 それが四、五歳過ぎる頃にはキャンキャン喚くようになってなあ…。やっぱルチアナと暮らしていたのが原因なのか?年不相応にお頭を発達させた幼女が俺らの世話を拒否するようになってン年。そして現在に至る、と。
 あ〜何となく娘を持つ父親の気持ちが分かっちまって複雑…。

 

 ギイィッと重い音を立て、扉は開かれた。
「みんな……」
 その奥から姿を現わした「セルジュ」の姿に二人は立ち上る。
「小僧!」
「セル兄ちゃん!」
「ただいま」
 マルチェラが微笑むセルジュに駆け寄ってその腰に跳びついた。
 セルジュはその頭を撫でながらカーシュに視線を転じ、ぷっと吹き出した。
「カーシュ、どうしたの?その髪…」
 いつもは垂らしてあるその髪は、ポニーテールになっていたのだ。セルジュがそれを指摘しているのだと分かったカーシュは「ああ」と苦笑する。
「マルチェラが暇潰しにな…」
「それ、解いちゃ駄目だからね」
 解こうとしたのをマルチェラに咎められ、カーシュは「ハイハイ」と肩を竦める。
「あ〜、首がスースーしやがる」
 決まり悪気に自分の首筋に手をやり、小さく舌打ちするカーシュにセルジュは込み上げてきた笑いを耐え切れずに笑い出してしまった。
「ふ…あははっ、なんかカーシュ可愛い〜!」
「ああ?!何言ってんだてめえは!」
「あはっ、ごめ…あははっ!」
 カーシュにどやされても笑いを堪える事が出来ない様子のセルジュに、マルチェラは「あれ?」と首を傾げる。
「どうした?」
「そう言えば、あたし、セル兄ちゃんがこんな風に笑った所見たの、初めてだ」
「…そういや、そうか…」
 漸く笑いの治まったらしいセルジュは薄らと浮かんだ涙を拭いながら一息つく。
「戻れて良かったね、セル兄ちゃん」
「ありがとう、マルチェラ、カーシュ」
 そう言ってセルジュは再びにっこりと笑った。
 初めて見た「セルジュ」の笑顔は、十七歳とは思えぬほど柔らかい笑みだった。



彼の者、我を追いて丘を上らん


「あれ、カーシュ何処か行くの?」
 天下無敵号からマブーレの大地へと降り立ったカーシュの姿を船首から見つけたセルジュが声を掛けてきた。
「ああ、風に当たってくる」
 カーシュは船首を見上げ、セルジュの姿を見つけると軽く手を振ってやり、船に背を向けて歩いていった。
 やがて船が見えなくなる場所まで来ると、カーシュは適当な所に腰を据えた。
「……明日、か……」
 明日はとうとう神の庭へと向かう。
 何があるか分からない場所だ。仲間たちは数人ずつでパーティーを組み、手分けをして探索することになっている。
 自分はセルジュ、マルチェラと共に行く事となっている。
 セルジュが中心となって動いている今、彼と共に行くという事、それは自分が直接的にヤマネコとの決着を付ける、そういう事なのだ。
「……」
 カーシュはぼうっと乾いた大地を見つめる。
 いつもなら、戦いの最前線に出られる事を喜んでいた。
「アイツをぶっ倒せるってえのに……どうしちまったんだ、俺…」
 一人呟くと、何かが近寄ってくる気配を感じ取る。カーシュは気を張り詰め、アクスを取ると「あ?」と眉を顰めた。
 近寄ってきたそれはとてとてとカーシュに近寄ると、「キィ」と甲高く鳴いた。
「……なんだ?コイツ…」
 モンスターで言うならモベチャン辺りに似ているだろうその動物は、カーシュのすぐ近くまで来ると様子を窺うようにこちらを見ている。
 マブーレには数多くの動物がいるのは知っていた。だが、亜人ならともかく、人間には滅多に近寄らないと言われていて、この地に生息する動物を間近で見る事など無かった。
「へえ、こんなヤツも居るのか…」
 カーシュは指でその動物を呼ぶと、それは首を傾げた後、とてとてと近寄ってくる。
「!!キィッ!」
 だが、その動物は突然何かに驚いた様にびくりとすると、慌てて森の中へと消えてしまった。カーシュ自身もその動物が何故逃げたのかを全身で感じていた。
 ゆっくりと振り返り、思った通りその気配の人物が佇んでいるのにカーシュは険しい表情をする。
「おやおや、お邪魔だった様だな」
 くつくつと低く笑う「セルジュ」はゆったりとした歩みでカーシュに近付いてくる。
「…何しに来やがった…」
 少年はその問いに笑みで答えると、するりとカーシュの首に腕を絡める。
「俺に触わるんじゃねえ…!」
「あれから誰とも関係を結んでおらぬのだろう?」
 疼いているのではないか?
 ダークセルジュは片手を首筋から胸へ、胸から下半身へと滑らしそれにびくりと反応するカーシュをくつくつと笑う。
「…っるせえ!」
 今までじっとしていたカーシュは自分の体の上を這い回る手を掴み、少年を地面に押し倒す。
「小僧と同じ体で今までの様に捻じ伏せれると思うんじゃねえ!今ならお前を殺す事だって可能なんだぜ!!」
 その細い首に指を絡めてそう怒鳴ると、彼はふと笑いを消し、表情すら消してしまう。

「ならば何故殺さぬ」

「何?」
 じっとその紅い眼に見詰められ、カーシュも負け時と睨み返す。
「口でそう粋がっているわりにこの指に力が殆ど入っていないのは何故だ?」
「っ…!」
「どうした。私を殺さないのか」
 まるで殺してくれと言っているようなその口振りにカーシュは舌打ちすると、少年を解放して立ち上る。
「さっさと消えろ!!」
 ゆっくりと立ち上る少年の姿をした異形から視線を逸らし、吐き捨てるように言うと彼が小さく呟くのが聞えた。
「愚かな…」
 それは、誰に向けた言葉だったのか。
 カーシュへ、それとも、自分に。
「明日…明日俺達は神の庭へ向かう…!精々てめえの保身でも考えてやがれ!!」
「くくっ…これ以上、私を退屈にさせるなよ」
 カーシュが睨み付けるその先で少年の姿は薄れ、空気に溶けていった。
 カーシュは遣り切れない思いを持て余すように、キリリと唇を噛み締めた。




手を取れば彼の者は失せ、幻と知る


 クロノポリス最下層にあるその扉はセルジュによって開かれ、三人は室内へと足を踏み入れた。
「漸く来たか…待ち草臥れたぞ」
 薄暗いその空間の中で、彼は邪悪な笑みを浮かべながらセルジュを見つめていた。
「キッド!」
「その娘の心は眠らせてある。少々邪魔なのでね…」
 セルジュが倒れているキッドの元に駆け寄り、少年は語り出す。それをカーシュはどこか遠い気分で聞いていた。

 三年間、ずっと抱いていた疑問。
 何故、自分は彼に隷従していたのか。
 確かに、ダリオの事は出来れば知られたくはない。
 だが、いつかは、言わなければならない時が来るのだ。
 それは、当の昔に分かっていた筈。

「カーシュ!マルチェラ!来るよ!!」
 セルジュの声にはっとすると、少年は冷たい床の中へ消えていった。
 そして、次の瞬間にはその消えた場所から巨大な人型をした機械の塊が盛り上がって出現した。
「行くぜ…!」
 カーシュはアクスを握り直すと、咆哮を上げる「フェイト」という名の敵に向かって駆け出した。




君去りて後、花咲く丘に涙して


 フェイトを倒して残ったのは、微かな歓喜と、大きな焦燥感。
 早くこの戦いを終らせたい。
 この戦いを多くの仲間に出会えた良き思い出として。
 彼に隷従していた三年間は苦い記憶として。
 早く、過去にしてしまいたかった。
「畜生…俺らしくねえ…」
 カーシュは天下無敵号の船首の一角に座り込むと、くしゃりと自分の髪に指を突っ込む。

 ザ、ザザッ……

「ん?」
 一定のリズムを刻んでいた波の音が揺れ、カーシュは顔を上げる。
「なん、だぁ?」
 カーシュの真ん前に、一抱え以上の水がふよふよと漂っていたのだ。
 水球はコポコポと音を立てながら縦長になり、それはやがて人型へと変わっていった。
「て、めえ…!」
 所々水が揺れているものの、それはその全身を黒い服に身を包み、猫科特有の鋭い眼差しをした亜人の姿だった。
「死んだんじゃ、なかったのかよ…」
 確かに自分達が戦い、セルジュが止めを刺した筈だ。
 その言葉にヤマネコは目を細めると、カーシュの頬に触れるか触れないかの所に手を伸ばし、くつくつと笑った。
――愚かな……
 膜の張ったようなくぐもった声が低く響く。彼はそう呟いたきり沈黙を纏い、カーシュを見つめた。
 カーシュがその金の眼をいぶかしげに見つめ返すと、ヤマネコはふっと笑った。
 冷酷さの中に一筋の暖かさが宿ったその笑みに、カーシュは目を見開く。

――愚かなのは、私か……

 ぱしゃんっ

 その言葉を最後に、ヤマネコの姿は弾けてただの水へと戻ってしまった。
 冷たいその水を一身に被ったカーシュは濡れて重くなった髪をかき上げた。
「何なんだよ……」
 呟くと、口内に水が僅かに入って来て、それが海水だと知る。
 海水はカーシュを包み込むように彼の服に染み込み、彼を冷やしていく。
「塩っ辛ぇ……」
 いつの間にか、海水と共に頬を伝う暖かいそれにカーシュは気付く。
「そう、か……」
 カーシュは留めなく溢れるそれを拭いもせず、彼だった海水に濡れた己の体をきつく抱きしめる。

 何故、彼の首を締められなかったのか。
 何故、今を早く思い出に…過去にしたかったのか。

「冷てぇじゃねえか……」

 声が、掠れで出ねぇ…

 


(了)